これは「泣ける!」という言葉の濫用が文学、漫画、映画などのエンターテイメント業界で成功するためのキャッチコピーとして君臨するようになったのはいつ頃からだろう。戦後では一九九〇年代後半から。八〇年代バブル崩壊のあと、少なくとも一年半から二年もあれば景気は元に戻るとされた経済評論家らの予想は決定的にはずれ、日本経済は長期に渡るさらなる不況に突入した。以後十五年ほどのあいだ精力的に就職活動を行ったものの不採用の繰り返しに遭い、当時の若年層の多くは日本社会という動物の捕えがたい動きによって打ちひしがれ叩きのめされた。「ロストジェネレーション」と呼ばれ今や四十歳代も大勢いる。それと歩みを共にしつつ、これは「泣ける!」、というキャッチコピーが定着するに及んだ。
もう一つ。「昭和歌謡」という呼び名の定着とそれへの過剰なノスタルジーが上げられる。昭和が終わり平成になって始めて「昭和歌謡」という呼び名が提案されるのは時系列的に当然のことだ。けれどもただ単なる呼び名で終わることなしに日本は今や「昭和歌謡」の前に空前の涙を搾り抜き崇め奉っている。かつて猿女君(さるめのきみ)の役割だった記紀歌謡の時代ではあるまいと思いもするが、にもかかわらず「昭和歌謡」は文句なしにもはや神々の歌舞音曲と化した。平成の三十年を通して列島各地を縦断するとともに定着した新自由主義の衝撃波は、第二波、第三波と引き続き、不況がさらなる不況を呼び寄せる悪循環のうねりを作り出し、日本は突き進むことも逃げ去ることもできないまま、遂に「ふるさと」としての「昭和歌謡」がほとんどすべての日本国民によって新しく「見出された」のである。戦後すぐ坂口安吾が述べたように「ふるさと」というものは生まれ故郷のことを指して言うわけではなく、何もかも失ってしまった人々にとってまったく何らの救いもない場において始めて出現する。
「むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.330』ちくま文庫)
そこまで徹底的に堕ちぶれ果て傷つき果てて、ようやくそこからまた始めることができると。
ところで、これは「泣ける」という条件。版元の意向抜きに直接民衆から要請され神仏の信仰の領域にまで達していた時代が中世日本にあった。
「比丘尼の生活の種は何であったか。自分の想像するところでは第一に祈祷と符籙(ふろく)の配布であったろう。頼まれれば吉凶を占い、婦女に近づきやすいために武家の家庭にも立ち入り、人の信心を起すために八百万(やおろず)の神仏の名を唱え縁起を説いたようである。かの熊野の比丘尼なども一方には三所権現(さんじよごんげん)の御札を配りながら、ある時は三世因果の絵巻物を繰りひろげて功徳を勧進しているあるいた。山鳥の尾羽(おばね)を手に持って地獄極楽の絵解(えとき)をして聞かせ、物悲しい節を附けて冥途(めいど)の淋しい旅物語に女や年寄の袖をしぼらせた」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・昔の比丘尼」「柳田国男全集5・P.315」ちくま文庫)
これは「泣ける」という条件。それが要請されたのは、日本列島の歴史だけを覗いてみても一度や二度どころの話でない。「平家物語」を聞いては泣き、「太平記」を聞いてまた泣き、「御伽草子」を聞いてさらに涙した。明治維新以後もなおこれらの物語を繰り返し振り返っては泣いていた。一方、泣いてなどいられない人々も当然いる。熊楠もその一人。一九二二年(大正十一年)、研究費調達に奔走していた熊楠は山本達雄農商務相と会う機会が持てそうだと見てとると山本の性癖を思い出し、催淫作用を持つ「紫稍花」(ししょうか)を用意した。
「小生山本氏をしてこの出迎いに間に合わざらしめやらんと思いつき、いろいろの標品を見せるうち、よい時分を計(はか)り、惚れ薬になる菌(きのこ)一をとり出す。これはインド諸島より綿を輸入したるが久しく紀州の内海(うつみ)という地の紡績会社の倉庫に置かれ腐りしに生えた物で、図のごとくまるで男根形、茎に疳癪(かんしゃく)筋あり、また頭より粘汁を出すまで、その物そっくりなり。六、七十年前に聞いたままでこれを図したる蘭人あるも、実際その物を見しは小生初めてなり。牛蒡(ごぼう)のような臭気がする。それを女にかがしむると眼を細くし、歯をくいしばり、髣髴(ほうふつ)として誰でもわが夫(おっと)に見え、大ぼれにほれ出す。それを見せていろいろ面白くしゃべると、山本問うていわく、それはしごく結構だがいっそ処女を悦ばす妙薬はないものかね。小生かねて政教社の連中より、山本の亡妻はとても夫の勇勢に堪えきれず、進んで処女を撰み下女におき、二人ずつ毎夜夫の両側に臥せしむ、それが孕めば出入りの町人に景物を添えて払い下げ、また処女を置く、しかるに前年夫人死し、その弔いにこれも払い下げられて夫ある女が来たりしを、花橘の昔のにおい床(ゆか)しくしてまた引き留め宿らせしが、情(なさけ)が凝って腹に宿り、夫の前を恥じて自殺したということを聞きおったので、それこそお出(い)でたなと、いよいよ声を張り挙げ、それはあるともあるとも大ありだが、寄付金をどっしりくれないと啻(ただ)きかる訳には行かぬというと、それは出すからとくる」(南方熊楠「履歴書」『動と不動のコスモロジー・P.368~369』河出文庫)
熊楠の意図は山本農商務相だけでなくその周辺の政府要人らにも広がり寄付金獲得に成功している。岡崎邦輔や鶴見左吉雄商務局長なども寄付に応じた。
「東京滞在中日光山へゆきし時、六鵜保(ろくうたもつ)氏(当時三井物産の石炭購入部次席)小生のために大谷(だいや)川に午後一時より五時まで膝まである寒流(摂氏九度)に立ち歩みて、ようやく小瓶に二つばかりとり集めくれたるが今にあり。防腐のためフォルマリンに入れたるゆえ万一中毒など起こしては大変ゆえ、そのうちゆっくりとフォルマリンを洗い去り尽して、大年増、中年増、新造、処女、また老婆用と五段に分けて一小包ずつ寄付金をくれた大株連へ分配せんと思う」(南方熊楠「履歴書」『動と不動のコスモロジー・P.374~375』河出文庫)
種々の性病に対する有効な治療薬がなかった頃、それでもなお異性愛同性愛を問わず様々な性愛への意志を止めることはできなかった。平安時代後期編纂の「今昔物語」を見ると、梅毒か淋病かそれとも他の病気か判然としないが、二十八、九歳の或る高貴な身分の女性が性病らしき症状を患って高名な医師のもとに押しかけ治療してもらったところ、治癒した頃を見計って医師の診療所から逃げ去って姿を消した話が載っている。
「年三十許(ばかり)なる女の、頭付(かしらつき)より始(はじめ)て、目・鼻・口、此(ここ)は弊(つたな)しと見ゆる所無く端正(たんじよう)なるが、髪極(いみじ)く長し。香(か)馥(こうば)しくて艶(えもいわ)ぬ衣共を着たり。恥かしく思(おもい)たる気色も無くて、年来(としごろ)の妹(いも)などの様に安らかに向ひたり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第八・P.273」岩波文庫)
女性は何ら臆する気配も見せず患部を診察してくれと申し出る。「女袴(はかま)の股立(ももだち)を引開(ひきあけ)て見すれば、股の雪の様に白きに、少し面(おも)腫(はれ)たり」。女性器の表面がやや腫れているようなのはわかる。が、よく見えないので差し当たり手で患部を探ってみる。すると大陰唇の「辺(ほとり)に糸(いと)近く癮(ちちぼみ)たる物有り」。「癮(ちちぼみ)たる物」は腫瘍状の患部のこと。陰毛をかき分けてよく観察すると「専(もはら)に可慎(つつしむべき)物」のようだ。ただちに治療しないと死ぬ病気である。
「『何(いか)なる事の候(さぶら)ふぞ』と問へば、女袴(はかま)の股立(ももだち)を引開(ひきあけ)て見すれば、股の雪の様に白きに、少し面(おも)腫(はれ)たり。其の腫頻(すこぶる)心不得(こころえず)見ゆれば、袴の腰を令解(とかしめ)て前の方を見て、毛の中にて不見へ(みえず)。然れば、頭、手を以て其を捜れば、辺(ほとり)に糸(いと)近く癮(ちちぼみ)たる物有り。左右の手を以て毛を掻別(かきわけ)て見れば、専(もはら)に可慎(つつしむべき)物也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第八・P.273~274」岩波文庫)
性愛を堪能するにも命がけの時代だった。そのような時代が長く続き、打ち続く戦乱の世の果てに熊野の比丘尼たちも絵解だけでは生きていけなくなり、江戸時代一杯を通して徐々に遊女から聖性が剥ぎ取られ、近代になるや遂にただ単なる売春婦と化していったと考えられる。ところで今引いた今昔物語の顛末をいうと、よほど高貴な女性だったからかも知れないが、病が癒えるや脱走して姿をくらました。医師は治療が済めば女性を自分の慰みものにして遊んでやろうと思っていたのに惜しいことをしたと悔やんだらしい。西鶴は書いている。
「江戸じやとても、落してある銀(かね)はなし、去時、大門(もん)筋(すじ)の仕舞棚(しまいたな)に、昔、、長持(ながもち)の、目出度(たく)も、煙(けむり)幾度か、のかれしを、誰(たれ)が持(もち)あきて、今(いま)、売物となりぬ。有人、もとめて、中を洗(あら)へば、雲紙(くもかみ)まくれて、弐重底(ぢうぞこ)に、百両包(つつみ)にして、あきどもなく、ならへ置(を)く、此者、俄長者(にわかちやしや)となりぬ」(井原西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕・卷四・四・忍(しの)び川は手洗(たらい)が越(こす)・P.160」岩波文庫)
というような旨い話はもはやないと。
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もう一つ。「昭和歌謡」という呼び名の定着とそれへの過剰なノスタルジーが上げられる。昭和が終わり平成になって始めて「昭和歌謡」という呼び名が提案されるのは時系列的に当然のことだ。けれどもただ単なる呼び名で終わることなしに日本は今や「昭和歌謡」の前に空前の涙を搾り抜き崇め奉っている。かつて猿女君(さるめのきみ)の役割だった記紀歌謡の時代ではあるまいと思いもするが、にもかかわらず「昭和歌謡」は文句なしにもはや神々の歌舞音曲と化した。平成の三十年を通して列島各地を縦断するとともに定着した新自由主義の衝撃波は、第二波、第三波と引き続き、不況がさらなる不況を呼び寄せる悪循環のうねりを作り出し、日本は突き進むことも逃げ去ることもできないまま、遂に「ふるさと」としての「昭和歌謡」がほとんどすべての日本国民によって新しく「見出された」のである。戦後すぐ坂口安吾が述べたように「ふるさと」というものは生まれ故郷のことを指して言うわけではなく、何もかも失ってしまった人々にとってまったく何らの救いもない場において始めて出現する。
「むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.330』ちくま文庫)
そこまで徹底的に堕ちぶれ果て傷つき果てて、ようやくそこからまた始めることができると。
ところで、これは「泣ける」という条件。版元の意向抜きに直接民衆から要請され神仏の信仰の領域にまで達していた時代が中世日本にあった。
「比丘尼の生活の種は何であったか。自分の想像するところでは第一に祈祷と符籙(ふろく)の配布であったろう。頼まれれば吉凶を占い、婦女に近づきやすいために武家の家庭にも立ち入り、人の信心を起すために八百万(やおろず)の神仏の名を唱え縁起を説いたようである。かの熊野の比丘尼なども一方には三所権現(さんじよごんげん)の御札を配りながら、ある時は三世因果の絵巻物を繰りひろげて功徳を勧進しているあるいた。山鳥の尾羽(おばね)を手に持って地獄極楽の絵解(えとき)をして聞かせ、物悲しい節を附けて冥途(めいど)の淋しい旅物語に女や年寄の袖をしぼらせた」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・昔の比丘尼」「柳田国男全集5・P.315」ちくま文庫)
これは「泣ける」という条件。それが要請されたのは、日本列島の歴史だけを覗いてみても一度や二度どころの話でない。「平家物語」を聞いては泣き、「太平記」を聞いてまた泣き、「御伽草子」を聞いてさらに涙した。明治維新以後もなおこれらの物語を繰り返し振り返っては泣いていた。一方、泣いてなどいられない人々も当然いる。熊楠もその一人。一九二二年(大正十一年)、研究費調達に奔走していた熊楠は山本達雄農商務相と会う機会が持てそうだと見てとると山本の性癖を思い出し、催淫作用を持つ「紫稍花」(ししょうか)を用意した。
「小生山本氏をしてこの出迎いに間に合わざらしめやらんと思いつき、いろいろの標品を見せるうち、よい時分を計(はか)り、惚れ薬になる菌(きのこ)一をとり出す。これはインド諸島より綿を輸入したるが久しく紀州の内海(うつみ)という地の紡績会社の倉庫に置かれ腐りしに生えた物で、図のごとくまるで男根形、茎に疳癪(かんしゃく)筋あり、また頭より粘汁を出すまで、その物そっくりなり。六、七十年前に聞いたままでこれを図したる蘭人あるも、実際その物を見しは小生初めてなり。牛蒡(ごぼう)のような臭気がする。それを女にかがしむると眼を細くし、歯をくいしばり、髣髴(ほうふつ)として誰でもわが夫(おっと)に見え、大ぼれにほれ出す。それを見せていろいろ面白くしゃべると、山本問うていわく、それはしごく結構だがいっそ処女を悦ばす妙薬はないものかね。小生かねて政教社の連中より、山本の亡妻はとても夫の勇勢に堪えきれず、進んで処女を撰み下女におき、二人ずつ毎夜夫の両側に臥せしむ、それが孕めば出入りの町人に景物を添えて払い下げ、また処女を置く、しかるに前年夫人死し、その弔いにこれも払い下げられて夫ある女が来たりしを、花橘の昔のにおい床(ゆか)しくしてまた引き留め宿らせしが、情(なさけ)が凝って腹に宿り、夫の前を恥じて自殺したということを聞きおったので、それこそお出(い)でたなと、いよいよ声を張り挙げ、それはあるともあるとも大ありだが、寄付金をどっしりくれないと啻(ただ)きかる訳には行かぬというと、それは出すからとくる」(南方熊楠「履歴書」『動と不動のコスモロジー・P.368~369』河出文庫)
熊楠の意図は山本農商務相だけでなくその周辺の政府要人らにも広がり寄付金獲得に成功している。岡崎邦輔や鶴見左吉雄商務局長なども寄付に応じた。
「東京滞在中日光山へゆきし時、六鵜保(ろくうたもつ)氏(当時三井物産の石炭購入部次席)小生のために大谷(だいや)川に午後一時より五時まで膝まである寒流(摂氏九度)に立ち歩みて、ようやく小瓶に二つばかりとり集めくれたるが今にあり。防腐のためフォルマリンに入れたるゆえ万一中毒など起こしては大変ゆえ、そのうちゆっくりとフォルマリンを洗い去り尽して、大年増、中年増、新造、処女、また老婆用と五段に分けて一小包ずつ寄付金をくれた大株連へ分配せんと思う」(南方熊楠「履歴書」『動と不動のコスモロジー・P.374~375』河出文庫)
種々の性病に対する有効な治療薬がなかった頃、それでもなお異性愛同性愛を問わず様々な性愛への意志を止めることはできなかった。平安時代後期編纂の「今昔物語」を見ると、梅毒か淋病かそれとも他の病気か判然としないが、二十八、九歳の或る高貴な身分の女性が性病らしき症状を患って高名な医師のもとに押しかけ治療してもらったところ、治癒した頃を見計って医師の診療所から逃げ去って姿を消した話が載っている。
「年三十許(ばかり)なる女の、頭付(かしらつき)より始(はじめ)て、目・鼻・口、此(ここ)は弊(つたな)しと見ゆる所無く端正(たんじよう)なるが、髪極(いみじ)く長し。香(か)馥(こうば)しくて艶(えもいわ)ぬ衣共を着たり。恥かしく思(おもい)たる気色も無くて、年来(としごろ)の妹(いも)などの様に安らかに向ひたり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第八・P.273」岩波文庫)
女性は何ら臆する気配も見せず患部を診察してくれと申し出る。「女袴(はかま)の股立(ももだち)を引開(ひきあけ)て見すれば、股の雪の様に白きに、少し面(おも)腫(はれ)たり」。女性器の表面がやや腫れているようなのはわかる。が、よく見えないので差し当たり手で患部を探ってみる。すると大陰唇の「辺(ほとり)に糸(いと)近く癮(ちちぼみ)たる物有り」。「癮(ちちぼみ)たる物」は腫瘍状の患部のこと。陰毛をかき分けてよく観察すると「専(もはら)に可慎(つつしむべき)物」のようだ。ただちに治療しないと死ぬ病気である。
「『何(いか)なる事の候(さぶら)ふぞ』と問へば、女袴(はかま)の股立(ももだち)を引開(ひきあけ)て見すれば、股の雪の様に白きに、少し面(おも)腫(はれ)たり。其の腫頻(すこぶる)心不得(こころえず)見ゆれば、袴の腰を令解(とかしめ)て前の方を見て、毛の中にて不見へ(みえず)。然れば、頭、手を以て其を捜れば、辺(ほとり)に糸(いと)近く癮(ちちぼみ)たる物有り。左右の手を以て毛を掻別(かきわけ)て見れば、専(もはら)に可慎(つつしむべき)物也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第八・P.273~274」岩波文庫)
性愛を堪能するにも命がけの時代だった。そのような時代が長く続き、打ち続く戦乱の世の果てに熊野の比丘尼たちも絵解だけでは生きていけなくなり、江戸時代一杯を通して徐々に遊女から聖性が剥ぎ取られ、近代になるや遂にただ単なる売春婦と化していったと考えられる。ところで今引いた今昔物語の顛末をいうと、よほど高貴な女性だったからかも知れないが、病が癒えるや脱走して姿をくらました。医師は治療が済めば女性を自分の慰みものにして遊んでやろうと思っていたのに惜しいことをしたと悔やんだらしい。西鶴は書いている。
「江戸じやとても、落してある銀(かね)はなし、去時、大門(もん)筋(すじ)の仕舞棚(しまいたな)に、昔、、長持(ながもち)の、目出度(たく)も、煙(けむり)幾度か、のかれしを、誰(たれ)が持(もち)あきて、今(いま)、売物となりぬ。有人、もとめて、中を洗(あら)へば、雲紙(くもかみ)まくれて、弐重底(ぢうぞこ)に、百両包(つつみ)にして、あきどもなく、ならへ置(を)く、此者、俄長者(にわかちやしや)となりぬ」(井原西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕・卷四・四・忍(しの)び川は手洗(たらい)が越(こす)・P.160」岩波文庫)
というような旨い話はもはやないと。
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