白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・使者バルナバスの不安と手紙〔書類・公文書〕の価値変化

2022年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム
オルガの説明を延々と長引かせている原因は城の機構が複雑過ぎるからではない。オルガの説明は城の機構に関する説明の部分にはなっていても説明を延々と長引かせる原因にはなり得ない。にもかかわらずオルガの話をうんざりするほど長大なものへと長引かせてしまうのはオルガに対するKの態度から到来する。次の箇所はクラム宛のKの手紙とK宛のクラムの手紙がなぜ時間的にも内容面でも倒錯したものへ変換されるのかについて、オルガが語るシーン。

「『なるほど』と、Kは言った。『バルナバスは、命令をもらうまでに、長いあいだ待たされるんですね。それは、わからないことでもありませんよ。どうやら当地には掃いて捨てるほど使用人がいるようですからね。だれもが毎日仕事をもらえるとはかぎらない。あんたがたがそのことで不平をこぼすのは、筋ちがいというものです。おそらく、だれだってそうなんでしょうから。しかし、最後には、バルナバスだって、仕事がもらえる。これまでにも、ぼくに手紙を二通もってきてくれましたからね』。『わたしたちが泣きことをいうのは、まちがっているかもしれません。わたしの場合は、特にそうですわ。すべてのことを話に聞いて知っているだけですし、女ですから、バルナバスのようによく理解することもできません。それに、バルナバスにしたって、まだ隠していることがいろいろあるんですもの。だけど、つぎには、手紙がどういうものか、たとえば、あなたあての手紙がどういうものか、それをお話ししましょう。バルナバスは、こうした手紙を直接クラムから受けとるのではなく、書記からもらうのです。いつでもいいんですが、ある任意の日の任意の時間にーーーだから、この勤めも、一見らくなように見えますが、とても疲れるんです。と言いますのは、バルナバスは、たえず注意をくばっていなくてはならないからですわ。とにかく、ある日のある時間に書記が、バルナバスのことを思いだしてくれて、彼に合図をします。これは、全然クラムが指定したのではないようです。彼は、静かに本に首をつっこんでいるだけです。ときおり、といっても、ふだんでもちょっしゅうしていることなんですが、たまたまバルナバスが行ったときに、クラムが鼻眼鏡をふいていることがあります。そういうときには、あるいはバルナバスの姿を眼にとめてくれるかもしれません。もっとも、クラムが眼鏡をかけずにものが見えるとしての話ですが、バルナバスは、それを疑っています。クラムは、そういうとき、眼をほとんどとじているのです。まるで眠っているようで、夢のなかで眼鏡をふいているとしか見えないそうです。そうこうしているうちに、書記は、机の下に置いてあるたくさんの書類や手紙類のなかから、あなたあての手紙をさがしだします。ですから、それは、そのとき書いたばかりの手紙ではないんです。むしろ、封筒の状態から判断すると、非常に古い手紙で、長いこと机の下に放置されていたのです。けれども、それが古い手紙であるのなら、なぜバルナバスをこんなに長いあいだ待たせておいたのでしょう。そして、おそらくあなたをも。そして、最後には、手紙をも、だって、そんな手紙なんか、いまじゃ反故(ほご)同然なんですもの。しかも、そのおかげで、バルナバスは、けしからん、のろまな使者だという評判をたてられてしまうんです。書記のほうは、もちろん、平気なもので、バルナバスに手紙を渡すと、<クラムからKにあててだ>というだけです。これだけで、バルナバスは退出です。さて、それから、バルナバスは、家へ帰ってきます。息を切らせて、やっとのことで手に入れた手紙をシャツの下の肌身(はだみ)に巻きつけて帰ってくるのです』」(カフカ「城・P.299~300」新潮文庫 一九七一年)

Kとクラムとの<あいだ>に入って両者の連絡役を演じることができるのはバルナバスが城の機構の部分機械として認められているからである。それ以外のことはバルナバス自身にも理解できない。理解できないことがさらなる疑惑の念をバルナバスに抱かせることになってしまっている。さらにオルガがすでに付け加えて述べたように、「しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか」、という疑惑がバルナバス一家全体に重々しくのしかかっている。その点はわきまえた上でKは差し当たり手紙〔書類・公文書〕が城の内部でどのように取り扱われているかをよりいっそう追求する。オルガは説明を再開する。ところがこれまたオルガの話を延々と長引かせる方向へ働くばかりで一向に埒が明かない。

「『で、手紙のほうは、どうなってしまうんですか』。『手紙のことですか。しばらくしてから、もちろん、そのあいだに何日か、何週間かすぎてしまっていることもありますが、わたしがうるさいほどせめたてると、バルナバスは、やっぱり手紙をとりあげて、とどけに出かけます。こういう走り使いのような仕事のことだけなら、あの子は、わたしの言うとおりになるんです。つまりね、わたしは、彼が話してくれたことの最初の印象さえ消してしまったら、また落着きをとりもどせるのですが、あの子は、たぶんわたしよりも事情をよく知っているせいでしょうが、それができないのです。そういうときは、こんなことでも幾度も言ってやれるのです。<いったい、あんたは、どんなことをのぞんでいるの、バルナバス。どんな人生を、どんな目標を夢みているの。わたしたちを、このわたしをも見すてなくてはならないほどの高い望みをいだいてでもいるの。わたしたちを見すてることがあんたの目標なの。そうおもわざるをえないじゃないの。だって、そうとでも考えなかったら、あんたがこれまでになしとげてきたことになぜひどく不満をいだいているのか、わけがわからないんですもの。まわりを見てごらんなさい。わたしたちの隣人のなかであんたほど偉くなった人がいるかしら。もちろん、あの人たちとわたしたちとでは、境遇がちがいます。あの人たちは、生活をもっと高いところへ引きあげていこうとするなんの理由ももっていません。でも、他人とくらべてみるまでもなく、あんたは万事が文句なしにうまくいっていることぐらいはわかるじゃありませんか。障害もあるでしょう。疑わしいことや失望することもあるでしょう。だけど、わたしたちがとっくに知っているように、それは、棚(たな)からぼた餅(もち)は落ちてこないということにすぎないのよ。どんなにつまらぬものでも、あんたがひとつひとつ自分で戦いとっていかなくてはならないということよ。それは、あんたが誇りを高くする理由にこそなれ、へこたれてしまう理由にはならないわ。それに、あんたは、わたしたちのためにも戦ってくれているのでしょ。それは、あんたにとってまるで意味のないことかしら。それは、あんたに新しい力を鼓吹してくれないの。わたしは、あんたのような弟をもって、とても幸福だし、ほとんど自惚(うぬぼれ)を感じているほどなんだけど、このことも、あんたになんの安心感もあたえないの。ほんとうに、あんたがお城でなしとげたことには幻滅なんか感じないけれど、わたしがあんたにどれだけのことをしてあげられたかということを考えると、あんたにがっかりさせられてしまうわ。あんたは、お城に行くことができるし、いつでも官房に出入りし、一日じゅうクラムとおなじ部屋ですごし、公式にみとめられた使者であり、官服だって要求できるし、重要な書面も配達させてもらえる。あんたは、それだけの人間であり、それだけの信用を受けているのよ。そのあたんがお城から戻ってくると、幸福のあまり泣きながらわたしと抱きあうどころか、わたしの顔を見るなり、すべての力がなくなったみたいで、あらゆることを疑いだす。あんたのこころを惹(ひ)くのは、靴つくりの仕事だけで、わたしたちの未来を保証してくれるはずの手紙も、うっちゃらかしたままにしておくのね>と、わたしは、あの子にこんなふうに言ってやるのです。こんなことを何日かくりかえしていると、そのうちにため息まじりに手紙をとりあげて、とどけに出かけていきますわ』」(カフカ「城・P.301~302」新潮文庫 一九七一年)

これだから官僚制度は破滅的なのだというべきだろうか。とすれば今の日本の官僚制度はカフカ作品の登場人物たちが語っている以上に破滅的だ。つい最近、財務省近畿財務局の職員が自殺し訴訟が起きるという事態が発生した。だがマスコミ報道を見ている限り、ほとんど何もかもがうやむやなまま闇の奥深くへ葬り去られてしまった印象が拭いきれない。現在、日本の国家公務員の総数は約五十八万人。官僚の民間化と民間の官僚化とが手を携えて加速的に進められていく現状だとますます闇は奥深く底はいよいよ無いに等しくなってくるに違いない。日本社会の中で自殺へ追い込まれた職員はこれら諸関係の所産にほかならない以上、職員を自殺へ追いやった責任は、日本の有権者すべてに渡ってすでに分かち持たれているということを忘れてはならないだろう。

ソ連の場合、持ち堪えきれず崩壊することで内部の闇の深刻さがどれほどのものだったか、ようやくあかるみに出された経緯がある。日本はどうか。将来を悲観することなくもっと前向きな<未来志向>で「官僚の民間化と民間の官僚化」が今後何を出現させるかという問題に取り組むのがよりよいのではと思われる。そしてなおかつ、そこにもし深淵が横たわっているなら深淵をもっとずっと奥深くじっくり覗き込み検証することが大切だろう。ニーチェはいう。

「怪物と戦う者は、自分もまた怪物とならないように用心するがよい。そして、君が長く深淵を覗(のぞ)き込むならば、深淵もまた君を覗き込む」(ニーチェ「善悪の彼岸・一四六・P.120」岩波文庫 一九七〇年)

ところでしかし手紙〔書類・公文書〕はどんな行方をたどるのか。カフカは別のところでこう書いている。

「だが、そうはならない。使者はなんと空しくもがいていることだろう。王宮内奥の部屋でさえ、まだ抜けられない。決して抜け出ることはないだろう。もしかりに抜け出たとしても、それが何になるか。果てしのない階段を走り下りなくてはならない。たとえ下りおおせたとしても、それが何になるか。幾多の中庭を横切らなくてはならない。中庭の先には第二の王宮がとり巻いている。ふたたび階段があり、中庭がひろがる。それをすぎると、さらにまた王宮がある。このようにして何千年かが過ぎていく。かりに彼が最後の城門から走り出たとしてもーーーそんなことは決して、決してないであろうがーーー前方には大いなる帝都がひろがっている。世界の中心にして大いなる塵芥の都である。これを抜け出ることは決してない。しかもとっくに死者となった者の使いなのだ。しかし、きみは窓辺にすわり、夕べがくると、使者の到来を夢見ている」(カフカ「皇帝の使者」『カフカ寓話集・P.10』岩波文庫 一九九八年)

短編「万里の長城」の中に同じ文章が組み込まれている。どちらが先でどちらが後かという問題は問題にならない。なぜならカフカが読者に向けて語っているのは「官僚制度・ファシズム・資本主義」と、いずれの場合にしてもどんな個人も漏れなくこれら三つの機構の一つか二つか三つとも同時にか、それらの部分としてあらかじめ組み込まれるほかないということだからである。さらに実際、破格的な速度で実現したネット社会の世界化は、諸個人を「官僚制度・ファシズム・資本主義」すべてが織りなす複合体の部分としての機能を演じるよう変換することに成功した。その動きに伴い言語のシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)とが常に乖離しているように、一人の人間がずっと一つの職業に就いているのではなくむしろ乖離しており、いつどんな時でも別の職業へ移動するケースを頻繁に発生させるようになってきた。この動きは同時に家庭〔家族〕形態の多様性をさらに拡大する方向へも作用するしますます大きく作用している。血縁関係という絶対主義的結びつきは加速的に姿を消し、血縁関係はどんどん乖離し、逆に血縁かどうかを問題としない無限に多様な形態の家庭〔家族〕を出現させる。これらはすべて同時に進行していく。資本主義の欲望は政治家・財界人・高級官僚たちが口にするより遥かに異次元のレベルで、もっとずっと「善悪の彼岸」を目指す<未来志向>であるほかない。

カフカ「皇帝の使者」から引用したが、「万里の長城」では次のフレーズが続いている。

「このように民衆は絶望と希望のいりまじったまなざしでもって皇帝を見つめている」(カフカ「万里の長城」『カフカ短編集・P.249』岩波文庫 一九八七年)

しかし世界にはもはや全世界の頂点に位置する「皇帝」などどこにもいない。「思想・信仰の自由」の枠内に限り存在するとしても。とすると民衆の「絶望と希望のいりまじったまなざし」が「見つめている」のは一体何なのか。よくわからない。しかし民衆はただひたすら、まったくの絶望ではなくまったくの希望でもない「民主主義<のような>もの」をぼんやり探しているばかりの「宙ぶらりん」状態をさまよっており、今後ますますさまよい続けるほかまるで何一つ見出せなくなっていく。

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