白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・戦後国家神道の商業資本化と<諸断片>としてのカフカが語るもの

2022年01月04日 | 日記・エッセイ・コラム
赤松啓介に言わせるとこうなる。

「敗戦直後の長田神社の鬼追い行事をみて、私は自ら日本人であることが悲しくなるほどあきれはてた。太刀を持つべき鬼が、なんと御幣をもたされて踊っているではないか。正面の特別席で占領軍将兵や外国人が居並んで見物しているのは、まあよろしい。しかしなぜ太刀を、御幣に代えねばならないのか、その意味がわからないのだ。いや、わからないというのは私の日本人としての自尊心が、その真相に迫るのが恥かしくて思考を停止させたからである。僅か半年前まで、『祈武運長久』とか、『祝出征』の長旗や日の丸の小旗を振って、多くの出征兵士とその家族、隣組、会社工場の同僚たちが神門をくぐったはずだ。戦争に負けるのはしようがないし、占領軍が監視にくるのもやむをえないだろう。しかし古い儀式の慣例を破って、なぜ太刀を御幣に代えねばならないのか。かりに占領軍が命令したとしても、日本の神さまともあるものが唯々諾々と持ち変えるなど言語道断の話である。私みたいな人間でも、そうした横車を押してくるなら、たかが鬼追い行事ぐらい中絶するし、それでもなお脅してくるなら社殿を焼き払うぐらいのことはするだろう。しかし実情はそうしたものではなく、強権に媚びた自己規制だと推断して誤りあるまい。長田の神め、お家芸の『神風』もよう吹かせず、あれだけ出征兵士や家族たちが懸命に祈ったにもかかわらず、おめおめと敵に本土まで占領させるとは、とんでもないフヌケの神だ。お前らに破邪顕正の太刀などいまさら持たせられるか、少しでも恥かしい思いをして御幣でも振っておれ、という忠告の意味ならわかる。私どもはもう軍国主義を捨てましたから、その表徴である太刀をもたせることは廃止しました。御幣は平和のシンボルでございますので、その祈願のためにもたせることにいたしました、というのが本音だろう。それでは『戦勝』を信じて武運長久を祈った出征兵士や家族たち、国民はペテンにかけられたことになる。まあ日本の神仏というのはその程度のものだから、いまさら怒るほどのことはないが、そういう機会主義、占領軍への弱者のへつらいを悲しく思う。占領軍が居なくなると、また御幣を太刀に戻したことからみても、この推理が当たっているのを遺憾とする。そうすると神たちはもう平和を捨てて、ふたたび軍靴の響きと『祈武運長久』の長旗が境内に溢れる日を待ち望み、官幣中社に復活、国家管理を夢見ていると考えてよい。復活を待望しているのは靖国神社だけではなく、八百八万の神たちということになるが、私はこうした無節操な神たちに日本の将来を委ねようとは思わぬし、かれらの祭礼行事、儀式などの一貫性を信じないだろう」(赤松啓介「性・差別・民俗・二・村の祭礼と差別・三・ムラとマツリ・P.176~178」河出文庫 二〇一七年)

この文章のシニフィエ(意味部分)について、例えば太宰治が述べるとしよう。すると作品「トカトントン」にとてもよく似た小説が出来上がるに違いない。それも絶望的なまでにそっくりな。ところで赤松はこう続けている。

「まあ、そう堅いこといいなはんな、神さんも商売でっさかいに、そのとき、そのときに合った販売方法を考えな食っていけまへん。そうでっしゃろ。それならわかりますがなあ、そのかわりあんまり威張るのはやめなあきまへんでえ。今度負けたら、もうどうしようもおまへんやろ。いや日本人いうのは根っからの阿呆やさかい、なんべん負けても、だましてもお参りしまっせ。思い切りの悪い女と同じで、だましたるほどのぼせてお参りにきて、あんじょうに賽銭あげてくれまっせ。へえ、結構な御商売で、それに税金は一文もとられへんし、やっぱりわれわれにはエンがおまへんわ。そもそも追儺、節分の行事は古代中国で道教と仏教が複合した形で成立し、日本へ伝来してから、また、神道とも複合したらしいものだ。仏教伝来以前の古い神道ーーーというようなものは存在しなかったが、原始信仰らしいものと仏教との複合で『神道』が成立したと思われるーーーの実態はまだ明らかでない」(赤松啓介「性・差別・民俗・二・村の祭礼と差別・三・ムラとマツリ・P.178~179」河出文庫 二〇一七年)

さて第一に前者について。重要な箇所は始めに「太刀」を「御幣」へ置き換え、次に「御幣」を「太刀」へ置き換えた点。可能なだけでなく実際に置き換えたという動かしようのない歴史を持っている点。なぜ置き換えることができたか。「朝鮮戦争」勃発で逆コースを演じなければ許されない敗戦国の使命を背負わされたからにほかならない。赤松が「『戦勝』を信じて武運長久を祈った出征兵士や家族たち、国民はペテンにかけられたことになる」というように、頭の中ばかりか全身でいとも容易に態度をがらりと豹変させる切り換えの速さは世界一かも知れない。しかし戦前戦中はなぜそれができなかったのか。不可解でならない。少なくとも戦後生まれ世代にとってはどこまでも行っても体の周囲に奇妙な違和感を覚えずにはいられない。何かひとこと言うだけならまだしも言えば言うほど肩身の狭い思いをしなくてはならないかのような全体主義的空気が日本全国に浸透している。というより、一九八〇年代バブルの時期すでにそれは一通りの完成を見た後だったというべきだろう。そして次に、一度試みた「太刀から御幣」/「御幣から太刀」への置き換えの成功によって両者の<あいだ>に「等価性」が創設された点。資本主義社会であるにもかかわらず、<質的量的算定抜き>で、「太刀<と>御幣」との等価交換がなされるという空前の事態が発生した。ニーチェはいう。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)

そうして始めて人間の均質化が可能となったわけだが、しかし一度人間の身体でこの試みが成就されるや、別々に考えられなければならない個別的案件のすべてがなぜか同様に取り扱われても構わない<かのように>生物であろうと死物であろうとなかろうと何ものをも恐れずありとあらゆる交換関係がどんどん押し進められてきた。そして敗戦国日本では「x量の太刀=y量の御幣。またはx量の太刀はy量の御幣に値する」という等式を出現させた。だがしかし、それは事情次第でいつでも解除できる。前提条件の一つは少しも変わっていないからである。その前提条件は次の通り。

「ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。現に存在するもの、何らかの仕方で発生したものは、それよりも優勢な力によって幾たびとなく新しい目標を与えられ、新しい場所を指定され、新しい功用へ作り変えられ、向け変えられる。有機界におけるすべての発生は、一つの《圧服》であり、《支配》である。そしてあらゆる圧服や支配は、さらに一つの新解釈であり、一つの修整であって、そこではこれまでの『意識』や『目的』は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまわなければならない。ある生理的器官(乃至はまたある法律制度、ある社会的風習、ある政治的慣習、ある芸術上の形式または宗教的儀礼の形式)のもつ《功用》をいかによく理解していても、それはいまだその発生に関する理解をもっていることにはならない。こう言えば、旧套に馴れた人々の耳には随分と聞きづらく不快に響くかもしれない、ーーーというのは、古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見る《ために》作られ、手は摑む《ために》作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰する《ために》発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有する者を支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの《標証》にすぎない。従ってある『事物』、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、それの諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し交替するだけである。してみれば、ある事物、ある慣習、ある器官の『発展』とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力と負担とで達せられる《進歩》ではなお更ない。ーーーむしろ、事物乃至は器官の上に起こる多少とも深行的な、多少とも相互に独立的な圧服過程の連続であり、同時にこの圧服に対してその度ごとに試みられる反抗であり、弁護と反動を目的とする思考的な形式変化であり、更に旨く行った反対活動の成果でもある。形式も固定したものでないが、『意味』はなお一層固定したものでない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十二・P.88~90」岩波文庫 一九四〇年)

まだまだ未解明な装置を人間は自分の身体の内部に持っている。未解明である以上、一度打ち立てた「x量の太刀=y量の御幣。またはx量の太刀はy量の御幣に値する」という等式を、いつどんな時でも再び不等式へと転倒させることができる。資本主義社会であるがゆえに。従って敗戦がもたらした風景の変化の一つとして、日本における欧米型の<神の死>は原爆投下によるほかなかったということなのかもしれない。とするとまた同じ問いが目の前にぶら下がることになる。<戦前戦中はなぜそれができなかったのか>と。赤松のいうように「国民はペテンにかけられた」と。そして今なお見た目ばかりを取り換えただけで相変わらず進行している横着極まりない「ペテン」があると。その代償はいずれ利子を付け加えて日本政府宛に環流してくる。何十年先になるかはわからないにせよ。いずれ必ずやって来る。それが到着した時点で額面がどれほど巨額にのぼっているのかまだわからないにせよ、その代償を支払わねばならない立場に置かれているのは一体誰か。有権者が支払うのか。少なくとも有権者が決めることだ。とすれば今のところすべての国会議員に妥当として「算定しうべきものに《された》」債務全額をそれぞれの責任において負担しなければならないのでは、と思うのである。この「算定しうべきものに《された》」という実状に関し、今なお特定の大学内部で開催されている「ミスコン/ミスターコン」というテーマ系があるのだが、それはもっと後の機会に述べたい。大学というところは国立はもちろん私学も助成金で賄われている要素が幾らもある。どんな意図のもとで税金が助成金名目で何に使用されているのか。貧困世帯が増えれば増えるほど大学事務局並びに大学理事会にはじわじわと嫉妬深いイスラエルの神にも似た熱視線が注ぎ込まれることになる。にもかかわらず学内で「ミスコン/ミスターコン」を開催すればただちに助成金の使徒と意図とについて誰もが納得のいく説明を求めてミクロ単位の抗議行動へ殺到することになる。貧困がミクロ単位へ浸透した結果なのであり、大学とその関連機関が一体となって世界のネット化を押し進めた結果でもあるため、責任者層は逃げようにも逃げ場がない。もしそれが嫌だというのなら学外でやればいいのではと思っている人々はうなぎ昇りに昇りつめていき、放置すれば暴徒と化したりはしないぶん、日本国内に再び不穏な心臓をもう一つ生み落とすことになるのは目に見えている。だから今のうちに。何か打つ手はないのかと。

第二に後者について。

「原始信仰らしいものと仏教との複合」と赤松はいうのだが、この「原始信仰らしいもの」とはそもそも何のことをいうのか。そこでようやく再びアルトーの出番が出てくる。一度はデリダの手堅い<読み>によって解体されたかに見えたものが、しかしドゥルーズ=ガタリの手に渡るとまた違った怪物じみた容貌でこちらを振り向きつつ出現する。「器官なき身体」への<意志>として。「タラウマラ」や「ヘリオガバルス」の書き手として。アルトーが接近しようとしたものは通俗的に「アニミズム」とか「アルカイック」とか呼ばれている恐ろしく古い、前=歴史時代の村落共同体に君臨した<流動する力>だった。とはいえそれが紛れもないカフカ作品のところどころに描き込まれている。カフカが残した種々の<断片>。それが<断片>でしかないのは<断片>として描くほか方法がないものだからである。実際のカフカは成績優秀な社会人だった。社会人の世界ではしばしば隠れプロとも言うべき俊才を見かけることが少なくない。どの分野においても探せばなぜか満遍なく必ずいる。生きていくためには職業を持っていなくては生きていくことができない。だから会社に入ったり公務員になったりする。空いた時間だけに限りだが自由に好きなことに打ち込むことができる。しかしその技術はしばしばプロを遥かに凌駕していることがないわけではない。紙の媒体が大手を振っていた時代はすでに終わろうとしている。前後してネット社会の世界化とともに仰天するほど一芸に秀でた人材が実は幾らもいるということがあれよという間にわかってきた。ネット時代に生まれ合わせはしなかったけれどもカフカは間違いなくそいういうタイプの一人。たまたまちょっとばかりの短編をばらばらに書き溜めていたに過ぎない。

しかしなるほど作品「城」はまとまった形式を取って見えはするものの<作品>という言葉の力によって実はそれがばらばらに書き継がれた諸々の<断片>のモザイクだということを覆い隠してしまうだけのことだ。しかしそれはそれとして、カフカ作品に共通して見られる暗い部分がある。おそろしく古い臭いがする。赤松啓介がカフカとはまったく関係のないところで「原始信仰らしいもの」と述べている何ものかと、カフカの諸断片の中に組み込まれているアニミズム的で前=歴史時代的な何ものかとは実は同じものを指しているといって差しつかえない。カフカ作品には超近代的な機構と超古代的なアニミズムとが共存している。従来からアプリオリに<こうだ>と取り違えられ意図的にまとめ上げられ読み継がれてきたその前の諸断片のまま、改めて読み換えられなくてはそもそもどういうありようをしていたのかさっぱりわからない。カフカの不幸はカフカの生涯にあるのではまるでない。ニーチェのいう「遠近法的取り違え」によって倒錯した<読み方>で拾い上げられ、そのような<読み>が何一つ疑われることなく相続されてきたことだと言わねばならない。手続き上最初に取りかかるべき作業はこれまで通用してきた「遠近法的取り違え」からカフカの諸断片を解放してやることだろう。そうでなければ二十一世紀になってますます違和感も存在感も共に増すばかりのカフカへどうアプローチするのが有効か有効でないかなど見えてくるはずがないのである。

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