二人の助手を捕まえて大声を張り上げる男性教師。
「『薪小屋(まきごや)に押し入るようなことをしたのはだれだ!犯人は、どこにいるんだ!ひねりつぶしてくれるぞ!』」(カフカ「城・P.220」新潮文庫 一九七一年)
助手たちを捕まえて助手たちそれぞれに詰問するのならわかるが、捕まえて両手に吊し上げながらあえて周囲に向けて大声で詰問する。どこにでも見られる光景だ。しかし人々はなぜそうするのか。まるでほかに<真犯人がいるに違いない>といわんばかりに。この箇所で疑われているのは明らかにK。しかしなぜKが疑われているのか。そこでとっさに<自分がやった>と名乗り出たのはフリーダ。
「『先生、わたしがやったのです。ほかにどうしようもなかったことですわ。言いつけられたとおり朝早くから教室をあたためておくには、どうしても薪小屋の扉をあける必要がありました。夜中にあなたのところへ鍵(かぎ)をいただきにいくことはできませんでしたし、主人は、縉紳館(しんしんかん)のほうへ行っていました。もしかしたら、一晩帰らないかもしれないとおもったので、わたしひとりで決心しなくてはならなかったのです』」(カフカ「城・P.221」新潮文庫 一九七一年)
フリーダの筋の通った説明にもかかわらず男性教師はもう一度改めて助手たちに尋ねる。助手たちは答える。
「『旦那(だんな)さんでさ』と、ふたりは答えて、疑われないようにKのほうを指さした」(カフカ「城・P.221」新潮文庫 一九七一年)
フリーダはもう一度<自分がやった>と主張する。次の発言はKのみならず助手たちをも危機から救う伏線の機能を果たしもする。
「『わたしたちの助手は、まるで子供みたいでね、もういい年をしているくせに、まだここの学校の椅子にすわらせていただきたいほどですわ。だって、これでもわたしは、夕方ごろ斧(おの)で薪小屋の扉をひとりであけましたの。それくらい、造作のないことですわ。助手なんか要(い)りもしませんでした』」(カフカ「城・P.222」新潮文庫 一九七一年)
男性教師はようやく助手たちに向けて<真犯人>は助手たちなのだと自分で自分に言い聞かせるかのようにいう。
「『そうか』と、教師は言った。『じゃ、きさまたちは、嘘(うそ)をついたんだな。と言っていけなければ、すくなくとも罪を小使になすりつけたんだな』」(カフカ「城・P.222」新潮文庫 一九七一年)
そして男性教師が助手たちに罰として鞭打ちを与えようとした瞬間、フリーダは助手たちの言っていることが<ほんとう>だと叫んで鞭打ちを中止させ、フリーダ自身はとっとと物影に身を隠した。
「『それじゃ、さっそくきさまらをたたきのめしてやろう』と、教師は言って、生徒たちのひとりにとなりの教室へ籐(とう)の鞭(むち)をとりにやらせた。やがて教師が鞭をふりあげると、フリーダは、『助手たちの言ったことが、ほんとうですわ』と叫ぶなり、やけ気味に雑巾をバケツに投げこんだので、水が高くはねあがった。彼女は、平行棒のかげに走っていくと、そこに身を隠した」(カフカ「城・P.222~223」新潮文庫 一九七一年)
とするとここで始めて男性教師はKを捉えたことになる。しかし事情はすでに変化している。「フリーダがあいだに割ってはいったおかげで、手のつけようもない教師の怒り」はもはや「やわらい」でいたからだ。Kは過剰な怒りを排除した上で男性教師と対話できる状況を手に入れている。引き延ばされている間に感情的なものは大いに減少した。Kは<逃走の線>を与えられて余裕を見せる。
「『じゃ、小使さんは、ここに残ってもらおう』と、教師は言って、助手たちは突きのけ、Kのほうを向いた。Kは、さっきからずっと箒(ほうき)にもたれかかって、じっと聞いていたのだった。『この小使さんときたら、自分の悪事がまちがって他人に転嫁されるのを、臆病(おくびょう)なためにだまって許しておくのだな』。『まあ、そういうことになりますね』と、Kは、答えたが、フリーダがあいだに割ってはいったおかげで、手のつけようもない教師の怒りがやわらいだ事実を見のがさなかった」(カフカ「城・P.223」新潮文庫 一九七一年)
さらに別の問題系が出現している。男性教師の言葉の中にこうある。「自分の悪事がまちがって他人に転嫁される」。悪事であろうがなかろうがどんな言動でも「まちがって他人に転嫁される」ことは常識として十分あり得ることが前提とされている。この事情は城の村に限った事情では何らない。しかしなぜこの種の置き換えは可能なのか。ニーチェはいう。
「ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。現に存在するもの、何らかの仕方で発生したものは、それよりも優勢な力によって幾たびとなく新しい目標を与えられ、新しい場所を指定され、新しい功用へ作り変えられ、向け変えられる。有機界におけるすべての発生は、一つの《圧服》であり、《支配》である。そしてあらゆる圧服や支配は、さらに一つの新解釈であり、一つの修整であって、そこではこれまでの『意識』や『目的』は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまわなければならない。ある生理的器官(乃至はまたある法律制度、ある社会的風習、ある政治的慣習、ある芸術上の形式または宗教的儀礼の形式)のもつ《功用》をいかによく理解していても、それはいまだその発生に関する理解をもっていることにはならない。こう言えば、旧套に馴れた人々の耳には随分と聞きづらく不快に響くかもしれない、ーーーというのは、古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見る《ために》作られ、手は摑む《ために》作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰する《ために》発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有する者を支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの《標証》にすぎない。従ってある『事物』、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、それの諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し交替するだけである。してみれば、ある事物、ある慣習、ある器官の『発展』とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力と負担とで達せられる《進歩》ではなお更ない。ーーーむしろ、事物乃至は器官の上に起こる多少とも深行的な、多少とも相互に独立的な圧服過程の連続であり、同時にこの圧服に対してその度ごとに試みられる反抗であり、弁護と反動を目的とする思考的な形式変化であり、更に旨く行った反対活動の成果でもある。形式も固定したものでないが、『意味』はなお一層固定したものでない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十二・P.88~90」岩波文庫 一九四〇年)
置き換えはいついかなる時でも可能である。するとこんなことが発生してくる。しょっちゅう発生している。
「わけても軽視してならないのは、犯罪者は裁判上および行刑上の処置そのものを見るというまさにそのことのために、自分の行為、自分の行状を《それ自体において》非難さるべきものと感じることをいかに妨げられるかということだ。というわけは、犯罪者は、それと全く同一の行状が正義のために行なわれ、そしてその場合は『よい』と呼ばれ、何らの疚(やま)しさを感じることもなく行われているのを見るからである。つまり彼は、探偵・奸策・買収・陥穽など、警官や検事側の弄する狡猾老獪な手管の全体、それからまた諸種の刑罰のうちに際立って示されているような、感情によっては恕(ゆる)されないが原則としては認められる褫奪・圧制・凌辱・監禁・拷問・殺害など、ーーーこれらすべての行為を、彼の裁判者たちは決して《それ自体において》非難され処罰さるべき行為としては行なわず、むしろ単にある種の顧慮から利用しているのを見るからである」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十四・P.95」岩波文庫 一九四〇年)
それにしてもなぜ、嘘を言ったフリーダは追いかけられることがないのか。フリーダはまるで「変身」のグレーゴル・ザムザの妹のようだ。<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する。彼女たちは父母の直接的<代理>ではない。父母が代表する社会機構とグレーゴルとの<あいだ>を往来する<非定住民>の位置にいる。それなしではどんな商品をも交換不可能にしてしまう<貨幣>の機能を演じる。「城」のこの箇所でフリーダは<貨幣>としての機能を演じた。<貨幣>として城の村をあちこち移動する<娼婦・女中・姉妹>=<非定住民>フリーダを裁くことは男性教師にしても女性教師にしても、教師という定職についているためなおさら不可能だ。そして呼び出しに応じたKだが、もう「教室/寝室」に充満していた教師の側の怒りはどこか行き場を失い、ついさっきまでの「教室/寝室」とは明らかに変質した「教室/寝室」へ変換されている。変質させたのは何か。矛盾だらけのフリーダの言葉である。だからといってフリーダが裁かれることはない。<貨幣>としての機能を演じたに過ぎないフリーダを裁こうとしても裁く根拠が見あたらない。例えば、原告の側にせよ被告の側にせよ、裁判所へ百万円持って行って「悪さをしたのはこのお金です」とどれほど声を荒げても誰一人相手にしてもらえないのに等しい。フリーダは<非定住民>として、この場合<貨幣>になった。ゆえに薪小屋の錠を壊した罪の「責任」という<価値部分>を助手たちから自分へ、自分からKへ次々と置き換えていくことができた。<娼婦・女中・姉妹>=<非定住民>であるにもかかわらず<貨幣>機能を演じることができたわけではなく、逆にフリーダは<娼婦・女中・姉妹>=<非定住民>ゆえに<貨幣>機能を演じることができたのである。
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「『薪小屋(まきごや)に押し入るようなことをしたのはだれだ!犯人は、どこにいるんだ!ひねりつぶしてくれるぞ!』」(カフカ「城・P.220」新潮文庫 一九七一年)
助手たちを捕まえて助手たちそれぞれに詰問するのならわかるが、捕まえて両手に吊し上げながらあえて周囲に向けて大声で詰問する。どこにでも見られる光景だ。しかし人々はなぜそうするのか。まるでほかに<真犯人がいるに違いない>といわんばかりに。この箇所で疑われているのは明らかにK。しかしなぜKが疑われているのか。そこでとっさに<自分がやった>と名乗り出たのはフリーダ。
「『先生、わたしがやったのです。ほかにどうしようもなかったことですわ。言いつけられたとおり朝早くから教室をあたためておくには、どうしても薪小屋の扉をあける必要がありました。夜中にあなたのところへ鍵(かぎ)をいただきにいくことはできませんでしたし、主人は、縉紳館(しんしんかん)のほうへ行っていました。もしかしたら、一晩帰らないかもしれないとおもったので、わたしひとりで決心しなくてはならなかったのです』」(カフカ「城・P.221」新潮文庫 一九七一年)
フリーダの筋の通った説明にもかかわらず男性教師はもう一度改めて助手たちに尋ねる。助手たちは答える。
「『旦那(だんな)さんでさ』と、ふたりは答えて、疑われないようにKのほうを指さした」(カフカ「城・P.221」新潮文庫 一九七一年)
フリーダはもう一度<自分がやった>と主張する。次の発言はKのみならず助手たちをも危機から救う伏線の機能を果たしもする。
「『わたしたちの助手は、まるで子供みたいでね、もういい年をしているくせに、まだここの学校の椅子にすわらせていただきたいほどですわ。だって、これでもわたしは、夕方ごろ斧(おの)で薪小屋の扉をひとりであけましたの。それくらい、造作のないことですわ。助手なんか要(い)りもしませんでした』」(カフカ「城・P.222」新潮文庫 一九七一年)
男性教師はようやく助手たちに向けて<真犯人>は助手たちなのだと自分で自分に言い聞かせるかのようにいう。
「『そうか』と、教師は言った。『じゃ、きさまたちは、嘘(うそ)をついたんだな。と言っていけなければ、すくなくとも罪を小使になすりつけたんだな』」(カフカ「城・P.222」新潮文庫 一九七一年)
そして男性教師が助手たちに罰として鞭打ちを与えようとした瞬間、フリーダは助手たちの言っていることが<ほんとう>だと叫んで鞭打ちを中止させ、フリーダ自身はとっとと物影に身を隠した。
「『それじゃ、さっそくきさまらをたたきのめしてやろう』と、教師は言って、生徒たちのひとりにとなりの教室へ籐(とう)の鞭(むち)をとりにやらせた。やがて教師が鞭をふりあげると、フリーダは、『助手たちの言ったことが、ほんとうですわ』と叫ぶなり、やけ気味に雑巾をバケツに投げこんだので、水が高くはねあがった。彼女は、平行棒のかげに走っていくと、そこに身を隠した」(カフカ「城・P.222~223」新潮文庫 一九七一年)
とするとここで始めて男性教師はKを捉えたことになる。しかし事情はすでに変化している。「フリーダがあいだに割ってはいったおかげで、手のつけようもない教師の怒り」はもはや「やわらい」でいたからだ。Kは過剰な怒りを排除した上で男性教師と対話できる状況を手に入れている。引き延ばされている間に感情的なものは大いに減少した。Kは<逃走の線>を与えられて余裕を見せる。
「『じゃ、小使さんは、ここに残ってもらおう』と、教師は言って、助手たちは突きのけ、Kのほうを向いた。Kは、さっきからずっと箒(ほうき)にもたれかかって、じっと聞いていたのだった。『この小使さんときたら、自分の悪事がまちがって他人に転嫁されるのを、臆病(おくびょう)なためにだまって許しておくのだな』。『まあ、そういうことになりますね』と、Kは、答えたが、フリーダがあいだに割ってはいったおかげで、手のつけようもない教師の怒りがやわらいだ事実を見のがさなかった」(カフカ「城・P.223」新潮文庫 一九七一年)
さらに別の問題系が出現している。男性教師の言葉の中にこうある。「自分の悪事がまちがって他人に転嫁される」。悪事であろうがなかろうがどんな言動でも「まちがって他人に転嫁される」ことは常識として十分あり得ることが前提とされている。この事情は城の村に限った事情では何らない。しかしなぜこの種の置き換えは可能なのか。ニーチェはいう。
「ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。現に存在するもの、何らかの仕方で発生したものは、それよりも優勢な力によって幾たびとなく新しい目標を与えられ、新しい場所を指定され、新しい功用へ作り変えられ、向け変えられる。有機界におけるすべての発生は、一つの《圧服》であり、《支配》である。そしてあらゆる圧服や支配は、さらに一つの新解釈であり、一つの修整であって、そこではこれまでの『意識』や『目的』は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまわなければならない。ある生理的器官(乃至はまたある法律制度、ある社会的風習、ある政治的慣習、ある芸術上の形式または宗教的儀礼の形式)のもつ《功用》をいかによく理解していても、それはいまだその発生に関する理解をもっていることにはならない。こう言えば、旧套に馴れた人々の耳には随分と聞きづらく不快に響くかもしれない、ーーーというのは、古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見る《ために》作られ、手は摑む《ために》作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰する《ために》発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有する者を支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの《標証》にすぎない。従ってある『事物』、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、それの諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し交替するだけである。してみれば、ある事物、ある慣習、ある器官の『発展』とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力と負担とで達せられる《進歩》ではなお更ない。ーーーむしろ、事物乃至は器官の上に起こる多少とも深行的な、多少とも相互に独立的な圧服過程の連続であり、同時にこの圧服に対してその度ごとに試みられる反抗であり、弁護と反動を目的とする思考的な形式変化であり、更に旨く行った反対活動の成果でもある。形式も固定したものでないが、『意味』はなお一層固定したものでない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十二・P.88~90」岩波文庫 一九四〇年)
置き換えはいついかなる時でも可能である。するとこんなことが発生してくる。しょっちゅう発生している。
「わけても軽視してならないのは、犯罪者は裁判上および行刑上の処置そのものを見るというまさにそのことのために、自分の行為、自分の行状を《それ自体において》非難さるべきものと感じることをいかに妨げられるかということだ。というわけは、犯罪者は、それと全く同一の行状が正義のために行なわれ、そしてその場合は『よい』と呼ばれ、何らの疚(やま)しさを感じることもなく行われているのを見るからである。つまり彼は、探偵・奸策・買収・陥穽など、警官や検事側の弄する狡猾老獪な手管の全体、それからまた諸種の刑罰のうちに際立って示されているような、感情によっては恕(ゆる)されないが原則としては認められる褫奪・圧制・凌辱・監禁・拷問・殺害など、ーーーこれらすべての行為を、彼の裁判者たちは決して《それ自体において》非難され処罰さるべき行為としては行なわず、むしろ単にある種の顧慮から利用しているのを見るからである」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十四・P.95」岩波文庫 一九四〇年)
それにしてもなぜ、嘘を言ったフリーダは追いかけられることがないのか。フリーダはまるで「変身」のグレーゴル・ザムザの妹のようだ。<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する。彼女たちは父母の直接的<代理>ではない。父母が代表する社会機構とグレーゴルとの<あいだ>を往来する<非定住民>の位置にいる。それなしではどんな商品をも交換不可能にしてしまう<貨幣>の機能を演じる。「城」のこの箇所でフリーダは<貨幣>としての機能を演じた。<貨幣>として城の村をあちこち移動する<娼婦・女中・姉妹>=<非定住民>フリーダを裁くことは男性教師にしても女性教師にしても、教師という定職についているためなおさら不可能だ。そして呼び出しに応じたKだが、もう「教室/寝室」に充満していた教師の側の怒りはどこか行き場を失い、ついさっきまでの「教室/寝室」とは明らかに変質した「教室/寝室」へ変換されている。変質させたのは何か。矛盾だらけのフリーダの言葉である。だからといってフリーダが裁かれることはない。<貨幣>としての機能を演じたに過ぎないフリーダを裁こうとしても裁く根拠が見あたらない。例えば、原告の側にせよ被告の側にせよ、裁判所へ百万円持って行って「悪さをしたのはこのお金です」とどれほど声を荒げても誰一人相手にしてもらえないのに等しい。フリーダは<非定住民>として、この場合<貨幣>になった。ゆえに薪小屋の錠を壊した罪の「責任」という<価値部分>を助手たちから自分へ、自分からKへ次々と置き換えていくことができた。<娼婦・女中・姉妹>=<非定住民>であるにもかかわらず<貨幣>機能を演じることができたわけではなく、逆にフリーダは<娼婦・女中・姉妹>=<非定住民>ゆえに<貨幣>機能を演じることができたのである。
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