Kはフリーダと結婚の約束をしたが二人はまだ正式に結婚したわけではない。そこでフリーダは自分のことを「あなたの未来の妻」と呼んでいる箇所がある。Kがバルナバスの家でオルガと会っているあいだ、フリーダは助手の一人イェレミーアスに体を奪われた。イェレミーアスとアルトゥールの二人は城から派遣された助手である限りでフリーダに手を出すことは決してできない。だがKにとって余りにも迷惑をかけるのでKは小学校で助手たちをぶん殴って一方的に解雇した。しかし助手たちは城から派遣されている以上、城からKの解雇通告を認めるという通達がない限りいつまで経ってもKに対する<監視人>であるほかない。しかしアルトゥールは城に駆け込んでKから受けた暴行と一方的解雇通告を報告する。城の機構は間もなくアルトゥールの報告を受理するだろう。すると助手たちはKのもとにいる限りもはや解雇された立場にあり、助手の立場は罷免され、解雇された以上はKとフリーダとのあいだに割り込んでフリーダの体を奪ってしまってもどこの誰からも咎められることはない。そこでイェレミーアスは幼馴染みでもあるフリーダに襲いかかった。
フリーダはKの妻ではなく「未来の妻」のまま放置されており、Kの助手ではなくなりもはや<監視人>の立場から解かれたに等しいイェレミーアスがフリーダの誘惑に接続したとしても不思議ではない。イェレミーアスの行為は乱暴に思える。だがフリーダは<娼婦・女中・姉妹>の系列として常に<非定住民>として振る舞う。そしてまた<非定住民>はいつも<誘惑するもの>でなくてはならない。「変身」のグレーテは父母の<代理>ではなく父母から派遣される<非定住民>である限りで父母と兄グレーゴルとの間を往来できる。ただそれだけではグレーゴルは反応しない。妹グレーテは<非定住民>として父母やグレーゴルとの間を往来するが、グレーゴルがグレーテの話に注意深く耳を傾けるのは<非定住民>としてグレーテが<誘惑するもの>だからである。グレーテは兄グレーゴルにとっても父母にとっても言語を往来させることのできる特権的唯一性を帯びている。どんな言葉が送られてくるだろうか。どんな言葉が返されてくるだろうか。父母の側もグレーゴルの側も興味津々であり、<誘惑するもの>としてのグレーテはほとんどグレーゴル一家の家長にもまさる位置を占めている。
よりいっそう身近な例にあてはめて言えば、<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する女性たちはすべて資本主義的流通過程を演じる。生産過程から流通過程へ入った諸商品は別の場所へ移動するわけだが、そのあいだに商品価値の異なる場所、賃金格差のある場所へ移動する。諸商品の移動前の場所と移動後の場所とで賃金格差が大きければ大きいほど流通過程に入った諸商品の価値も大きく変動する。生産拠点は安価な労働力が速やかに集められる場所であり、諸商品が変われる場所はできるだけ高い価値が実現できる場所でなくては約束された利子を実現することはできないからである。流通過程での場所移動がどれくらいの価値変動を伴うかによって諸商品の魅力は上昇したり下降したりする。資本主義は諸商品の見た目の違いなどまるで問題にしない。重要なのは生産過程から最終消費者によって貨幣交換され利子が実現されるまでのあいだにどれくらい利子率を達成することができたかに賭かっている。ゆえに流通過程はいつも<誘惑するもの>として目が離せないのである。
「『そうね、彼が部屋にいますもの』と、彼女は言った。『そうじゃないと考えていらっしたの。彼は、わたしのベッドに寝ています。戸外にいて風邪(かぜ)をひいたのです。寒気がして、ろくすっぽ食事もとりませんでしたわ。結局、みんなあなたの罪ですのよ。あなたが助手たちを追いださず、あの娘どものところへも走っていかなかったならば、いまごろは学校でむつまじくしておれるところですわ。あなたひとりでわたしたちの幸福をぶちこわしてしまったのよ。イェレミーアスが助手として働いているあいだでもわたしをかどわかすようなまねをしただろうと、お考えになっていらっしゃるの。もしそうだとしたら、あなたは、この土地の規則をまったく見そこなっていらっしゃるのよ。彼は、わたしのそばへ来たがっていました。そのためにひどく苦しみもし、わたしの様子もうかがっていました。けれども、それは、遊戯にすぎなかったのです。お腹(なか)のすいた犬がどんなにじゃれついても、食卓の上にとびあがろうとまではしないのとおなじことです。わたしだって、おなじでした。わたしは、彼に惹(ひ)かれていました。彼は、子供のころの遊び仲間なのです。わたしたちは、いっしょに城山の坂道で遊んだものでした。あのころは、たのしかったわ。あなたは、わたしの過去を一度も訊(き)いてくださいませんでしたね。しかし、これらのことも、イェレミーアスが勤めに引きとめられているあいだは、ちっとも決定的なことではなかったのです。だって、わたしだって、あなたの未来の妻としての自分の義務ぐらいは心得ていましたもの。しかし、あなたは、まもなく助手たちを追っぱらって、わたしのために尽してくださったかのように、そのことを自慢なさいました。ある意味では、それは事実かもしれませんが。アルトゥールの場合は、あなたの思惑は、成功しました。といっても、ほんの束(つか)の間(ま)の成功ですけれども。アルトゥールは、とても感じやすくて、イェレミーアスのような、どんな困難にもたじろがないだけの情熱がないのです。それに、あなたは、あの夜このアルトゥールをなぐって、ほとんど半殺しになさいました。あの一撃は、わたしたちの幸福をもこわしてしまったのです。アルトゥールはお城へ逃げていって、このことを訴えています。いずれはこちらへ帰ってくるでしょうが、とにかく、いまはいません。しかし、イェレミーアスは、こちらに残りました。彼は、助手であるあいだは、主人の眼の動きひとつにも気をくばっていますが、いったんお勤めをやめると、もうなにも怖れません。彼は、やってきて、わたしを奪いました。わたしとしては、あなたに見すてられ、幼友だちに首ねっこをおさえられ、どうにも防ぎようがありませんでした。わたしが教室の入口をあけてやったのではありません。彼が窓をこわして、わたしを連れだしたのです。ふたりは、ここへ逃げてきました。ここの主人は、彼を高く買っていますし、お客さまにとっても、こういう有能なボーイがいてくれるほどありがたいことはありません。こうして、ここに雇ってもらうことになりました。彼は、わたしの部屋に同居しているのではありません。あれは、ふたりの共同の部屋なのです』」(カフカ「城・P.410~412」新潮文庫 一九七一年)
フリーダもオルガも<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する。しかしフリーダは自分で承知しているようにまだKの「未来の妻」でしかない。さらにフリーダはこのあと、結婚どころかますます小説の中から消えていってしまう。同時にイェレミーアスは治癒の見込みのない重病人と化していく。フリーダはほとんどイェレミーアスのための介護者としてしか存在しなくなる。だがしかしフリーダがKと結婚することができたとしたらどうなっていたか。フリーダはKの妻、オルガはKの娼婦として、互いに互いを補い合う次のような関係へ推移していたに違いない。いずれにしても絶対主義的家父長制のもとではそうなるほかない。
「娼婦と妻とは互いに家父長制の世界における女性の自己疎外の両極をなし合うものである。妻には、生活と所有との確固たる秩序に対する喜びが窺われ、他方、娼婦は、妻の所有権から取りのこされたものを妻の隠れた同盟者として改めて所有関係に取り込み、快楽を売る」(ホルクハイマー=アドルノ「啓蒙の弁証法・2・オデュッセウスあるいは神話と啓蒙・P.150」岩波文庫 二〇〇七年)
ところでフリーダの話を聞かされたけKは、二人の助手のことを「二匹の猛獣」と呼んでいる。そして多くのカフカ作品に出てくるようにそれは「つがい・双子」のように似ており、Kを左右両方から挟み込む。
「『それにもかかわらず』と、Kは言った。『ぼくは、助手どもを首にしたことを残念におもっていないね。きみがいま話してくれたような事情だったのなら、つまりだね、きみの貞操が助手どもがまだお勤めの身だったということだけを条件にしているものだったのなら、なにもかも終りになってしまったのは、よいことだったと言えるよ。鞭(むち)がなくてはおとなしくしていないような二匹の猛獣どもにはさまれた結婚生活の幸福なんて、どうせたいしたものではなかったことだろう。そう考えると、やはりあの一家にお礼を言わなくてはならないようだ。そのつもりはなかったにせよ、ぼくたちを引きはなすのに一役買ってくれたわけだからな』」(カフカ「城・P.412」新潮文庫 一九七一年)
<動物>の系列が出現している。「猛獣」といっても名高い二つの短編「ジャッカルとアラビア人」の「ジャッカル」ではなく、このケースでは「父の気がかり」の「オドラデク」の側が妥当するに違いない。むしろ「オドラデク」から逆に二人の助手が出現したかのようだ。
「一説によるとオドラデクはスラヴ語だそうだ。ことばのかたちが証拠だという。別の説によるとドイツ語から派生したものであって、スラヴ語の影響を受けただけだという。どちらの説も頼りなさそうなのは、どちらが正しいというのでもないからだろう。だいいち、どちらの説に従っても意味がさっぱりわからない。もしオドラデクなどがこの世にいなければ、誰もこんなことに頭を痛めたりしないはずだ。ちょっとみると平べたい星形の糸巻きのようなやつだ。実際、糸が巻きついてえいるようである。もっとも、古い糸くずで、色も種類もちがうのを、めったやたらにつなぎ合わせたらしい。いま糸巻きといったが、ただの糸巻きではなく、星状の真中から小さな棒が突き出ている。これと直角に棒がもう一本ついていて、オドラデクはこの棒と星形のとんがりの一つを二本足にしてつっ立っている。いまはこんな役立たずだが、先(せん)には何かちゃんとした道具の体をなしていたと思いたくなるのだが、別にそうでもないらしい。少なくとも、これがそうだといった手がかりがない。以前は役に立ったらしい何かがとれて落ちたのでも、どこが壊れたのでもなさそうだ。いかにも全体は無意味だが、それはそれなりにまとまっている。とはいえ、はっきりと断言はできない。オドラデクときたら、おそろしくちょこまかしていて、どうにもならない。屋根裏にいたかと思うと階段にいる。廊下にいたかと思うと玄関にいる。おりおり何ヶ月も姿をみせない。よそに越していたくせに、そのうちきっと舞いもどってくる。ドアをあけると階段の手すりによっかかっていたりする。そんなとき、声をかけてやりたくなる。むろん、むずかしいことを訊(き)いたりしない。チビ助なのでついそうなるのだが、子どもにいうように言ってしまう。『なんて名前かね』。『オドラデク』。『どこに住んでいるの』。『わからない』。そう言うと、オドラデクは笑う。肺のない人のような声で笑う。落葉がかさこそ鳴るような笑い声だ。たいてい、そんな笑いで会話は終わる。どうかすると、こんなやりとりすら始まらない。黙りこくったままのことがある。木のようにものをいわない。そういえば木でできているようにもみえる。この先、いったい、どうなることやら。かいのないことながら、ついつい思案にふけるのだ。あやつは、はたして、死ぬことができるのだろうか?死ぬものはみな、生きているあいだに目的をもち、だからこそあくせくして、いのちをすりへらす。オドラデクはそうではない。いつの日か私の孫子の代に、糸くずをひきずりながら階段をころげたりしているのではなかろうか?誰の害になるわけでもなさそうだが、しかし、自分が死んだあともあいつが生きていると思うと、胸をしめつけられるここちがする」(カフカ「父の気がかり」『カフカ短編集・P.103~105』岩波文庫 一九八七年)
しかしなぜ「ジャッカル」でないのか。獣性という点で助手たちは<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する女性たちに遥かに及ばないというべきだろうか。そうではなくむしろ<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する女性たちは、Kにとって「ジャッカル」の位置を取っていないだろうか。絶対主義的家父長制のもとで、絶体絶命の窮地に追い込まれたKを、彼女たちはいつも、KとともにKをそっと逃してやってはいないだろうか。
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フリーダはKの妻ではなく「未来の妻」のまま放置されており、Kの助手ではなくなりもはや<監視人>の立場から解かれたに等しいイェレミーアスがフリーダの誘惑に接続したとしても不思議ではない。イェレミーアスの行為は乱暴に思える。だがフリーダは<娼婦・女中・姉妹>の系列として常に<非定住民>として振る舞う。そしてまた<非定住民>はいつも<誘惑するもの>でなくてはならない。「変身」のグレーテは父母の<代理>ではなく父母から派遣される<非定住民>である限りで父母と兄グレーゴルとの間を往来できる。ただそれだけではグレーゴルは反応しない。妹グレーテは<非定住民>として父母やグレーゴルとの間を往来するが、グレーゴルがグレーテの話に注意深く耳を傾けるのは<非定住民>としてグレーテが<誘惑するもの>だからである。グレーテは兄グレーゴルにとっても父母にとっても言語を往来させることのできる特権的唯一性を帯びている。どんな言葉が送られてくるだろうか。どんな言葉が返されてくるだろうか。父母の側もグレーゴルの側も興味津々であり、<誘惑するもの>としてのグレーテはほとんどグレーゴル一家の家長にもまさる位置を占めている。
よりいっそう身近な例にあてはめて言えば、<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する女性たちはすべて資本主義的流通過程を演じる。生産過程から流通過程へ入った諸商品は別の場所へ移動するわけだが、そのあいだに商品価値の異なる場所、賃金格差のある場所へ移動する。諸商品の移動前の場所と移動後の場所とで賃金格差が大きければ大きいほど流通過程に入った諸商品の価値も大きく変動する。生産拠点は安価な労働力が速やかに集められる場所であり、諸商品が変われる場所はできるだけ高い価値が実現できる場所でなくては約束された利子を実現することはできないからである。流通過程での場所移動がどれくらいの価値変動を伴うかによって諸商品の魅力は上昇したり下降したりする。資本主義は諸商品の見た目の違いなどまるで問題にしない。重要なのは生産過程から最終消費者によって貨幣交換され利子が実現されるまでのあいだにどれくらい利子率を達成することができたかに賭かっている。ゆえに流通過程はいつも<誘惑するもの>として目が離せないのである。
「『そうね、彼が部屋にいますもの』と、彼女は言った。『そうじゃないと考えていらっしたの。彼は、わたしのベッドに寝ています。戸外にいて風邪(かぜ)をひいたのです。寒気がして、ろくすっぽ食事もとりませんでしたわ。結局、みんなあなたの罪ですのよ。あなたが助手たちを追いださず、あの娘どものところへも走っていかなかったならば、いまごろは学校でむつまじくしておれるところですわ。あなたひとりでわたしたちの幸福をぶちこわしてしまったのよ。イェレミーアスが助手として働いているあいだでもわたしをかどわかすようなまねをしただろうと、お考えになっていらっしゃるの。もしそうだとしたら、あなたは、この土地の規則をまったく見そこなっていらっしゃるのよ。彼は、わたしのそばへ来たがっていました。そのためにひどく苦しみもし、わたしの様子もうかがっていました。けれども、それは、遊戯にすぎなかったのです。お腹(なか)のすいた犬がどんなにじゃれついても、食卓の上にとびあがろうとまではしないのとおなじことです。わたしだって、おなじでした。わたしは、彼に惹(ひ)かれていました。彼は、子供のころの遊び仲間なのです。わたしたちは、いっしょに城山の坂道で遊んだものでした。あのころは、たのしかったわ。あなたは、わたしの過去を一度も訊(き)いてくださいませんでしたね。しかし、これらのことも、イェレミーアスが勤めに引きとめられているあいだは、ちっとも決定的なことではなかったのです。だって、わたしだって、あなたの未来の妻としての自分の義務ぐらいは心得ていましたもの。しかし、あなたは、まもなく助手たちを追っぱらって、わたしのために尽してくださったかのように、そのことを自慢なさいました。ある意味では、それは事実かもしれませんが。アルトゥールの場合は、あなたの思惑は、成功しました。といっても、ほんの束(つか)の間(ま)の成功ですけれども。アルトゥールは、とても感じやすくて、イェレミーアスのような、どんな困難にもたじろがないだけの情熱がないのです。それに、あなたは、あの夜このアルトゥールをなぐって、ほとんど半殺しになさいました。あの一撃は、わたしたちの幸福をもこわしてしまったのです。アルトゥールはお城へ逃げていって、このことを訴えています。いずれはこちらへ帰ってくるでしょうが、とにかく、いまはいません。しかし、イェレミーアスは、こちらに残りました。彼は、助手であるあいだは、主人の眼の動きひとつにも気をくばっていますが、いったんお勤めをやめると、もうなにも怖れません。彼は、やってきて、わたしを奪いました。わたしとしては、あなたに見すてられ、幼友だちに首ねっこをおさえられ、どうにも防ぎようがありませんでした。わたしが教室の入口をあけてやったのではありません。彼が窓をこわして、わたしを連れだしたのです。ふたりは、ここへ逃げてきました。ここの主人は、彼を高く買っていますし、お客さまにとっても、こういう有能なボーイがいてくれるほどありがたいことはありません。こうして、ここに雇ってもらうことになりました。彼は、わたしの部屋に同居しているのではありません。あれは、ふたりの共同の部屋なのです』」(カフカ「城・P.410~412」新潮文庫 一九七一年)
フリーダもオルガも<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する。しかしフリーダは自分で承知しているようにまだKの「未来の妻」でしかない。さらにフリーダはこのあと、結婚どころかますます小説の中から消えていってしまう。同時にイェレミーアスは治癒の見込みのない重病人と化していく。フリーダはほとんどイェレミーアスのための介護者としてしか存在しなくなる。だがしかしフリーダがKと結婚することができたとしたらどうなっていたか。フリーダはKの妻、オルガはKの娼婦として、互いに互いを補い合う次のような関係へ推移していたに違いない。いずれにしても絶対主義的家父長制のもとではそうなるほかない。
「娼婦と妻とは互いに家父長制の世界における女性の自己疎外の両極をなし合うものである。妻には、生活と所有との確固たる秩序に対する喜びが窺われ、他方、娼婦は、妻の所有権から取りのこされたものを妻の隠れた同盟者として改めて所有関係に取り込み、快楽を売る」(ホルクハイマー=アドルノ「啓蒙の弁証法・2・オデュッセウスあるいは神話と啓蒙・P.150」岩波文庫 二〇〇七年)
ところでフリーダの話を聞かされたけKは、二人の助手のことを「二匹の猛獣」と呼んでいる。そして多くのカフカ作品に出てくるようにそれは「つがい・双子」のように似ており、Kを左右両方から挟み込む。
「『それにもかかわらず』と、Kは言った。『ぼくは、助手どもを首にしたことを残念におもっていないね。きみがいま話してくれたような事情だったのなら、つまりだね、きみの貞操が助手どもがまだお勤めの身だったということだけを条件にしているものだったのなら、なにもかも終りになってしまったのは、よいことだったと言えるよ。鞭(むち)がなくてはおとなしくしていないような二匹の猛獣どもにはさまれた結婚生活の幸福なんて、どうせたいしたものではなかったことだろう。そう考えると、やはりあの一家にお礼を言わなくてはならないようだ。そのつもりはなかったにせよ、ぼくたちを引きはなすのに一役買ってくれたわけだからな』」(カフカ「城・P.412」新潮文庫 一九七一年)
<動物>の系列が出現している。「猛獣」といっても名高い二つの短編「ジャッカルとアラビア人」の「ジャッカル」ではなく、このケースでは「父の気がかり」の「オドラデク」の側が妥当するに違いない。むしろ「オドラデク」から逆に二人の助手が出現したかのようだ。
「一説によるとオドラデクはスラヴ語だそうだ。ことばのかたちが証拠だという。別の説によるとドイツ語から派生したものであって、スラヴ語の影響を受けただけだという。どちらの説も頼りなさそうなのは、どちらが正しいというのでもないからだろう。だいいち、どちらの説に従っても意味がさっぱりわからない。もしオドラデクなどがこの世にいなければ、誰もこんなことに頭を痛めたりしないはずだ。ちょっとみると平べたい星形の糸巻きのようなやつだ。実際、糸が巻きついてえいるようである。もっとも、古い糸くずで、色も種類もちがうのを、めったやたらにつなぎ合わせたらしい。いま糸巻きといったが、ただの糸巻きではなく、星状の真中から小さな棒が突き出ている。これと直角に棒がもう一本ついていて、オドラデクはこの棒と星形のとんがりの一つを二本足にしてつっ立っている。いまはこんな役立たずだが、先(せん)には何かちゃんとした道具の体をなしていたと思いたくなるのだが、別にそうでもないらしい。少なくとも、これがそうだといった手がかりがない。以前は役に立ったらしい何かがとれて落ちたのでも、どこが壊れたのでもなさそうだ。いかにも全体は無意味だが、それはそれなりにまとまっている。とはいえ、はっきりと断言はできない。オドラデクときたら、おそろしくちょこまかしていて、どうにもならない。屋根裏にいたかと思うと階段にいる。廊下にいたかと思うと玄関にいる。おりおり何ヶ月も姿をみせない。よそに越していたくせに、そのうちきっと舞いもどってくる。ドアをあけると階段の手すりによっかかっていたりする。そんなとき、声をかけてやりたくなる。むろん、むずかしいことを訊(き)いたりしない。チビ助なのでついそうなるのだが、子どもにいうように言ってしまう。『なんて名前かね』。『オドラデク』。『どこに住んでいるの』。『わからない』。そう言うと、オドラデクは笑う。肺のない人のような声で笑う。落葉がかさこそ鳴るような笑い声だ。たいてい、そんな笑いで会話は終わる。どうかすると、こんなやりとりすら始まらない。黙りこくったままのことがある。木のようにものをいわない。そういえば木でできているようにもみえる。この先、いったい、どうなることやら。かいのないことながら、ついつい思案にふけるのだ。あやつは、はたして、死ぬことができるのだろうか?死ぬものはみな、生きているあいだに目的をもち、だからこそあくせくして、いのちをすりへらす。オドラデクはそうではない。いつの日か私の孫子の代に、糸くずをひきずりながら階段をころげたりしているのではなかろうか?誰の害になるわけでもなさそうだが、しかし、自分が死んだあともあいつが生きていると思うと、胸をしめつけられるここちがする」(カフカ「父の気がかり」『カフカ短編集・P.103~105』岩波文庫 一九八七年)
しかしなぜ「ジャッカル」でないのか。獣性という点で助手たちは<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する女性たちに遥かに及ばないというべきだろうか。そうではなくむしろ<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する女性たちは、Kにとって「ジャッカル」の位置を取っていないだろうか。絶対主義的家父長制のもとで、絶体絶命の窮地に追い込まれたKを、彼女たちはいつも、KとともにKをそっと逃してやってはいないだろうか。
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