バルナバスの姉・オルガはバルナバスが出入りを許されている城の官房の様子について語る。一つの部屋ともう一つの部屋とを仕切る「柵(さく)」がある。一つの部屋の中にも柵があるという。柵は無数にあるらしい。諸手続について越えて行かねばならない柵はどれほどあるのか。越えてはいけない柵はどれほどあるのか。さっぱりわからない。従って柵は常に<可動的>である。諸商品の無限の系列のように延々どこまでも引き延ばすことができる。決済はいつどのような方法でなされるのか。誰も知らない。
「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫 一九七一年)
城の内部はそうなっている。バルナバスから話を聞かされていた姉のオルガはそう語る。Kにとっては絶望的な事情だ。永遠の未決状態に叩き込まれる可能性の内部に陥ったことになる。しかしKは諦めるわけにはいかないし、むしろ事情の深刻さについて村人たちよりも軽く考えている。ソ連ができてしばらく経った頃、その官僚主義的機構について事態を軽く見ていた人々がいた一方で、とてもではないが高級官僚に会って公的手続を済ませるのがどれほど困難か絶望の淵に立たされた多くのソ連国民がいた。例えば「クレムリン」という言葉は誰もが知っている。しかしその内部がどのようになっているのか国民にすらはっきりわからないという事態が判明した。いつどこで誰が何をどのように決定しているのかさっぱりわからないと。
またこの事情は「反クレムリン」陣営にも当てはめて考えることができた。諸大国政府が大型公共事業を発注する際、様々な民間企業が事業を請け負うわけだが「いじめ自殺・過労死」など何か問題が発覚した時、その意志決定箇所について追求していくと政府の最高責任者がすでにそれに該当するのかそれとも一次下請けなのか二次下請けなのか三次下請けなのか、あるいはまだもっとずっと下請け企業とその関係機関があり、責任の在り処とそれぞれの現場において決定権を持っている箇所はあっても唯一の決定権者は誰なのかさっぱりわからないという事態が山のように出現した。延々と引き延すことができる<可動的>な柵があるのと少しも違わない。「クレムリン」にせよ「反クレムリン」にせよ、見た目こそまったく違って見えてはいてもそこに属する国民にとってはいずれにしても本当に自分たちの選んだ国家機構が自分達のために動いているのかどうかまるではっきりしないという状態のはざまで戸惑いを隠せない人々が世界中に溢れ返った。両者は対立しつつ、しかしまるで双子の兄弟のように似ていた。オルガは続ける。
「『あなたにこんなことをお話しするのは、自分の胸を軽くし、あなたのこころを重たくするためではありません。あなたがバルナバスのことをおたずねになり、アマーリアがわたしにご説明するように言いつけたからにほかなりません。それに、くわしいことを知っていらっしゃるほうがあなたのためにもなるとおもうからです。さらに、バルナバスのためでもあるのです。あなたが彼にあまり大きな期待をおかけになり、彼があなたをがっかりさせ、さらにあなたの失望ぶりを見てバルナバスがまた苦しむ、というようなことになっては困るからですわ。あの子は、とても感じやすいんで。たとえば、昨夜も一睡もしませんでした。それは、あなたが昨晩あの子に不満の色を見せられたためなんです。あなたは、バルナバスのような使者しかもっていないなんて、なんとも困ったことだ、とおっしゃったそうですね。この言葉が、あの子を眠れなくさせてしまったのです。あなた自身は、あの子がどんなに胸のなかが煮えくりかえる思いをしていたかを、さほどお気づきでなかったでしょう。お城の使者は、どこまでも自制しなくてはならないのです。しかし、これは、あの子にとってらくなことではありません。相手があなたであっても、そうです。あなたのおつもりでは、けっしてあの子に過大なことは要求していらっしゃらないでしょう。あなたは、最初から使者の仕事というものについてきまった考えをもっていらっして、それを基準にしてご自分の要求をはかっていらっしゃるのですもの。けれども、お城では、使者の仕事をもっとべつなふうに理解しているのです。それをあなたのお考えと折りあわせるなんてことは、できるものではありませんーーーたとえバルナバスが自分の仕事に粉骨砕身しましてもね(残念ながら、ときどきそんな覚悟をきめているんじゃないかとおもえることがあるんですよ)。自分のやっていることがほんとうに使者の仕事だろうかという疑問さえなかったら、だれから文句をつけられようと、ただ言うなりになっておればすむことで、つべこべ反論する筋合いじゃないんです。もちろん、あの子としては、あなたにたいしてはそんな疑問を口にするわけにはいきません。もしそんなことをしたら、あの子にとっては、自分の生活を破壊してしまうことになりますし、自分がまだ従っているとおもっている掟(おきて)をめちゃめちゃに踏みにじったことになってしまうでしょう。わたしにたいしてさえ、率直には話してくれないんです。あの子の疑惑を訊きだそうとおもったら、さんざん甘やかしたり、キスをしてやったりしなくてはなりません。その場合でさえも、その疑惑が疑惑であることをどうしてもみとめようとしません。あの子の血のなかに、どこかアマーリアと似たところがあるのですわ。また、わたしは彼に信用されているたったひとりの人間なのですけれど、そのわたしにもなにもかも話してくれるわけではありません。しかし、クラムのことは、おりにふれて話しあいますわ。わたしは、まだクラムを見たことがありませんの。ご存じのように、フリーダは、わたしをあまり好いていません。それで、クラムを見る機会をあたえてくれなかったのです。でも、もちろん、彼の外貌は、村じゅうに知れわたっています。なかには、彼を直接見た人もいますし、噂(うわさ)だけなら、だれでも聞いています。そして、そうした目撃談や噂、それに、事実を捏造(ねつぞう)しようとする下心もいくらかくわわって、いつしかクラム像がつくりあげられてしまいました。このクラム像は、たぶん本物とだいたいのところは合致しているでしょう。しかし、あくまでだいたいにすぎないのです。その他の点は、よく変るのです。といっても、クラムのほんとうの姿がよく変るほどは変らないでしょうが。クラムは、村にやってくるときと、村から出ていくときとでは、まるでちがって見えるそうです。ビールを飲むまえと飲んでからとではちがうし、目ざめているときと眠っているときとでもちがい、ひとりきりのときとだれかと話をしているときとでもちがう。また、そのことから推して知るべしですが、お城にいるときは、がらりと別人のように見えるということです。村のなかにおいてさえ、彼に関するいろんな報告にはかなり大きな食い違いがあります。背たけから物腰や態度、ふとり具合、ひげの形にいたるまで、それぞれ食いちがっています。ただ服装に関してだけは、さいわい、その報告も一致しています。いつもおなじ服装で、裾(すそ)の長い黒い上着を着ているというのです。ところで、言うまでもないことですが、こんなにいろいろな食い違いがあるのは、べつにクラムが魔術を使っているからではなく、しごく当りまえのことなのです。つまり、彼を見た人の、そのときの瞬間的な気分や、興奮の程度や、期待あるいは絶望の無数の度合いなどによって、食い違いが生じるのです。おまけに、クラムを見たといっても、たいていは一瞬間ほどしか見られないのです。いまお話したことはすべて、バルナバスからよく聞かされたことをそのままお伝えしているのです。個人的に直接この問題にかかわりのない人なら、だいたいこれで安心がいくはずです。でも、わたしたちの場合は、そういうわけにはいきません。とくにバルナバスにとっては、自分が話をしている相手がほんとうにクラムであるのか、そうでないのかということは、死活にかかわる問題ですわ』」(カフカ「城・P.292~295」新潮文庫 一九七一年)
城の機構との繋がりだけが生活の拠り所となっているバルナバスの家にすれば、城で絶対的存在とされているクラムが「ほんとうにクラムであるのか、そうでないのかということは、死活にかかわる問題」になるほかない。もしクラムに関する「疑惑が疑惑であること」を認めるとするとバルナバスは「ほんとうの」クラムと接触しているわけでは決してないか、接触しているとしても少なくともそれはまるで無意味だと認めることになってしまう。とすると、これまでバルナバスがやってきたすべての行動の根拠は根こそぎ失われる。しかし城の機構の<掟>に従っている限りバルナバス一家が破滅することはない。宿屋のお内儀もフリーダも助手たちも同様に<疑わない>態度を保持している以上、破滅に追い込まれるような事態はやって来ない。
ところがしかし世界がグローバル資本主義になると状況はずいぶん変わった。血の繋がりがあるかないかに関係なく、多様な形態で構成される家庭〔家族〕のあり方が大々的に出現し承認されるようになってきた。シングルあり、親が再婚して血縁でない子供たちあり、同性愛家庭〔家族〕あり、子供なし犬猫あり、ーーーというふうに家庭〔家族〕の形態は諸商品の無限の系列のようにどんどん発生している。ニーチェはいう。
「さまざまな困難が途方もなく増大してしまっているような生涯というものがある、思想家の生涯がそれである。ここでは、その生涯について何かが物語られた場合には、ひとは、注意深く、耳を傾けざるを得ない、というのは、それを聞いただけで幸福と力が溢れて来、しかも後に来たる者の生活に光が照射されるような、そうした《生の諸々の可能性》について、ここでは語られるのを聞き取り得るからである、ここでは、一切のものが、極めて発明的で、熟慮に充ち、大胆で、絶望的で、しかも充ち溢れる希望で一杯であり、あたかもいわば最も偉大なる世界周航者の旅路に似た観があって、また実際に、生の最も辺鄙なかつ最も危険の多い領域の周航と、同じような趣きをもったものだからである。このような生涯において驚嘆すべきことは、異なった方向に向かって突き進む二つの敵対的な衝動が、ここでは、いわば《一つの》軛(くびき)の下で進むように強制されているという事柄のうちにある。つまり、認識を欲する者は、人間生活が成り立っている地盤というものを、何度でも繰り返し離れ去って、不確実なるものの中へと冒険的に突き進んで行かねばならないし、また、生を欲する衝動の方は、その上に立脚できるほぼ確実な立場というものを求めて、何度でも繰り返し探索してゆかねばならない」(ニーチェ「哲学者の書・哲学者に関する著作のための準備草案・P.404~405」ちくま学芸文庫 一九九四年)
この箇所で「人間生活が成り立っている地盤」とはなんのことか。もはや血縁関係を重視する絶対的必要性は消え失せている。いつもすでに多様な形態を持つ家庭〔家族〕が大量に湧き起こってきており、むしろそれらなしにどんな社会活動もうまく作動することができなくなっている。さらにそもそもグローバル資本主義自身、人間の諸活動を必要としてはいても特に血縁関係を廃棄せよとは言わないが逆に重視せよと言ったこともまた一度もない。
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「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫 一九七一年)
城の内部はそうなっている。バルナバスから話を聞かされていた姉のオルガはそう語る。Kにとっては絶望的な事情だ。永遠の未決状態に叩き込まれる可能性の内部に陥ったことになる。しかしKは諦めるわけにはいかないし、むしろ事情の深刻さについて村人たちよりも軽く考えている。ソ連ができてしばらく経った頃、その官僚主義的機構について事態を軽く見ていた人々がいた一方で、とてもではないが高級官僚に会って公的手続を済ませるのがどれほど困難か絶望の淵に立たされた多くのソ連国民がいた。例えば「クレムリン」という言葉は誰もが知っている。しかしその内部がどのようになっているのか国民にすらはっきりわからないという事態が判明した。いつどこで誰が何をどのように決定しているのかさっぱりわからないと。
またこの事情は「反クレムリン」陣営にも当てはめて考えることができた。諸大国政府が大型公共事業を発注する際、様々な民間企業が事業を請け負うわけだが「いじめ自殺・過労死」など何か問題が発覚した時、その意志決定箇所について追求していくと政府の最高責任者がすでにそれに該当するのかそれとも一次下請けなのか二次下請けなのか三次下請けなのか、あるいはまだもっとずっと下請け企業とその関係機関があり、責任の在り処とそれぞれの現場において決定権を持っている箇所はあっても唯一の決定権者は誰なのかさっぱりわからないという事態が山のように出現した。延々と引き延すことができる<可動的>な柵があるのと少しも違わない。「クレムリン」にせよ「反クレムリン」にせよ、見た目こそまったく違って見えてはいてもそこに属する国民にとってはいずれにしても本当に自分たちの選んだ国家機構が自分達のために動いているのかどうかまるではっきりしないという状態のはざまで戸惑いを隠せない人々が世界中に溢れ返った。両者は対立しつつ、しかしまるで双子の兄弟のように似ていた。オルガは続ける。
「『あなたにこんなことをお話しするのは、自分の胸を軽くし、あなたのこころを重たくするためではありません。あなたがバルナバスのことをおたずねになり、アマーリアがわたしにご説明するように言いつけたからにほかなりません。それに、くわしいことを知っていらっしゃるほうがあなたのためにもなるとおもうからです。さらに、バルナバスのためでもあるのです。あなたが彼にあまり大きな期待をおかけになり、彼があなたをがっかりさせ、さらにあなたの失望ぶりを見てバルナバスがまた苦しむ、というようなことになっては困るからですわ。あの子は、とても感じやすいんで。たとえば、昨夜も一睡もしませんでした。それは、あなたが昨晩あの子に不満の色を見せられたためなんです。あなたは、バルナバスのような使者しかもっていないなんて、なんとも困ったことだ、とおっしゃったそうですね。この言葉が、あの子を眠れなくさせてしまったのです。あなた自身は、あの子がどんなに胸のなかが煮えくりかえる思いをしていたかを、さほどお気づきでなかったでしょう。お城の使者は、どこまでも自制しなくてはならないのです。しかし、これは、あの子にとってらくなことではありません。相手があなたであっても、そうです。あなたのおつもりでは、けっしてあの子に過大なことは要求していらっしゃらないでしょう。あなたは、最初から使者の仕事というものについてきまった考えをもっていらっして、それを基準にしてご自分の要求をはかっていらっしゃるのですもの。けれども、お城では、使者の仕事をもっとべつなふうに理解しているのです。それをあなたのお考えと折りあわせるなんてことは、できるものではありませんーーーたとえバルナバスが自分の仕事に粉骨砕身しましてもね(残念ながら、ときどきそんな覚悟をきめているんじゃないかとおもえることがあるんですよ)。自分のやっていることがほんとうに使者の仕事だろうかという疑問さえなかったら、だれから文句をつけられようと、ただ言うなりになっておればすむことで、つべこべ反論する筋合いじゃないんです。もちろん、あの子としては、あなたにたいしてはそんな疑問を口にするわけにはいきません。もしそんなことをしたら、あの子にとっては、自分の生活を破壊してしまうことになりますし、自分がまだ従っているとおもっている掟(おきて)をめちゃめちゃに踏みにじったことになってしまうでしょう。わたしにたいしてさえ、率直には話してくれないんです。あの子の疑惑を訊きだそうとおもったら、さんざん甘やかしたり、キスをしてやったりしなくてはなりません。その場合でさえも、その疑惑が疑惑であることをどうしてもみとめようとしません。あの子の血のなかに、どこかアマーリアと似たところがあるのですわ。また、わたしは彼に信用されているたったひとりの人間なのですけれど、そのわたしにもなにもかも話してくれるわけではありません。しかし、クラムのことは、おりにふれて話しあいますわ。わたしは、まだクラムを見たことがありませんの。ご存じのように、フリーダは、わたしをあまり好いていません。それで、クラムを見る機会をあたえてくれなかったのです。でも、もちろん、彼の外貌は、村じゅうに知れわたっています。なかには、彼を直接見た人もいますし、噂(うわさ)だけなら、だれでも聞いています。そして、そうした目撃談や噂、それに、事実を捏造(ねつぞう)しようとする下心もいくらかくわわって、いつしかクラム像がつくりあげられてしまいました。このクラム像は、たぶん本物とだいたいのところは合致しているでしょう。しかし、あくまでだいたいにすぎないのです。その他の点は、よく変るのです。といっても、クラムのほんとうの姿がよく変るほどは変らないでしょうが。クラムは、村にやってくるときと、村から出ていくときとでは、まるでちがって見えるそうです。ビールを飲むまえと飲んでからとではちがうし、目ざめているときと眠っているときとでもちがい、ひとりきりのときとだれかと話をしているときとでもちがう。また、そのことから推して知るべしですが、お城にいるときは、がらりと別人のように見えるということです。村のなかにおいてさえ、彼に関するいろんな報告にはかなり大きな食い違いがあります。背たけから物腰や態度、ふとり具合、ひげの形にいたるまで、それぞれ食いちがっています。ただ服装に関してだけは、さいわい、その報告も一致しています。いつもおなじ服装で、裾(すそ)の長い黒い上着を着ているというのです。ところで、言うまでもないことですが、こんなにいろいろな食い違いがあるのは、べつにクラムが魔術を使っているからではなく、しごく当りまえのことなのです。つまり、彼を見た人の、そのときの瞬間的な気分や、興奮の程度や、期待あるいは絶望の無数の度合いなどによって、食い違いが生じるのです。おまけに、クラムを見たといっても、たいていは一瞬間ほどしか見られないのです。いまお話したことはすべて、バルナバスからよく聞かされたことをそのままお伝えしているのです。個人的に直接この問題にかかわりのない人なら、だいたいこれで安心がいくはずです。でも、わたしたちの場合は、そういうわけにはいきません。とくにバルナバスにとっては、自分が話をしている相手がほんとうにクラムであるのか、そうでないのかということは、死活にかかわる問題ですわ』」(カフカ「城・P.292~295」新潮文庫 一九七一年)
城の機構との繋がりだけが生活の拠り所となっているバルナバスの家にすれば、城で絶対的存在とされているクラムが「ほんとうにクラムであるのか、そうでないのかということは、死活にかかわる問題」になるほかない。もしクラムに関する「疑惑が疑惑であること」を認めるとするとバルナバスは「ほんとうの」クラムと接触しているわけでは決してないか、接触しているとしても少なくともそれはまるで無意味だと認めることになってしまう。とすると、これまでバルナバスがやってきたすべての行動の根拠は根こそぎ失われる。しかし城の機構の<掟>に従っている限りバルナバス一家が破滅することはない。宿屋のお内儀もフリーダも助手たちも同様に<疑わない>態度を保持している以上、破滅に追い込まれるような事態はやって来ない。
ところがしかし世界がグローバル資本主義になると状況はずいぶん変わった。血の繋がりがあるかないかに関係なく、多様な形態で構成される家庭〔家族〕のあり方が大々的に出現し承認されるようになってきた。シングルあり、親が再婚して血縁でない子供たちあり、同性愛家庭〔家族〕あり、子供なし犬猫あり、ーーーというふうに家庭〔家族〕の形態は諸商品の無限の系列のようにどんどん発生している。ニーチェはいう。
「さまざまな困難が途方もなく増大してしまっているような生涯というものがある、思想家の生涯がそれである。ここでは、その生涯について何かが物語られた場合には、ひとは、注意深く、耳を傾けざるを得ない、というのは、それを聞いただけで幸福と力が溢れて来、しかも後に来たる者の生活に光が照射されるような、そうした《生の諸々の可能性》について、ここでは語られるのを聞き取り得るからである、ここでは、一切のものが、極めて発明的で、熟慮に充ち、大胆で、絶望的で、しかも充ち溢れる希望で一杯であり、あたかもいわば最も偉大なる世界周航者の旅路に似た観があって、また実際に、生の最も辺鄙なかつ最も危険の多い領域の周航と、同じような趣きをもったものだからである。このような生涯において驚嘆すべきことは、異なった方向に向かって突き進む二つの敵対的な衝動が、ここでは、いわば《一つの》軛(くびき)の下で進むように強制されているという事柄のうちにある。つまり、認識を欲する者は、人間生活が成り立っている地盤というものを、何度でも繰り返し離れ去って、不確実なるものの中へと冒険的に突き進んで行かねばならないし、また、生を欲する衝動の方は、その上に立脚できるほぼ確実な立場というものを求めて、何度でも繰り返し探索してゆかねばならない」(ニーチェ「哲学者の書・哲学者に関する著作のための準備草案・P.404~405」ちくま学芸文庫 一九九四年)
この箇所で「人間生活が成り立っている地盤」とはなんのことか。もはや血縁関係を重視する絶対的必要性は消え失せている。いつもすでに多様な形態を持つ家庭〔家族〕が大量に湧き起こってきており、むしろそれらなしにどんな社会活動もうまく作動することができなくなっている。さらにそもそもグローバル資本主義自身、人間の諸活動を必要としてはいても特に血縁関係を廃棄せよとは言わないが逆に重視せよと言ったこともまた一度もない。
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