Kはフリーダとの対話を通して二人の関係はすでに破綻したということを確認したに過ぎない。廊下を見渡すと請願者でごった返していた部屋はもう静まりかえっているようだ。ともかく廊下は遠くまで長く続いているらしい。縉紳館はそんなにも巨大な建築物だっただろうか。しかしカフカは書く。
「Kは、そのときやっと、廊下がすっかり静かになっていることに気づいた。Kがさっきまでフリーダといっしょにいた廊下のこの部分(このあたりは、店を経営している一家の部屋になっているらしかったが)だけでなく、さきほどは部屋からいろんな物音がしていた長い廊下全体が、しずまり返っていた。じゃ、お役人がたも、とうとうお眠りになったのだな」(カフカ「城・P.420」新潮文庫 一九七一年)
しんと静まった廊下のドアを見るとどのドアもみな同じ仕様になっていてどの役人がどの部屋にいるのか、Kにはまるで見分けが付かない。エルランガーが来ているからここに来るようにと告げられてきたKは試しに一つの部屋をのぞいてみる。するとエルランガーではないがビュルゲルという役人がいた。文庫本で約二十一頁ほど対話が続く。ほとんどビュルゲルの演説というに等しい。その長大さにもかかわらずエルランガーに会うためにこれからどうするのが最もベターか、Kには何一つわからなった。ビュルゲルの部屋を出てどれくらい歩いたかわからない。余りにも眠くて眠くて仕方なくなっていたKはしばらくのあいだ、本当に眠っていたかもしれない。そして目を覚ますとそこにエルランガーが立っており、Kに話しかけてきた。ビュルゲルの部屋とエルランガーの部屋との間には確かに廊下がある。しかし二人の部屋が離れているのかそれとも実は隣同士なのか、さっぱりはっきりしない。ところがそんなことはまるで関係ないこととしてエルランガーはしゃべり始めた。長い話だが聞いておかなくては後でまた聞き直さなければならなくなるかも知れないような内容。しかし一方、息をつめて注意深く神妙に聞いておいたとしても後で価値を持つどころか逆にまったく何らの価値も持ってこないような話である。
「『どうしてもっと早く来なかったのですか』と、エルランガーは言った。Kは、言いわけをしようとした。が、エルランガーは、疲れたように眼をとじて、言いわけは結構という合図をした。『あなたにお伝えしておかなくてはならんことは、つぎのことです。この家の酒場に、もとフリーダとかいう女が務めていた。わたしは、名前しか知らず、本人に会ったことはありません。わたしに関係ないことですからね。このフリーダは、ときおりクラムにビールの給仕などをしておったようです。いまは、別の娘が酒場にいるようです。もちろん、こんな異動なんか、どうだってよいことです。おそらくだれにとってもそうでしょうが、クラムにとっては、確かに問題にもならんことにちがいありません。しかしですね、仕事が大きくなればなるほど(もちろん、クラムの仕事は、いちばん大きいのですが)、外部にたいして身を守る力が、それだけすくなくなる道理です。その結果、どんなに些細(ささい)な事柄の、どんなに些細な変更にでもこころを乱されることになります。たとえば、机の上の様子がちょっと変ったとか、まえからそこにあった汚点(しみ)が消されたとか、そういうことにでも気持が乱されます。給仕女が交替したということでもそうです。もちろん、ほかの人やほかの仕事の場合ならいざしらず、クラムは、こんなことぐらいでは気持を乱されません。そういうことは、問題にもなりません。にもかかわらず、わたしたちは、クラムができるだけ気持よく仕事に専念できるように見張っていなくてはならない義務があるのでして、クラムにとってはなんの障害にもならないようなことであってもーーーおそらくクラムにとっては、この世に障害なんて存在しないでしょうがーーー障害になるかもしれないとおもえば、これを除去するのです。わたしたちがこのような障害をとりのぞくのは、クラムやクラムの仕事のためではなく、わたしたち自身のため、わたしたちの良心の安らぎのためです。ですから、フリーダという女は、即刻酒場に戻らなくてはならないのです。酒場に戻ったら戻ったでまた障害になるかもしれませんが、そのときはまた出ていってもらうまでです。しかし、いまさしあたっては、どうしても戻る必要があります。わたしが聞いたところでは、あなたは、この女と同棲(どうせい)しているそうですね。だったら、この女がすぐに戻れるようにしてください。この際、個人的な感情なんかは、斟酌(しんしゃく)するわけにはいきません。あたりまえの話ですよ。だから、この件についてこれ以上すこしでも議論をすることはお断りします。これはもうよけいなお節介になるかもしれませんが、念のために申しあげておきますと、こういう小さなことででもあなたが見あげた人だということになれば、ときとしてあなたの今後の生活にも役だつことがあるかもしれませんよ。あなたにお伝えしなくてはならないことは、これだけです』。エルランガーは、別れの挨拶(あいさつ)がわりにKにうなづいてみせ、従僕から渡された帽子をかぶると、急いで、といっても、すこしびっこを引きながら、廊下を遠ざかっていった」(カフカ「城・P.444~445」新潮文庫 一九七一年)
聞けば聞くほど「クラムとは誰か?」という問いが増殖していく。カフカはそういう官僚機構のことを書こうとしたのだろうか。一つは確かにそうだろう。読者の側の反応はどうだったか。特に官僚機構に限らず民間企業に勤める人々にも同様の衝撃を与えた。少年少女たちはともかく、少なくとも何らかの職業に就いたことのある人々にとっては誰しも一度ならず経験のあるわずらわしいばかりの文章が延々と続いていたからである。「クラムとは誰か?」という問いがぶら下がっている限り、その説明はどのようにでも長文化することができ、また逆にほぼひとことで済ませることもできる。長文のケースが圧倒的に多いためついつい錯覚しそうになりがちだけれども、そのぶん逆に短縮された形式が目立つ。例えば登場人物たちが怒った時にしばしば発する台詞(せりふ)、「クラムはクラムだ」というふうに。さらにここでもまた「廊下」を挟んで整然と二列に向き合う形で各部屋の配列が見られる。そしてKが重要だと思っていた部屋がついさっきまでいた部屋の隣かと思われる位置に忽然と出現するのは「審判」の画家ティトレリとKとのやりとりでも見られる。
「『全部つつんでください!』、と彼は叫んで画家のおしゃべりを遮(さえぎ)った、『あした小使にとりに来させます』。『その必要はありません』、と画家は言った、『いますぐあなたと行ける運び手を見つけられるでしょう』。そしてようやく彼はベッドの上にかがみこみ、ドアの鍵を開けた。『遠慮なくベッドに上ってください』と画家は言った、『ここに来る人はみんなそうするんですから』。そうすすめてくれなくてもKは遠慮なぞしなかっただろう。それどころか彼はすでに片足を羽根ぶとんにのせてさえいたのだが、開いたドアから外を見て、またその足をひっこめてしまった。『あれはなんです?』、と彼は画家にきいた。『何を驚いてるんです?』、と画家のほうでも驚いてきき返した、『裁判所事務局ですよ。裁判所事務局がここにあるのをご存じなかったんですか?ほとんどこの屋根裏にだって裁判所事務局があるのに、ここにあっていけないわけがないでしょう?わたしのアトリエも本来裁判所事務局の一部なんですが、裁判所がわたしに使わしてくれてるんですよ』。Kはこんなところにまで裁判所事務局を見出(みいだ)したことにそれほど驚いたのではなかった。それより彼は自分にたいし、自分の裁判所に関する無知にぞっとしたのだった」(カフカ「審判・P.220~229」新潮文庫 一九九二年)
極めて今日的でリアルでショッキングでさえある場面。だからといってカフカのような小説形式を用いて何か書いたとしても誰一人として読んでくれないに違いない。カフカは無用になったのか。そういうわけではまるでない。むしろますます重要性を増した。けれどもカフカは知ってか知らずかもはや誰にもわからないが、或る種の一度限り許される「文体」を発明したとはいえる。なまなまし過ぎるリアルさはその「文体」からもたらされたものだ。カフカについてではないが、インタヴューに答えてドゥルーズがこんなことを言っている。
「文体とは、国語を変異させることであり、転調することであり、言語全体がひとつの<外>をめざして張りつめた状態を指します。哲学でも、基本は小説と同じで、『これから何がおこるのか』、『何がおこったのか』と自分に問わなければならないのです。ただ、登場人物のかわりに概念があり、境遇や風景のかわりに時空間があるところが、違いといえば違いでしょうか。文章を書く目的は生を与えること、そして生が閉じ込められていたら、そこから生を解き放つこと、あるいは逃走線を引くことなのです。そのためには、言語が等質の体系であることをやめ、不均衡と、恒常的な非等質の状態に置かれなければならない。文体は言語のなかに潜在性の差異を刻むわけですが、そうなれば差異と差異のあいだを何かが流れ、何かがおこるようになるばかりか、言語そのものから閃光が走り、語の周囲を満たす暗闇に沈んでいるため、それまでは存在することすらほとんど知られていなかったさまざまな実体を、私たちに見させたり、考えさせたりするのです。文体の成立をさまたげるものがふたつあります。体系言語の等質性がひとつ、そしてもうひとつは、逆に非等質性が大きすぎるため、せっかくの非等質性も差異の不在や無償性にすがたを変えてしまい、極と極のあいだをはっきりしたものが何ひとつ流れなくなる場合。主節と従属節とのあいだには、文が完全な直線に見えるときですら、いやそう見えるときこそ、緊張と、ある種のジグザグ運動がなければならないのです。語と語がたがいに遠く離れていても、ある語から別の語へと波及する閃光を語そのものが産み出すとき、文体はあらわれるのです」(ドゥルーズ「記号と事件・4・哲学・P.283~284」河出文庫 二〇〇七年)
この言葉でドゥルーズは大きく分けて二つの要素を語っているように思われる。いずれもニーチェから。
(1)「私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.44』ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「個々の哲学的概念は何ら任意なもの、それだけで生育したものではなく、むしろ互いに関係し類縁を持ち合って伸長するものであり、それらはどんなに唐突に、勝手次第に思惟の歴史のうちに出現するように見えても、やはり或る大きな大陸の動物のすべての成員が一つの系統に属するように、一つの系統に属している。このことは結局、極めて様々の哲学者たちもいかに確実に《可能な》諸哲学の根本図式を繰り返し充(み)たすか、という事実のうちにも窺(うかが)われる。彼らは或る眼に見えない呪縛(じゅばく)のもとに、常にまたしても新しく同一の円軌道を廻(めぐ)るのである。彼らはその批判的または体系的な意志をもって、なお互いに大いに独立的であると自ら感じているであろう。彼らのうちにある何ものかが彼らを導き、何ものかが一定の秩序において次々と彼らを駆り立てる。それはまさしく概念のあの生得的な体系性と類縁性とにほかならない。彼らの思惟は実は発見ではなく、むしろ再認であり、想起であり、かつてあの諸概念が発生して来た遥遠な大昔の魂の全世帯への還帰であり帰郷である。ーーーそのかぎりにおいて、哲学することは一種の高級な先祖返りである。すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の不思議な家族的類縁性は、申し分なく簡単に説明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげでーーー思うに、同様な文法的機能による支配と指導とのおかげでーーー始めから一切が哲学大系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは、全く避けがたいところである。同様にまた、世界解釈の或る別の可能性への道が塞(ふさ)がれていることも避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏の哲学者たち(そこにおいては、主語概念が甚だしく発達していない)が、インド・ゲルマン族や回教徒とは異なった風に『世界を』眺め、異なった道を歩んでいることは、多分にありうべきことであろう。特定の文法的機能の呪縛は究極のところ《生理学的》価値判断と種族的条件の呪縛である」(ニーチェ「善悪の彼岸・二〇・P.38~39」岩波文庫 一九七〇年)
言葉にならないものを言葉で伝達しようとするとき、人々はどうするだろうか。延々と説明し続けるかそれとも単純なひとことで済ませてしまうか。両者を組み合わせてみるか。しかしそのいずれにしても、例えばカフカが描いたKのような場合、いたずらにKを過労死へ追いやってしまうことにならないだろうか。実際に過労死は多発しておりもはや多くの人々は慣れて習慣化してしまい、すぐ近くにいる瀕死の家族や同僚や級友たちを半殺しの状態に吊り上げてしまってはいないだろうか。少なくともフーコーやドゥルーズはその種の堂々巡りから脱出するための突破口を見出した。画家ティトレリの部屋の隣に裁判所事務局がある。行こうと思えばその場にいながらにして到達してしまう。考えられもしなかった隣部屋がすでに裁判所事務局である。ネット社会のようにまさかという間もなく出現する。しかし手続上必要な「柵」を越えていこうとすると「柵」はどこまでも遠のいたり逆に不意打ちをかけてきたり常に<可動的>である。ますますネット社会に似てくる。
今の世間ではネット投稿の「匿名性」が問題にされることが多い。問題にしている専門家もまた多い。多すぎるくらいだ。多すぎると専門家もまた「専門家<という名の>匿名性」の罠に自らはまり込むばかりである。さてそこで、ドゥルーズが例文として上げている文章がある。「太陽が昇る」。こういう時の「太陽」とは一体なんなのか。あるいは「そよぐ風」という時の「風」など。
探せばもっとあるに違いない。例えばマスコミで流れる「事件」、「社交界」という時の「界」、「生きている」という時の「生」。「地域紛争」という時の「紛争」。それらはどれも非-人格的な<固有名>でしかあり得ない。多くの政治家が「個人的には」という時の驚くべき無責任性に包み込まれた「個人」とは全然次元の違う事態である。そもそも非-人格的な<固有名>が非-人格的とか非-人称的とか呼ぶしかないのはそれがまったくの個人では決して成り立たない時空間だからだ。人間はたった一人で「自分は人間である」ということはできても鏡になり得る<他者>がいなくては誰一人それを「承認することは不可能」なのとまるっきり同じ事情である。<外><他者>というものとの出会いを常に求め開いていく作業とともにでしかあり得ない。人間は生まれるやただちに<他者>の汚染を被る限りで始めて人間であると承認されるわけであって、生存の流れは生まれてくる前すでに「個人的」ではあり得ないという事情がその根拠にいつもある。一人でいる時も様々な物質(酸素、土、机、電信機器、などなど)と接続=交換している以上、地球上の誰一人として「個人」でいることはできない。ミクロ単位では精一杯新陳代謝している。ましてや「個人的には」という言葉を口にできる権利はあっても空想でしかなく、事実上存在しない内容と繋がれた言葉をあたかも実在する状態であるかのように資格として用いることは誰にもできない。
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「Kは、そのときやっと、廊下がすっかり静かになっていることに気づいた。Kがさっきまでフリーダといっしょにいた廊下のこの部分(このあたりは、店を経営している一家の部屋になっているらしかったが)だけでなく、さきほどは部屋からいろんな物音がしていた長い廊下全体が、しずまり返っていた。じゃ、お役人がたも、とうとうお眠りになったのだな」(カフカ「城・P.420」新潮文庫 一九七一年)
しんと静まった廊下のドアを見るとどのドアもみな同じ仕様になっていてどの役人がどの部屋にいるのか、Kにはまるで見分けが付かない。エルランガーが来ているからここに来るようにと告げられてきたKは試しに一つの部屋をのぞいてみる。するとエルランガーではないがビュルゲルという役人がいた。文庫本で約二十一頁ほど対話が続く。ほとんどビュルゲルの演説というに等しい。その長大さにもかかわらずエルランガーに会うためにこれからどうするのが最もベターか、Kには何一つわからなった。ビュルゲルの部屋を出てどれくらい歩いたかわからない。余りにも眠くて眠くて仕方なくなっていたKはしばらくのあいだ、本当に眠っていたかもしれない。そして目を覚ますとそこにエルランガーが立っており、Kに話しかけてきた。ビュルゲルの部屋とエルランガーの部屋との間には確かに廊下がある。しかし二人の部屋が離れているのかそれとも実は隣同士なのか、さっぱりはっきりしない。ところがそんなことはまるで関係ないこととしてエルランガーはしゃべり始めた。長い話だが聞いておかなくては後でまた聞き直さなければならなくなるかも知れないような内容。しかし一方、息をつめて注意深く神妙に聞いておいたとしても後で価値を持つどころか逆にまったく何らの価値も持ってこないような話である。
「『どうしてもっと早く来なかったのですか』と、エルランガーは言った。Kは、言いわけをしようとした。が、エルランガーは、疲れたように眼をとじて、言いわけは結構という合図をした。『あなたにお伝えしておかなくてはならんことは、つぎのことです。この家の酒場に、もとフリーダとかいう女が務めていた。わたしは、名前しか知らず、本人に会ったことはありません。わたしに関係ないことですからね。このフリーダは、ときおりクラムにビールの給仕などをしておったようです。いまは、別の娘が酒場にいるようです。もちろん、こんな異動なんか、どうだってよいことです。おそらくだれにとってもそうでしょうが、クラムにとっては、確かに問題にもならんことにちがいありません。しかしですね、仕事が大きくなればなるほど(もちろん、クラムの仕事は、いちばん大きいのですが)、外部にたいして身を守る力が、それだけすくなくなる道理です。その結果、どんなに些細(ささい)な事柄の、どんなに些細な変更にでもこころを乱されることになります。たとえば、机の上の様子がちょっと変ったとか、まえからそこにあった汚点(しみ)が消されたとか、そういうことにでも気持が乱されます。給仕女が交替したということでもそうです。もちろん、ほかの人やほかの仕事の場合ならいざしらず、クラムは、こんなことぐらいでは気持を乱されません。そういうことは、問題にもなりません。にもかかわらず、わたしたちは、クラムができるだけ気持よく仕事に専念できるように見張っていなくてはならない義務があるのでして、クラムにとってはなんの障害にもならないようなことであってもーーーおそらくクラムにとっては、この世に障害なんて存在しないでしょうがーーー障害になるかもしれないとおもえば、これを除去するのです。わたしたちがこのような障害をとりのぞくのは、クラムやクラムの仕事のためではなく、わたしたち自身のため、わたしたちの良心の安らぎのためです。ですから、フリーダという女は、即刻酒場に戻らなくてはならないのです。酒場に戻ったら戻ったでまた障害になるかもしれませんが、そのときはまた出ていってもらうまでです。しかし、いまさしあたっては、どうしても戻る必要があります。わたしが聞いたところでは、あなたは、この女と同棲(どうせい)しているそうですね。だったら、この女がすぐに戻れるようにしてください。この際、個人的な感情なんかは、斟酌(しんしゃく)するわけにはいきません。あたりまえの話ですよ。だから、この件についてこれ以上すこしでも議論をすることはお断りします。これはもうよけいなお節介になるかもしれませんが、念のために申しあげておきますと、こういう小さなことででもあなたが見あげた人だということになれば、ときとしてあなたの今後の生活にも役だつことがあるかもしれませんよ。あなたにお伝えしなくてはならないことは、これだけです』。エルランガーは、別れの挨拶(あいさつ)がわりにKにうなづいてみせ、従僕から渡された帽子をかぶると、急いで、といっても、すこしびっこを引きながら、廊下を遠ざかっていった」(カフカ「城・P.444~445」新潮文庫 一九七一年)
聞けば聞くほど「クラムとは誰か?」という問いが増殖していく。カフカはそういう官僚機構のことを書こうとしたのだろうか。一つは確かにそうだろう。読者の側の反応はどうだったか。特に官僚機構に限らず民間企業に勤める人々にも同様の衝撃を与えた。少年少女たちはともかく、少なくとも何らかの職業に就いたことのある人々にとっては誰しも一度ならず経験のあるわずらわしいばかりの文章が延々と続いていたからである。「クラムとは誰か?」という問いがぶら下がっている限り、その説明はどのようにでも長文化することができ、また逆にほぼひとことで済ませることもできる。長文のケースが圧倒的に多いためついつい錯覚しそうになりがちだけれども、そのぶん逆に短縮された形式が目立つ。例えば登場人物たちが怒った時にしばしば発する台詞(せりふ)、「クラムはクラムだ」というふうに。さらにここでもまた「廊下」を挟んで整然と二列に向き合う形で各部屋の配列が見られる。そしてKが重要だと思っていた部屋がついさっきまでいた部屋の隣かと思われる位置に忽然と出現するのは「審判」の画家ティトレリとKとのやりとりでも見られる。
「『全部つつんでください!』、と彼は叫んで画家のおしゃべりを遮(さえぎ)った、『あした小使にとりに来させます』。『その必要はありません』、と画家は言った、『いますぐあなたと行ける運び手を見つけられるでしょう』。そしてようやく彼はベッドの上にかがみこみ、ドアの鍵を開けた。『遠慮なくベッドに上ってください』と画家は言った、『ここに来る人はみんなそうするんですから』。そうすすめてくれなくてもKは遠慮なぞしなかっただろう。それどころか彼はすでに片足を羽根ぶとんにのせてさえいたのだが、開いたドアから外を見て、またその足をひっこめてしまった。『あれはなんです?』、と彼は画家にきいた。『何を驚いてるんです?』、と画家のほうでも驚いてきき返した、『裁判所事務局ですよ。裁判所事務局がここにあるのをご存じなかったんですか?ほとんどこの屋根裏にだって裁判所事務局があるのに、ここにあっていけないわけがないでしょう?わたしのアトリエも本来裁判所事務局の一部なんですが、裁判所がわたしに使わしてくれてるんですよ』。Kはこんなところにまで裁判所事務局を見出(みいだ)したことにそれほど驚いたのではなかった。それより彼は自分にたいし、自分の裁判所に関する無知にぞっとしたのだった」(カフカ「審判・P.220~229」新潮文庫 一九九二年)
極めて今日的でリアルでショッキングでさえある場面。だからといってカフカのような小説形式を用いて何か書いたとしても誰一人として読んでくれないに違いない。カフカは無用になったのか。そういうわけではまるでない。むしろますます重要性を増した。けれどもカフカは知ってか知らずかもはや誰にもわからないが、或る種の一度限り許される「文体」を発明したとはいえる。なまなまし過ぎるリアルさはその「文体」からもたらされたものだ。カフカについてではないが、インタヴューに答えてドゥルーズがこんなことを言っている。
「文体とは、国語を変異させることであり、転調することであり、言語全体がひとつの<外>をめざして張りつめた状態を指します。哲学でも、基本は小説と同じで、『これから何がおこるのか』、『何がおこったのか』と自分に問わなければならないのです。ただ、登場人物のかわりに概念があり、境遇や風景のかわりに時空間があるところが、違いといえば違いでしょうか。文章を書く目的は生を与えること、そして生が閉じ込められていたら、そこから生を解き放つこと、あるいは逃走線を引くことなのです。そのためには、言語が等質の体系であることをやめ、不均衡と、恒常的な非等質の状態に置かれなければならない。文体は言語のなかに潜在性の差異を刻むわけですが、そうなれば差異と差異のあいだを何かが流れ、何かがおこるようになるばかりか、言語そのものから閃光が走り、語の周囲を満たす暗闇に沈んでいるため、それまでは存在することすらほとんど知られていなかったさまざまな実体を、私たちに見させたり、考えさせたりするのです。文体の成立をさまたげるものがふたつあります。体系言語の等質性がひとつ、そしてもうひとつは、逆に非等質性が大きすぎるため、せっかくの非等質性も差異の不在や無償性にすがたを変えてしまい、極と極のあいだをはっきりしたものが何ひとつ流れなくなる場合。主節と従属節とのあいだには、文が完全な直線に見えるときですら、いやそう見えるときこそ、緊張と、ある種のジグザグ運動がなければならないのです。語と語がたがいに遠く離れていても、ある語から別の語へと波及する閃光を語そのものが産み出すとき、文体はあらわれるのです」(ドゥルーズ「記号と事件・4・哲学・P.283~284」河出文庫 二〇〇七年)
この言葉でドゥルーズは大きく分けて二つの要素を語っているように思われる。いずれもニーチェから。
(1)「私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.44』ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「個々の哲学的概念は何ら任意なもの、それだけで生育したものではなく、むしろ互いに関係し類縁を持ち合って伸長するものであり、それらはどんなに唐突に、勝手次第に思惟の歴史のうちに出現するように見えても、やはり或る大きな大陸の動物のすべての成員が一つの系統に属するように、一つの系統に属している。このことは結局、極めて様々の哲学者たちもいかに確実に《可能な》諸哲学の根本図式を繰り返し充(み)たすか、という事実のうちにも窺(うかが)われる。彼らは或る眼に見えない呪縛(じゅばく)のもとに、常にまたしても新しく同一の円軌道を廻(めぐ)るのである。彼らはその批判的または体系的な意志をもって、なお互いに大いに独立的であると自ら感じているであろう。彼らのうちにある何ものかが彼らを導き、何ものかが一定の秩序において次々と彼らを駆り立てる。それはまさしく概念のあの生得的な体系性と類縁性とにほかならない。彼らの思惟は実は発見ではなく、むしろ再認であり、想起であり、かつてあの諸概念が発生して来た遥遠な大昔の魂の全世帯への還帰であり帰郷である。ーーーそのかぎりにおいて、哲学することは一種の高級な先祖返りである。すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の不思議な家族的類縁性は、申し分なく簡単に説明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげでーーー思うに、同様な文法的機能による支配と指導とのおかげでーーー始めから一切が哲学大系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは、全く避けがたいところである。同様にまた、世界解釈の或る別の可能性への道が塞(ふさ)がれていることも避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏の哲学者たち(そこにおいては、主語概念が甚だしく発達していない)が、インド・ゲルマン族や回教徒とは異なった風に『世界を』眺め、異なった道を歩んでいることは、多分にありうべきことであろう。特定の文法的機能の呪縛は究極のところ《生理学的》価値判断と種族的条件の呪縛である」(ニーチェ「善悪の彼岸・二〇・P.38~39」岩波文庫 一九七〇年)
言葉にならないものを言葉で伝達しようとするとき、人々はどうするだろうか。延々と説明し続けるかそれとも単純なひとことで済ませてしまうか。両者を組み合わせてみるか。しかしそのいずれにしても、例えばカフカが描いたKのような場合、いたずらにKを過労死へ追いやってしまうことにならないだろうか。実際に過労死は多発しておりもはや多くの人々は慣れて習慣化してしまい、すぐ近くにいる瀕死の家族や同僚や級友たちを半殺しの状態に吊り上げてしまってはいないだろうか。少なくともフーコーやドゥルーズはその種の堂々巡りから脱出するための突破口を見出した。画家ティトレリの部屋の隣に裁判所事務局がある。行こうと思えばその場にいながらにして到達してしまう。考えられもしなかった隣部屋がすでに裁判所事務局である。ネット社会のようにまさかという間もなく出現する。しかし手続上必要な「柵」を越えていこうとすると「柵」はどこまでも遠のいたり逆に不意打ちをかけてきたり常に<可動的>である。ますますネット社会に似てくる。
今の世間ではネット投稿の「匿名性」が問題にされることが多い。問題にしている専門家もまた多い。多すぎるくらいだ。多すぎると専門家もまた「専門家<という名の>匿名性」の罠に自らはまり込むばかりである。さてそこで、ドゥルーズが例文として上げている文章がある。「太陽が昇る」。こういう時の「太陽」とは一体なんなのか。あるいは「そよぐ風」という時の「風」など。
探せばもっとあるに違いない。例えばマスコミで流れる「事件」、「社交界」という時の「界」、「生きている」という時の「生」。「地域紛争」という時の「紛争」。それらはどれも非-人格的な<固有名>でしかあり得ない。多くの政治家が「個人的には」という時の驚くべき無責任性に包み込まれた「個人」とは全然次元の違う事態である。そもそも非-人格的な<固有名>が非-人格的とか非-人称的とか呼ぶしかないのはそれがまったくの個人では決して成り立たない時空間だからだ。人間はたった一人で「自分は人間である」ということはできても鏡になり得る<他者>がいなくては誰一人それを「承認することは不可能」なのとまるっきり同じ事情である。<外><他者>というものとの出会いを常に求め開いていく作業とともにでしかあり得ない。人間は生まれるやただちに<他者>の汚染を被る限りで始めて人間であると承認されるわけであって、生存の流れは生まれてくる前すでに「個人的」ではあり得ないという事情がその根拠にいつもある。一人でいる時も様々な物質(酸素、土、机、電信機器、などなど)と接続=交換している以上、地球上の誰一人として「個人」でいることはできない。ミクロ単位では精一杯新陳代謝している。ましてや「個人的には」という言葉を口にできる権利はあっても空想でしかなく、事実上存在しない内容と繋がれた言葉をあたかも実在する状態であるかのように資格として用いることは誰にもできない。
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