白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「オイディプス三角形型家父長制」を崩壊させる<貨幣>としての<娼婦・女中・姉妹>の系列

2022年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム
<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する女性の中でKにとってフリーダと双璧をなすもう一人の女性・オルガ。<娼婦・女中・姉妹>はどんな女性であってもよいわけではなく特に「若い」女性でなくてはならない。オルガはバルナバスの姉でありバルナバスは城と村民との連絡役に就いている。Kにとってクラムの愛人・フリーダは城との繋がりを維持するために切り離すわけにいかない「若い」女性である。オルガもまたクラムから書類を預かってきたりKの側から連絡を伝えたりすることのできるバルナバスの姉であり同時に「若い」女性である。宿屋のお内儀は女性だがすでに若くない。お内儀が若くないのは実年齢が何歳かということが問題なのではまるでない。城の村の中で<父母>の立場を直接的に代表する<定住民>の位置にすっかり収まっているため、あらかじめ<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する女性たち<非定住民>とはそもそも異なっており、両者が重なり合うことはどこまで行ってもあり得ないからである。むしろお内儀は<定住民>の立場から<非定住民>としてのフリーダをKへ「派遣」して村の機構の<掟>へコード化・同一化することを大いに勧めようとする。だがフリーダはKと結婚することを望んでおり、お内儀の言葉はフリーダの気まぐれ次第でどうにでも変形される。フリーダは託されたものを流通させるだけでなく変形・加工する下請け部門をも演じることができる。しかしその立場に位置している限り、決して<定住民>として承認されることはない。というより逆に村の<掟>の基盤とされている「オイディプス三角形型家父長制」に対して当たり前のように背を向けている恐るべき爆発物のようであり、にもかかわらずそれなしに村の<掟>をスムーズに執行させることなど考えられもしない<貨幣>の機能を人間の身体のままで演じる。「変身」の「グレーテ」、「審判」の「レーニ」、「城」だと「フリーダ、オルガ」がそれに当たる。

ところでバルナバスだが、バルナバスは城から何らかの役割を得てくる。だが城の官僚制度の中のどの階級に属するのか、まるで判然としない。オルガはいう。

「『あの上着のことですか。いいえ、あれはね、あの子が使者になるよりまえに、アマーリアがこしらえてやったんです。でも、あなたは、だんだん痛いところを突いていらっしゃいますわ。バルナバスは、お仕着せなんかじゃなく(城にはお仕着せなどないのです)、もうとっくにお役所から服を支給されていなくてはならないんです。事実、官服を支給するという確約さえあったのです。ところが、こういう点になると、お城の仕事ぶりは、じつにおそいのです。しかも、困ったことには、こんなにおそいのはどういう意味なのか、ついぞわかりようがないのです。それは、この問題が目下事務局に処理されつつあるということを意味しているかもしれません。あるいは、まだとりあげられていない、したがって、たとえばバルナバスをまだ依然として試(ため)してみようということなのかもしれません。しかし、最後には、事務上の処理はすでに終り、なんらかの理由でさきの確約は取消しになり、バルナバスは服を支給してもらえないということを意味しているのかもしれないのです。それ以上くわしいことは、知りようがありませんし、たとえ知ることができたとしても、ずっと後になってからのことです』」(カフカ「城・P.288~289」新潮文庫 一九七一年)

オルガの話の重点は彼らの「服装」へ移る。城の村の官僚機構でひときわ大きく物を言うのは彼らの「服装」の違いであり「制服」の仕様である。オルガの説明は長い。けれども、より正確に説明しようとすればするほど限りなく延々と引き延ばされていくほかないように見える。しかし「そう見える」ことこそ村の機構の<掟>がどのようなものなのかを最も正確に反響させている。どこまでも無限に引き延ばし可能な説明文。まとめることは決してできない天文学的なスケールにまで延長可能な説明文。それでは説明にならないのではと誰しも思うだろう。そのとおり、説明にならないに等しい。説明にならないかのように思えるのは確かだけれども、かといって何一つ知らないでは済まされない長大な説明。この種の官僚主義は例えば政府発注の大型公共工事に似ている。大規模になればなるほど何重もの下請け企業が組み込まれてくるため、あえて「責任者層」と呼ぶほかなく、どこの誰が唯一絶対的責任者だと決定不能に陥るケース。「あるようでない」にもかかわらず、だからといって「どうでもいい」とは言えない重要性を帯びてくる。逆に責任の度合いを数値化すればするほどすべての関係者にそれぞれ何割かずつの責任が積み重なり、処理機能をオーバーするとたちまち崩壊し地面に落下してこざるを得ない。そして精神的重傷を負わされるのはなぜかいつも有権者の側というわけだ。

「『だけど、官服のことですが、これこそ、バルナバスの心配の種のひとつなのです。そして、わたしたちは心配ごとをともにしていますから、わたしの心配の種でもあるのです。どうして官服を支給してもらえないのかしら、とわたしたちは自問するのですが、答えは見つかりません。ところが、この問題全体は、それほど簡単なことではないのです。たとえば、お役人たちは、およそ官服というものをもっていないようです。わたしたちが村で知るかぎりでは、また、バルナバスから聞いたかぎりでも、お役人たちは、りっぱではありますが、ふうつの平服を着て歩きまわっています。そうですわ、あなたは、クラムをごらんになったのでしたね。ところで、バルナバスは、もちろん、役人ではありません。いちばん下っぱの役人でもありませんし、そんものになりたいというような分限をこえたことも考えていません。しかし、高級な従僕、もちろん、村ではこの人たちの姿を見かけることもできないのですが、この人たちも、バルナバスの話では、やはり官服をもっていないそうです。それならばいくらか慰めになるじゃないか、と早合点なさるかもしれませんが、それは嘘(うそ)です。と言いますのは、バルナバスは、高級な従僕でしょうか。ちがうのです。彼にどんな好意をよせていても、そんなことは言えません。彼は、高級従僕ではありません。彼が村へ降りてくる、それどころか、村に住んでさえいるという事実だけでも、そうでないことの明白な証拠ですわ。高級従僕は、お役人たちよりも近づきがたい存在です。これは、当然のことかもしれません。たぶん、あの人たちのほうが、ふつうの役人よりも身分も上なのでしょう。それを証拠だてるような二、三の事実がありますわ。高級従僕ともなれば、あまり仕事もしないのです。そして、バルナバスの話によると、この屈強な、えりぬきの大男たちが廊下をのそりのそりと歩きまわっている様子は、見るもすばらしい光景だということです。バルナバスは、彼らのそばでは、いつも小さくなってかしこまっているのです。つまり、バルナバスが高級従僕だなんてことは、まったく問題にもならないのです。だとすると、身分の低い従僕のひとりであるといえないこともないでしょう。ところが、下級従僕たちは、すくなくとも村へやってくるかぎりでは、まさしく官服を着ているのです。それは、ほんとうのお仕着せというようなものではありません。まちまちな点もあるのです。それでも、とにかく服装を見れば、お城の従僕だってことがすぐにわかります。あなたも、縉紳館(しんしんかん)でそういう連中をごらんになったはずですね。彼らの服装のいちばん目だった特徴といえば、たいていからだにぴったりとくっついているという点です。百姓か職人だったら、あんな服は使いものにならないでしょう。そういうわけで、バルナバスは、こういう服を支給されていないのです。これは、なにもわたしたちの恥や不面目だというだけではないのです。それだけのことなら、我慢することもできるでしょう。けれども、特に気持が沈んでいるようなときにはーーーバルナバスもわたしも、ごくまれというのではなく、ときどき気持がめいることがありますわーーーそのことを考えると、すべてのことが疑えてくるのです。そういうときにわいてくる疑問はーーーいったい、バルナバスがしていることはお城にたいするご奉公だろうか、ということです』」(カフカ「城・P.289~290」新潮文庫 一九七一年)

オルガの困惑ははきはきした言葉で告げられている。九十頁ほど前、バルナバスはこう言っていた。自分は「いつだって最善を尽しているんですよ」と。

「『クラムのところがどんな具合になっているのか、おれは知らないし、きみならクラムのところのことがなんでも正確にわかるというのも、どうも眉唾(まゆつば)ものだな。たとえきみにわかるとしても、おれたちは、事態を好転させるわけにはいくまい。しかし、使いの手紙をもっていくだけのことなら、きみにもできることで、おれが頼んでいるのも、そのことなんだ。ごく簡単な用件だ。それをあすにでももっていって、あすすぐに返事を聞かせてくれることができるかね。すくなくとも、クラムがきみをどんなふうに迎えたかということだけでも、知らせてほしい。きみにそれができるだろうか。そして、きみにそうしてくれる意志があるかね。そうしてもらえると、とてもありがたいんだ。たぶん、いつかそれ相応のお礼をする機会があるだろう。それとも、いますぐにでもおれがかなえてやれるような希望でもあるかね』。『確かにお言いつけをはたしましょう』。『じゃ、おれの頼むことをできるだけうまくやってみる努力をしてくれるのだね。それをクラムにとどけ、クラム自身の返事をもらってくるのだよ。それも、すぐにだ。なにごともすぐに、あすの午前中にでもやってくれるかね』。『最善を尽してみましょう』と、バルナバスは、答えた。『ですが、わたしは、いつだって最善を尽しているんですよ』」(カフカ「城・P.205~206」新潮文庫 一九七一年)

とすればKが最善を尽くそうとすればするほど遂に疲労困憊の果てに死んでしまうのではないか。だが死んだかどうかはわからない。小説が未完だからというわけではなく、いつまで経ってもぐるぐるぐるぐる城の機構を歩き回り続けることがKに与えられKが演じて見せなければならない運動のすべてだからである。とりわけ「審判」は<諸断片>のモザイクという印象の強い作品だが「城」もまた途切れ途切れではなかろうかと思わせる箇所が幾つも指摘できるような構造を取っている。この事情はカフカの実力不足や時間切れではなくて逆にあり余る実力ゆえにそうなるしかない慎重な態度の言語化なのだというべきだろう。また官僚組織が課してくる<掟>について「彼らの服装のいちばん目だった特徴といえば、たいていからだにぴったりとくっついているという点です」とある。カフカの持病の一つに「緊張症」があった。統合失調症に分類される症状の一つに「緊張型」があるが、カフカの場合は普通に仕事ができていたため病気と診断されねばならないほど重症ではなかったのだろう。しかし時おりこの「緊張症」に襲われることがあった。自分の意志とは関係なく身体が「ぴっちりと」硬直するもので、自分の中心部に忽然と<他者>が出現する感覚。身体に狙いを付けられ自分の身体の中心部はそっくり<他者>の内在によって動く。しかしなぜそうなるのか。フーコーは<パノプティコン>(一望監視装置)についてこう語っている。二箇所引用。

(1)「ベンサムの考えついた<一望監視施設>(パノプティコン)は、こうした組み合わせの建築学的な形象である。その原理はよく知られているとおりであって、周囲には円環状の建物、中心に塔を配して、塔には円周状にそれを取巻く建物の内側に面して大きい窓がいくつもつけられる(塔から内庭ごしに、周囲の建物のなかを監視するわけである)。周囲の建物は独房に区分けされ、そのひとつひとつが建物の奥行をそっくり占める。独房には窓が二つ、塔の窓に対応する位置に、内側へむかって一つあり、外側に面するもう一つの窓から光が独房を貫くようにさしこむ。それゆえ、中央の塔のなかに監視人を一名配置して、各独房内には狂人なり病者なり受刑者なり労働者なり生徒なりをひとりずつ閉じ込めるだけで充分である。周囲の建物の独房内に捕えられている人間の小さい影が、はっきり光のなかに浮かびあがる姿を、逆光線の効果で塔から把握できるからである。独房の檻の数と同じだけ、小さい舞台があると言いうるわけで、そこではそれぞれの役者はただひとりであり、完全に個人化され、たえず可視的である。一望監視のこの仕掛けは、中断なく相手を見ることができ即座に判別しうる、そうした空間上の単位を計画配置している。要するに、土牢機能ーーー閉じ込める、光を絶つ、隠すーーーのうち、最初のを残して、あとは解消されている。(この新しい仕掛では)充分な光と監視者の視線のおかげで、土牢の暗闇の場合よりも見事に、相手を補足できる。その暗闇は結局は保護の役目しか果していなかったのだから。今や、可視性が一つの罠である」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.202」新潮社 一九七七年)

(2)「権力の自動的な作用を確保する可視性への永続的な自覚状態を、閉じ込められる者にうえつけること。監視が、よしんばその働きの中断があれ効果の面では永続的であるように、また、権力が完璧になったためその行使の現実性が無用になる傾向が生じるように、さらにまた、この建築装置が、権力の行使者とは独立した或る権力関係を創出し維持する機械仕掛になるように、要するに、閉じ込められる者が自らがその維持者たる或る権力的状況のなかに組み込まれるように、そういう措置をとろう、というのである。そうであるためには、囚人が監視者にたえず見張られるだけでは充分すぎるか、それだけではまったく不充分か、なのだ。まったく不充分と言うのは、囚人が自分は監視されていると知っているのが肝心だからであり、他方、充分すぎると言ったのは、囚人は現実には監視される必要がないからである」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.203」新潮社 一九七七年)

一定期間以上この状態に置かれれば<掟>の内在化はいとも容易になる。<他者>が身体の中心部になるという事態は何ものかわからない<他者>から常に監視されていることを鋭く意識せざるを得ない環境から生じてくる。自分から率先して「<掟>になる」という転倒が起っているかのようだ。ところが二十世紀後半になると<パノプティコン>以上に経済的かつ効率的な方法が出現した。マーケティングという方法が。今やパノプティコンとマーケティングとは両方とも採用されネットの世界化によって網の目はほぼすべて繋ぎ合わされることになった。ネットの整備拡充によって死の淵から救われるケースと逆にネットによってKのように未決のまま死ぬまで延々引き延ばされていく救われないケースとにくっきり分裂しつつある。ネットは機械装置であって善も悪も知らない。医薬でもあり毒薬でもある<パルマコン>であることをやめない。

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