白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<掟の解釈>が掟化された世界を語るオルガ

2022年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
オルガは<娼婦・女中・姉妹>の系列に属している。妹・アマーリアの拒否に代わって姉・オルガが城の役人たちにアマーリアの身体と等価性を持つ性的関係を提供できる理由はオルガ自身がこの系列に属している限りで始めて両者の<置き換え>が可能になるからである。アマーリアとオルガとの<置き換え>が成立し続けている限りバルナバス一家は城との繋がりを維持していくことができる。

そして二年以上経つとオルガは「お城から村へお見えになったほとんどすべての人たちの従僕を知っています」ということになってきた。しかし従僕たちは変容する。「わたしが知っているのは、村にいるときの従僕にすぎません」。「あの人たちは、お城ではまったく別人になってしまって、もうだれのことも見わけがつかない」。しかし役人たちが村でどんな暴力的権力を振りかざしているとしても城の中でもまるで同じだとは全然限らない。常識以前として、村での振る舞いと職場での態度が同じ役人など世界中どこをどう探しても見あたらないように。どれだけの役人がいてどれだけの従僕がいるのか。そんなことは村民の誰一人として知らない。「馬小屋」の中で役人たちの相手をするオルガは「お城で会えるときを楽しみにしている、などと調子のいいことを何百回も」言われているが「そういう約束があの人たちにとってなんの意味ももっていないということ」をも熟知している。その上で「いちばん大事なのは、そういうことではありません」とオルガはいう。

「『それでも、わたしが縉紳館で手に入れることができたものは、お城とのある種のつながりです。わたしが自分のしたことを後悔していないと申しあげても、どうか軽蔑なさらないでください。たぶんあなたは、たいしたつながりもあったもんだ、と考えていらっしゃるでしょう。お考えのとおり、たいしたつながりではありません。わたしは、いまではたくさんの従僕たち、この二年間にお城から村へお見えになったほとんどすべての人たちの従僕を知っています。いつかわたしがお城へ出かけていくようなことがあったとしても、知らないところへ迷いこんだというようなことにはならないでしょう。もちろん、わたしが知っているのは、村にいるときの従僕にすぎません。あの人たちは、お城ではまったく別人になってしまって、もうだれのことも見わけがつかないでしょう。村でつきあった相手となると、なおさらそうにちがいありません。馬小屋のなかでは、お城で会えるときを楽しみにしている、などと調子のいいことを何百回も言っていたくせにね。おまけに、わたしは、そういう約束があの人たちにとってなんの意味ももっていないということをとっくに経験ずみでした。けれども、いちばん大事なのは、そういうことではありません』」(カフカ「城・P.367~368」新潮文庫 一九七一年)

オルガが役人たちの言葉について「そういう約束があの人たちにとってなんの意味ももっていない」といっているのは、役人たちが約束を守るか守らないかということではもはやない。オルガは知っている。たとえどんな「約束」がなされたたとしてもそれは延々と引き延ばされる「柵(さく)」の中へ無意味同然の問いを投げ入れるに等しいということを。オルガは城の機構の<可動性>について、弟・バルナバスの諦観に満ちた行動を通し、もうとうの間に気づいていた。

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫 一九七一年)

ではバルナバス一家にとっていったい何が問題なのか。城とのつながりにのみ意義があると主張しているわけではない。城とのつながりはもちろんだが、その繋がりを持っている限りで将来的に出現するかもしれない或る種の出来事に「期待をかけているのです」とオルガはいう。

「『わたしは、従僕たちを通じてお城とつながりがあるだけでなく、たぶんつぎのような可能性もあるかもしれないし、また、それに期待をかけているのです。つまりね、わたしとわたしのすることを上から見ていらっしゃる人がいてーーーいうまでもなく、あの大勢の従僕たちを監督するのは、お役所の仕事のなかでもきわめて重要な、苦心の多い部分ですわーーーとにかく、わたしをそうして見ていてくださる人は、おそらくわたしのことをほかの人たちよりもやさしく判断してくださるだろうし、また、わたしが細々ながらも自分の家族のために戦い、父の苦労や努力を受けついでいることもわかってくださるだろう。わたしが期待をかけているつながりというのは、こういうことなのです。そんなふうに見てくださっていると、わたしが従僕たちからお金を受けとって、家計の足しにしているということも許してくださるかもしれません』」(カフカ「城・P.368」新潮文庫 一九七一年)

誰かわからないが「わたしとわたしのすることを上から見ていらっしゃる人がいてーーーいうまでもなく、あの大勢の従僕たちを監督するのは、お役所の仕事のなかでもきわめて重要な、苦心の多い部分ですわーーーとにかく、わたしをそうして見ていてくださる人は、おそらくわたしのことをほかの人たちよりもやさしく判断してくださるだろう」と。常に監視されているというわけだ。監視されている限りでもしかしたら「わたしのことをほかの人たちよりもやさしく判断してくださる」かもしれない可能性があるからだと。読者からすればそんなことあり得ないと考えるかもしれない。しかし社会の実際はどうだろう。自ら権力者層の性奴隷になることで自分が属する組織や業界の上位に取り立てられ安全地帯へ捕獲された人間は性別に関係なく数えきれないのではなかろうか。とすると権力意志の問題が浮上する。だがどんな組織にも<掟>がある。ところがこの<掟>というものが「くせもの」であって、カフカは別のところでこう書いている。

「掟自体がとてつもなく古く、何世紀にもわたっていろいろ解釈されてきたので、すでに解釈自体が掟になっている」(カフカ「掟の問題」『カフカ寓話集・P.70』岩波文庫 一九九八年)

<掟>の「解釈自体が掟になっている」登場人物が城の村には大量にいる。村長、宿屋のお内儀、教師、ハンス少年、ブルンスウィック、オルガの父母など。オルガもまた権力意志を隠すわけではない。カフカはいう。

「掟に対する信仰をもって貴族を非難すれば、すぐさま全民衆の支持が得られるだろうが、しかしながら、だれひとり貴族を非難する勇気をもたないのだから、この種の政党はあり得ない。こういった危うい一点にわれわれは生きている。ちなみにある作家がつぎのように要約したーーーわれわれに課せられた唯一目に見える歴然とした掟は貴族であり、それをわれわれみずからが、しゃにむに奪いとりたがっている」(カフカ「掟の問題」『カフカ寓話集・P.73』岩波文庫 一九九八年)

おそろしく古くからすでに貴族だった人々。それはどのように到来したか。ニーチェはいう。

「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十七・P.101~102」岩波文庫 一九四〇年)

またしても絶望的だというほかない。善悪の基準などとっくの昔に破棄されているからだ。しかしさらにオルガはKに向けて様々な出来事や事情について話をつづける。オルガはKに対してどのような機能を演じているのか。フリーダとは違った方法で城の機構についてKを学ばせつつ安全に通過させ逃走させてやる機能を演じている。

BGM1

BGM2

BGM3