Kはフリーダとの結婚の保証を得るため城の官僚機構に属する秘書のモームスによる「調書」に応じる。フリーダにとって村の<父母>の系列に属する宿屋のお内儀の進言による。ところがモームスの「調書」に応じたからといってすぐさまクラムと接触できるということには決してならない。Kは「調書」に応じることでクラムと接触することができると信じている。少なくとも一歩前進だと。しかし宿屋のお内儀はいう。「調書」に応じることは必要不可欠だがそうしたからといってクラムと接触できるどころか一歩前進だとすら言えない。にもかかわらず「調書」に応じることは必要不可欠だしそれこそむしろクラムに接触するための「希望」の「根拠」でさえあると。
モームスによる「調書」に応じてKに関する「調書」が作成される。作成されたKに関する「調書」が「クラムとある種のつながりを、もしかしたらですよ、ある種のつながりだけでももつことになる」。それだけでも「希望」なのだとお内儀はいう。Kに教え諭すかのように一言一言いう。
そこでKはモームスに尋ねる。「いったい、クラムは、この調書を読むんですか」と。モームスは答える。「いや、読みません。あたりまえじゃありませんか。だって、すべての調書を読むことなんか、とてもできない相談ですからね。それどころか、クラムは、大体からしてどの調書にも眼を通さないのです。<きみたちの調書なんか、かんべんしてくれ!>って、口ぐせのように言っていますよ」。Kにとっては驚くべき返事なのだが同時に予想されていた通りの返事でもある。官僚制の「可動性」というのは一つのドアが開いたと思いその部屋へ入るとまた次のドアがありそのドアを開けるとそこにもまた一つの部屋がある。このドアは延々続いていく。官僚制とはそういうものだ。「城」では城の機構という官僚制について述べられている。ところがこの官僚制は民間でも同じである。そもそも宿屋のお内儀の言葉からして極めて官僚主義的な言葉の系列をなしている。民間だからといって村の<父母>の系列に属している以上、官僚主義的でないどんな言語もない。
「『いや』と、秘書は答えた。『調書をとったから会えるというようなことはありません。これは、クラムの所轄下にある村の記録簿のためにきょうの午後に起ったことを正確に書きとめておかなくてはならないというだけのことにすぎないのです。記入は、もう終っているのです。ただ二、三箇所抜けているところがあるので、きちんとしておくために、あなたにそれを埋めていただきたいのです。それ以外に目的はありませんし、たとえあるとしても、かなえられるわけのものではありません』。Kは、お内儀の顔を無言のまま見つめた。『なぜわたしの顔をにらんでいらっしゃるんですの』と、お内儀は、たずねた。『わたしがちがったことでも言ったでしょうか。この人は、いつもこうなんですよ、モームスさん、いつだってこういう調子なんです。こちらが教えてやったことをいいかげんに変えてしまっては、まちがったことを教えられたと言いたてるのです。わたしは、クラムに会ってもらえる見込みなんかまったくないと、まえから言ってやっているし、きょうだって言ってやりましたし、しょっちゅう言っているんです。それで、見込みがないんだから、この調書に応じたからといって見込みができるわけではないでしょうよ。これ以上はっきりしたことってあるでしょうか。さらに、わたしから言うと、この調書は、この人がクラムとのあいだにもつことのできる唯一の、ほんとうの職務上のつながりなんです。これも、しごくはっきりした、疑う余地のない事実ですわ。だのに、この人がわたしの言うことを信じないで、いつまでもクラムのところへ押しかけていけるとおもっているのなら(なぜそんな希望をいだくのか、わたしには理由も目的もわかりませんが)、せめて頼みの綱になるのは、この人の気持になって考えてあげると、クラムとのあいだにあるこの唯一の、ほんとうの職務上のつながり、つまり、この調書だけです。わたしが言ったのは、ただこれだけの事実です。それ以外のことを主張するなんて、こちらの言葉を悪意をもってゆがめているのですわ』。『そういうことでしたら、お許しを願わなくてはなりません、お内儀さん。あなたのおっしゃったことを誤解していたのですから。と言いますのは、わたしは、いまあやまりだということがわかったのですけれど、あなたのさきほどのお言葉を伺って、ごくかすかにではあるにせよ、自分に希望があるのだとおもいこんでしまったのです』。『確かに希望はあるんですよ』と、お内儀は言った。『もちろん、これは、わたしの個人的な見解なんです。あなたは、またしてもわたしの言葉をまげてしまいましたね。しかも、こんどは逆の方向にね。わたしの考えでは、あなたにとってそういう希望はあります。そして、そういう希望が出てくる根拠はというと、もちろんのこと、この調書ひとつにかかっているのです。けれども、その間の事情は、<あなたの質問に答えたら、クラムに会わせてもらえるのですね>などと言ってモームスさんにつめ寄れるような簡単なものではありません。もし子供がそんな質問をしたら、笑ってすませますが、一人前の男がそんなことをたずねたら、これは、お役所にたいする侮辱というものですわ。秘書さんは、思いやりのある返事をして、その点をうまくかばっておあげになりましたがね、それにとにかく、わたしが言っている希望というのは、あなたはこの調書によってクラムとある種のつながりを、もしかしたらですよ、ある種のつながりだけでももつことになるという事実にあるのです。それだけでも、希望といえるじゃありませんか。そういう希望をあたえてもらうだけの功績があるかとたずねられたら、あなたは、ごく小さな功績でもあげることができるでしょうか。むろん、この希望についてこれ以上くわしいことは申しあげられませんし、とくにモームスさんは、秘書としての職掌柄、たとえかすかな暗示のようなことでさえほのめかしたりはできないでしょう。この人にとって大事なのは、ご自分でもおっしゃったように、きょうの午後にあったことを書きとめて、きちんと整理しておくことだけです。それ以上のことは、けっして口に出されないでしょうーーーあなたがいますぐわたしの言葉を楯(たて)にとってこの人に質問なさってもね』。『モームスさん』と、Kは言った。『いったい、クラムは、この調書を読むんですか』『いや、読みません。あたりまえじゃありませんか。だって、すべての調書を読むことなんか、とてもできない相談ですからね。それどころか、クラムは、大体からしてどの調書にも眼を通さないのです。<きみたちの調書なんか、かんべんしてくれ!>って、口ぐせのように言っていますよ』」(カフカ「城・P.192~195」新潮文庫 一九七一年)
ゆえにクラムに接近するためには<父母>の系列に属する宿屋のお内儀ではなく、その<娘たち>の系列に属するフリーダ、役人たちの娼婦を務めるオルガ、といった<娼婦・女中・姉妹>との接点が欠かせない。「審判」では<娼婦・女中・姉妹>のすぐ脇に出現する<子ども>の系列もそうだ。<子ども>たちは画家のアトリエがどこにあるのか知っており、画家に会うことで始めてKはその隣の部屋が裁判所事務局であることを知る。画家のアトリエに隣接して裁判所事務局がある。そしてさらに画家がいうには画家のアトリエもまた裁判所事務局の部分に過ぎないと。だからといって画家は自分のアトリエが裁判所事務局を構成する一つの要素でしかないことに全然落胆していない。むしろそういうことになっていると説明するばかりである。画家のアトリエは個人経営の民間にしか見えない。と同時に裁判所事務局を構成する一つの要素としてすでに内部に組み込まれている。<諸断片>のモザイク「審判」は民間のものだ。しかし地下的出版物では何らない。逆に書籍「審判」はもとよりそれを出版販売している世界中の出版社自身が常にすでに登録され形式的な違いは様々でありながらその地域社会(欧米・ロシア・アフリカ・アジア諸国)の官僚制度のもとで責任を分かち合う形で出版されている。手続き・署名・承認・認証といったレベルでは多少の違いはあれ官僚主義的でない民間はなく、民間的要素を一つも持たない官僚制はない。一方の民間は欲望する民間であり、もう一方の官僚主義的組織もまた欲望する官僚主義的組織である。「城」でKが犯す勘違いというのは一つの部屋を通り過ぎれば次の段階へ上っていくに違いないというヘーゲル弁証法的思考からやって来る。ところが城の機構は一つの部屋を通り過ぎればまた次の部屋が出現し、その部屋の奥のドアを開けるとそこにはただ単に次の部屋が続いていて上昇する段階などどこにもない。城の機構は延々と引き延ばされてゆく決済のようにますます自分の欲望を増殖させていくばかりだ。「審判」で画家のアトリエと裁判所事務局はドア一枚で密接に隣接していた。けれども実際に裁判所事務局に行ってみると裁判所事務局の一つの部屋ともう一つの部屋とは密接に隣接しておらず逆に或る部屋と別の部屋との<あいだ>に薄暗い「廊下」があり、その「廊下」に訴訟に関する人々がひしめき合って何かの到来を待っている。何かといってもそれがなんなのかはよくわからないのだが、ともかく何かが到来することをひたすら待つしか手段がない。そしてそれが民間人と裁判機構を繋ぎ止めておく唯一の「希望」である。あくまで「希望」に過ぎないけれども「希望」であることに間違いはない。クラムがKに関する「調書」を読むかどうかは別問題である。逆にKに関する「調書」の存在こそがより一層重要なのだ。今のアメリカ型資本主義の場合なら、契約次第で商品売買の決済を延々と引き延ばすことができる。何らかの理由で訴訟に持ち込めば可能である。その点は極めて官僚主義的手続と独裁主義的民主主義とが同時に稼働している今の中国とどこがどう違うのか民衆レベルの目線では区別がつかないかのように見える。
赤松啓介は戦前の日本で文章を発表するに際して気苦労の多かった点について書いている。一九三五年(昭和十年)頃のこと。
「たとえば『上(かみ)御一人』を東京地方ではテンチャン、関西地方ではシロウマ、京都地方ではオオカンヌシといったのもある。直立不動の姿勢をとらないと口から出せないし、聞いた者も電気にうたれたように直ちに直立不動の姿勢をとらないと、それがわかれば大へんなことになった。こうした、わかる者にはわかるという隠語を使わぬことには、どうにも便利がわるくてしようがない。しかしこれは通じ合う者だけが口に出してはいえるが、文章の中に書いていてわかったりすれば、まあ警察や憲兵隊で半殺しにされる。新聞、雑誌など出版関係でも宮廷記事というのは戦戦兢兢という状態であり、ある新聞が陛下を『階下』に誤植、大問題となり、右翼に脅迫、糾弾されたこともあった。共和、共産、革命も、✕✕主義、○○✕✕などで通じることもあるが、後にはそれもできないようになって閉口する。最も困ったのは固有名詞で、たとえば原始<共>産制社会を、原始<均>産制社会などと苦労したのがあった。『革命』など書けたものではないから、左翼では『天を衝く時』を代名詞に使う。かりに部落差別を摘発し、断固として糾弾せよ、などと書いたところで、出版物の編集段階で削除されてしまうだろう。それだけでなく、もうあいつには書かせるな、ということになる。部落差別の摘発、糾弾などというのは、一億一心であるべき『国民』を分裂させるための策動として許されるべきものでなく、治安維持法で弾圧された」(赤松啓介「性・差別・民俗・二・村の祭礼と差別・一・酒見北條の節句祭り・P.94~95」河出文庫 二〇一七年)
日本型全体主義だが、とりわけ官憲が目を光らせているのは文章を構成している<言語>とその文脈に関してである。
「当時の新聞、雑誌などを読めばわかるが、天皇機関説の排撃、自由主義的思想の打倒に名をかりての苛烈な思想弾圧が横行し、都市でも一般に『中央公論』『改造』などの読者まで危険分子として摘発され、農村では『文芸春秋』までが好ましくないと排斥されている。青年団などで廻章してくる禁止リストには『岩波文庫』『改造文庫』があり、社会科学、思想関係のものだけでなく、全般に好ましくないとされた。それでは読んで良いものはというと、『キング』『講談倶楽部』『主婦之友』『少年倶楽部』『家の光』などという、まあ『知性』など望めぬようなものばかりである。いわゆる『非常時』準戦時体制下の『国民精神総動員』というので、僅かの異端でも相互監視で摘発、密告による検挙が横行、ほんまに息がつまるような、いやな時代であった」(赤松啓介「性・差別・民俗・二・村の祭礼と差別・一・酒見北條の節句祭り・P.93~94」河出文庫 二〇一七年)
政治的なものは言語的なものであり、言語的なものは政治的なものである。言語的なものというのは何も文書ばかりとは限らない。肉体の言語があり、戦闘機の言語があり、原爆の言語がある。肉体の言語一つ取り扱うにしても、それはそれで大きく四つに区別できる。第一にマッチョで肩をいからせて街中を歩き回る示威行動的な言語。第二に病身で痩せ細り虫の息に等しい言語。第三に事なかれ主義的で見て見ぬふりをする技術に長けている市民的言語。第四に今や世界中で猛威をふるっている意味不明な「つぶやき」の言語を上げておく必要性が加速的に優位に立ちつつある。ネット社会の世界化に伴って爆発的に増殖してきた。しかしかつての東西冷戦がそうであったように、増殖すればするほど<ごっこ>に近づくのはどうしてだろうか。「007」のようなエンターテイメントへ転化するのはなぜなのか。生死を賭けてエンターテイメントする戦争<ごっこ>。もうたくさんだと言いたいし言ってもいるわけだが、しかし口先だけであれ誰もがそう言っているではないか。にもかかわらず増殖する理由は、生死を賭けてエンターテイメントする戦争<ごっこ>への欲望が、欲望する諸機械としてもはやすでに世界の構成要素として溶け込み組み込まれそれなしには稼働しなくなっているからに違いない。
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モームスによる「調書」に応じてKに関する「調書」が作成される。作成されたKに関する「調書」が「クラムとある種のつながりを、もしかしたらですよ、ある種のつながりだけでももつことになる」。それだけでも「希望」なのだとお内儀はいう。Kに教え諭すかのように一言一言いう。
そこでKはモームスに尋ねる。「いったい、クラムは、この調書を読むんですか」と。モームスは答える。「いや、読みません。あたりまえじゃありませんか。だって、すべての調書を読むことなんか、とてもできない相談ですからね。それどころか、クラムは、大体からしてどの調書にも眼を通さないのです。<きみたちの調書なんか、かんべんしてくれ!>って、口ぐせのように言っていますよ」。Kにとっては驚くべき返事なのだが同時に予想されていた通りの返事でもある。官僚制の「可動性」というのは一つのドアが開いたと思いその部屋へ入るとまた次のドアがありそのドアを開けるとそこにもまた一つの部屋がある。このドアは延々続いていく。官僚制とはそういうものだ。「城」では城の機構という官僚制について述べられている。ところがこの官僚制は民間でも同じである。そもそも宿屋のお内儀の言葉からして極めて官僚主義的な言葉の系列をなしている。民間だからといって村の<父母>の系列に属している以上、官僚主義的でないどんな言語もない。
「『いや』と、秘書は答えた。『調書をとったから会えるというようなことはありません。これは、クラムの所轄下にある村の記録簿のためにきょうの午後に起ったことを正確に書きとめておかなくてはならないというだけのことにすぎないのです。記入は、もう終っているのです。ただ二、三箇所抜けているところがあるので、きちんとしておくために、あなたにそれを埋めていただきたいのです。それ以外に目的はありませんし、たとえあるとしても、かなえられるわけのものではありません』。Kは、お内儀の顔を無言のまま見つめた。『なぜわたしの顔をにらんでいらっしゃるんですの』と、お内儀は、たずねた。『わたしがちがったことでも言ったでしょうか。この人は、いつもこうなんですよ、モームスさん、いつだってこういう調子なんです。こちらが教えてやったことをいいかげんに変えてしまっては、まちがったことを教えられたと言いたてるのです。わたしは、クラムに会ってもらえる見込みなんかまったくないと、まえから言ってやっているし、きょうだって言ってやりましたし、しょっちゅう言っているんです。それで、見込みがないんだから、この調書に応じたからといって見込みができるわけではないでしょうよ。これ以上はっきりしたことってあるでしょうか。さらに、わたしから言うと、この調書は、この人がクラムとのあいだにもつことのできる唯一の、ほんとうの職務上のつながりなんです。これも、しごくはっきりした、疑う余地のない事実ですわ。だのに、この人がわたしの言うことを信じないで、いつまでもクラムのところへ押しかけていけるとおもっているのなら(なぜそんな希望をいだくのか、わたしには理由も目的もわかりませんが)、せめて頼みの綱になるのは、この人の気持になって考えてあげると、クラムとのあいだにあるこの唯一の、ほんとうの職務上のつながり、つまり、この調書だけです。わたしが言ったのは、ただこれだけの事実です。それ以外のことを主張するなんて、こちらの言葉を悪意をもってゆがめているのですわ』。『そういうことでしたら、お許しを願わなくてはなりません、お内儀さん。あなたのおっしゃったことを誤解していたのですから。と言いますのは、わたしは、いまあやまりだということがわかったのですけれど、あなたのさきほどのお言葉を伺って、ごくかすかにではあるにせよ、自分に希望があるのだとおもいこんでしまったのです』。『確かに希望はあるんですよ』と、お内儀は言った。『もちろん、これは、わたしの個人的な見解なんです。あなたは、またしてもわたしの言葉をまげてしまいましたね。しかも、こんどは逆の方向にね。わたしの考えでは、あなたにとってそういう希望はあります。そして、そういう希望が出てくる根拠はというと、もちろんのこと、この調書ひとつにかかっているのです。けれども、その間の事情は、<あなたの質問に答えたら、クラムに会わせてもらえるのですね>などと言ってモームスさんにつめ寄れるような簡単なものではありません。もし子供がそんな質問をしたら、笑ってすませますが、一人前の男がそんなことをたずねたら、これは、お役所にたいする侮辱というものですわ。秘書さんは、思いやりのある返事をして、その点をうまくかばっておあげになりましたがね、それにとにかく、わたしが言っている希望というのは、あなたはこの調書によってクラムとある種のつながりを、もしかしたらですよ、ある種のつながりだけでももつことになるという事実にあるのです。それだけでも、希望といえるじゃありませんか。そういう希望をあたえてもらうだけの功績があるかとたずねられたら、あなたは、ごく小さな功績でもあげることができるでしょうか。むろん、この希望についてこれ以上くわしいことは申しあげられませんし、とくにモームスさんは、秘書としての職掌柄、たとえかすかな暗示のようなことでさえほのめかしたりはできないでしょう。この人にとって大事なのは、ご自分でもおっしゃったように、きょうの午後にあったことを書きとめて、きちんと整理しておくことだけです。それ以上のことは、けっして口に出されないでしょうーーーあなたがいますぐわたしの言葉を楯(たて)にとってこの人に質問なさってもね』。『モームスさん』と、Kは言った。『いったい、クラムは、この調書を読むんですか』『いや、読みません。あたりまえじゃありませんか。だって、すべての調書を読むことなんか、とてもできない相談ですからね。それどころか、クラムは、大体からしてどの調書にも眼を通さないのです。<きみたちの調書なんか、かんべんしてくれ!>って、口ぐせのように言っていますよ』」(カフカ「城・P.192~195」新潮文庫 一九七一年)
ゆえにクラムに接近するためには<父母>の系列に属する宿屋のお内儀ではなく、その<娘たち>の系列に属するフリーダ、役人たちの娼婦を務めるオルガ、といった<娼婦・女中・姉妹>との接点が欠かせない。「審判」では<娼婦・女中・姉妹>のすぐ脇に出現する<子ども>の系列もそうだ。<子ども>たちは画家のアトリエがどこにあるのか知っており、画家に会うことで始めてKはその隣の部屋が裁判所事務局であることを知る。画家のアトリエに隣接して裁判所事務局がある。そしてさらに画家がいうには画家のアトリエもまた裁判所事務局の部分に過ぎないと。だからといって画家は自分のアトリエが裁判所事務局を構成する一つの要素でしかないことに全然落胆していない。むしろそういうことになっていると説明するばかりである。画家のアトリエは個人経営の民間にしか見えない。と同時に裁判所事務局を構成する一つの要素としてすでに内部に組み込まれている。<諸断片>のモザイク「審判」は民間のものだ。しかし地下的出版物では何らない。逆に書籍「審判」はもとよりそれを出版販売している世界中の出版社自身が常にすでに登録され形式的な違いは様々でありながらその地域社会(欧米・ロシア・アフリカ・アジア諸国)の官僚制度のもとで責任を分かち合う形で出版されている。手続き・署名・承認・認証といったレベルでは多少の違いはあれ官僚主義的でない民間はなく、民間的要素を一つも持たない官僚制はない。一方の民間は欲望する民間であり、もう一方の官僚主義的組織もまた欲望する官僚主義的組織である。「城」でKが犯す勘違いというのは一つの部屋を通り過ぎれば次の段階へ上っていくに違いないというヘーゲル弁証法的思考からやって来る。ところが城の機構は一つの部屋を通り過ぎればまた次の部屋が出現し、その部屋の奥のドアを開けるとそこにはただ単に次の部屋が続いていて上昇する段階などどこにもない。城の機構は延々と引き延ばされてゆく決済のようにますます自分の欲望を増殖させていくばかりだ。「審判」で画家のアトリエと裁判所事務局はドア一枚で密接に隣接していた。けれども実際に裁判所事務局に行ってみると裁判所事務局の一つの部屋ともう一つの部屋とは密接に隣接しておらず逆に或る部屋と別の部屋との<あいだ>に薄暗い「廊下」があり、その「廊下」に訴訟に関する人々がひしめき合って何かの到来を待っている。何かといってもそれがなんなのかはよくわからないのだが、ともかく何かが到来することをひたすら待つしか手段がない。そしてそれが民間人と裁判機構を繋ぎ止めておく唯一の「希望」である。あくまで「希望」に過ぎないけれども「希望」であることに間違いはない。クラムがKに関する「調書」を読むかどうかは別問題である。逆にKに関する「調書」の存在こそがより一層重要なのだ。今のアメリカ型資本主義の場合なら、契約次第で商品売買の決済を延々と引き延ばすことができる。何らかの理由で訴訟に持ち込めば可能である。その点は極めて官僚主義的手続と独裁主義的民主主義とが同時に稼働している今の中国とどこがどう違うのか民衆レベルの目線では区別がつかないかのように見える。
赤松啓介は戦前の日本で文章を発表するに際して気苦労の多かった点について書いている。一九三五年(昭和十年)頃のこと。
「たとえば『上(かみ)御一人』を東京地方ではテンチャン、関西地方ではシロウマ、京都地方ではオオカンヌシといったのもある。直立不動の姿勢をとらないと口から出せないし、聞いた者も電気にうたれたように直ちに直立不動の姿勢をとらないと、それがわかれば大へんなことになった。こうした、わかる者にはわかるという隠語を使わぬことには、どうにも便利がわるくてしようがない。しかしこれは通じ合う者だけが口に出してはいえるが、文章の中に書いていてわかったりすれば、まあ警察や憲兵隊で半殺しにされる。新聞、雑誌など出版関係でも宮廷記事というのは戦戦兢兢という状態であり、ある新聞が陛下を『階下』に誤植、大問題となり、右翼に脅迫、糾弾されたこともあった。共和、共産、革命も、✕✕主義、○○✕✕などで通じることもあるが、後にはそれもできないようになって閉口する。最も困ったのは固有名詞で、たとえば原始<共>産制社会を、原始<均>産制社会などと苦労したのがあった。『革命』など書けたものではないから、左翼では『天を衝く時』を代名詞に使う。かりに部落差別を摘発し、断固として糾弾せよ、などと書いたところで、出版物の編集段階で削除されてしまうだろう。それだけでなく、もうあいつには書かせるな、ということになる。部落差別の摘発、糾弾などというのは、一億一心であるべき『国民』を分裂させるための策動として許されるべきものでなく、治安維持法で弾圧された」(赤松啓介「性・差別・民俗・二・村の祭礼と差別・一・酒見北條の節句祭り・P.94~95」河出文庫 二〇一七年)
日本型全体主義だが、とりわけ官憲が目を光らせているのは文章を構成している<言語>とその文脈に関してである。
「当時の新聞、雑誌などを読めばわかるが、天皇機関説の排撃、自由主義的思想の打倒に名をかりての苛烈な思想弾圧が横行し、都市でも一般に『中央公論』『改造』などの読者まで危険分子として摘発され、農村では『文芸春秋』までが好ましくないと排斥されている。青年団などで廻章してくる禁止リストには『岩波文庫』『改造文庫』があり、社会科学、思想関係のものだけでなく、全般に好ましくないとされた。それでは読んで良いものはというと、『キング』『講談倶楽部』『主婦之友』『少年倶楽部』『家の光』などという、まあ『知性』など望めぬようなものばかりである。いわゆる『非常時』準戦時体制下の『国民精神総動員』というので、僅かの異端でも相互監視で摘発、密告による検挙が横行、ほんまに息がつまるような、いやな時代であった」(赤松啓介「性・差別・民俗・二・村の祭礼と差別・一・酒見北條の節句祭り・P.93~94」河出文庫 二〇一七年)
政治的なものは言語的なものであり、言語的なものは政治的なものである。言語的なものというのは何も文書ばかりとは限らない。肉体の言語があり、戦闘機の言語があり、原爆の言語がある。肉体の言語一つ取り扱うにしても、それはそれで大きく四つに区別できる。第一にマッチョで肩をいからせて街中を歩き回る示威行動的な言語。第二に病身で痩せ細り虫の息に等しい言語。第三に事なかれ主義的で見て見ぬふりをする技術に長けている市民的言語。第四に今や世界中で猛威をふるっている意味不明な「つぶやき」の言語を上げておく必要性が加速的に優位に立ちつつある。ネット社会の世界化に伴って爆発的に増殖してきた。しかしかつての東西冷戦がそうであったように、増殖すればするほど<ごっこ>に近づくのはどうしてだろうか。「007」のようなエンターテイメントへ転化するのはなぜなのか。生死を賭けてエンターテイメントする戦争<ごっこ>。もうたくさんだと言いたいし言ってもいるわけだが、しかし口先だけであれ誰もがそう言っているではないか。にもかかわらず増殖する理由は、生死を賭けてエンターテイメントする戦争<ごっこ>への欲望が、欲望する諸機械としてもはやすでに世界の構成要素として溶け込み組み込まれそれなしには稼働しなくなっているからに違いない。
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