イェレミーアスはKの助手の一人である。Kがバルナバスの家で長々と話し込んでいる間にフリーダはイェレミーアスを誘惑し性的快楽に耽らせた。フリーダはオルガに対する嫉妬ゆえにイェレミーアスと寝ることでKの気持ちをオルガから自分の側へあっという間に転換させるのに成功した。だがフリーダの嫉妬はただ単に無邪気なだけの嫉妬とはまるで関係がない。フリーダの嫉妬はKを自分の居場所へ引き返させるための手段としての<嫉妬への意志>であり、作品「城」全体がここで欲望している事態はKをフリーダの居場所まで歩かせてくることにある。とかく一箇所に縛り付けられがちなKをいったんそこから引き離し、場所移動させるのがフリーダに与えられた機能だからだ。
一方イェレミーアスはフリーダが自分のものになったと勘違いする。その勢いでイェレミーアスは誰に頼まれたわけでもないのにバルナバスの家までやってきてフリーダはもはや自分と性的関係を結んだとKに告げてKをフリーダのもとに急がせる。イェレミーアスはKの助手であるばかりでなくさらにフリーダの「使い走り」の位置にまで引き下げられてしまったに過ぎないというのに。この関係はイェレミーアスがフリーダの「使い走り」として機能する限り延々続いていくのは読者の誰もが知っているわけだが。
ところでイェレミーアスとフリーダの関係が性的関係であっても二人の間に子どもが生まれることは決してない。イェレミーアスもアルトゥールもKの助手ではあるものの同時にKだけでなくフリーダたち村民たちの誰にとっても<子ども>の系列に属している。学校でKと女性教師ギーザとが対立的意見を交わしていた時、フリーダは二人の助手たちと他愛ない<ごっこ遊び>で時間潰しをしていた。また<子ども>を演じていないときは<監視人>でしかなく、実際に子供を生産する過程に編入されることは決してない。城の機構から派遣された助手たちは助手であると同時に<監視人>なのであって、労働力商品としての子供を作ってよいなどとは一言も命じられていない。むしろ労働力商品の生産ではなく労働力商品の<監視人>でありその範疇を出ることは許されていない。もとより城の機構は助手たちに向けてフリーダと性的関係を持っていけないとはひとことも言っていない。だが両者の間で何が生じても子供が産まれる余地はあらかじめ奪われている。フリーダは大人の女性なのだが、しかし助手たちの身体は大人のままでありながら生殖とは何の関係もない子供でしかない。
作品「城」で子供の生産は問題にならない。そうではなくて重要なのは、小学生の少年ハンスのような<子ども>の系列である。ハンスが話し始めると他の誰よりも大人びた理路整然たる説明を演じてみせる。ハンスの説明がなければKはバルナバス一家が置かれた窮状をオルガから聞かされたとしてもそれほど明確に内容を把握することはできなかったに違いない。そしてまたハンスのような<子ども>はフリーダやオルガ同様<動物>の系列にすんなり入っていくことができる。しかもフリーダやオルガが<動物>の系列に入るためにはまず先に<娼婦・女中・姉妹>の系列に属していなければならないが、<子ども>は<娼婦・女中・姉妹>の系列に属することなく、それ抜きにいきなり<動物>の系列、それも無限に延長可能な諸商品の系列のように種々雑多な動物へ変換される。
フリーダのところへ戻ろうと急いでいたK。後ろからバルナバスが追いかけてきた。姉のオルガはバルナバスと城との繋がりに全身全霊で賭けている。立場は異なるのだが、Kの場合はほとんど見切りをつけたかのように振る舞いながらもなおバルナバスと城との繋がりが自分にもたらす情報に賭けている。
「『測量師さん、測量師さん!』と、だれかが路地から呼ぶ声がした。バルナバスだった。彼は、息を切らしてやってきたが、忘れずにKのまえでお辞儀をした。『成功したんです』と、バルナバスは言った。『なにが成功したんだ』と、Kは、たずねた。『おれの請願をクラムに伝えてくれたかね』。『それは、だめでした。ずいぶん骨を折ったのですが、うまくやれませんでした。わたしはまえのほうにでしゃばって、呼ばれもしないのに一日中机のすぐそばに立っていました。一度などは、わたしのために光をさえぎられた書記に押しのけられたほどです。そして、これは禁じられていることなのですが、クラムが顔をあげるたびに、手をあげて自分のいることをしめしました。わたしは、いちばんおそくまで官房に残っていて、とうとうわたしと従僕たちとだけになってしまいました。うれしいことに、クラムがもう一度戻ってくるのが見えたのですが、わたしのために引返してきたのではありませんでした。ある本でなにかを急いで調べようとしただけのことで、すぐまた出ていってしまいました。わたしがいつまでも動かないものですから、しまいに従僕が箒(ほうき)で掃きださんばかりにして、わたしをドアの外に追いだしました。こうなにもかも申しあげるのは、あなたが二度とわたしの仕事ぶりに不満をお持ちにならないようにとおもってのことです』。『バルナバス』と、Kは言った。『きみがどんなに熱心でも、それがちっとも成果をあげないのだったら、おれにとってなんの役にたつだろうか』」(カフカ「城・P.394~395」新潮文庫 一九七一年)
Kは使者としてのバルナバスをほとんど見切っている。両者はすでに切断されているに等しい。社会的立場ときたらまるで異なっている。Kを一つのブロックとしてみれば、一方にバルナバス一家のブロックがある。両者は別々のブロックでしかない。ただしかし、Kのブロックとバルナバス一家のブロックとの近くには何一つないのか。あるとしても両者の<あいだ>を繋ぎ止める役割を果たしているわけではないだろう。それはそれとして短編「皇帝の使者」の一節にこうある。
「だが、そうはならない。使者はなんと空しくもがいていることだろう。王宮内奥の部屋でさえ、まだ抜けられない。決して抜け出ることはないだろう。もしかりに抜け出たとしても、それが何になるか。果てしのない階段を走り下りなくてはならない。たとえ下りおおせたとしても、それが何になるか。幾多の中庭を横切らなくてはならない。中庭の先には第二の王宮がとり巻いている。ふたたび階段があり、中庭がひろがる。それをすぎると、さらにまた王宮がある。このようにして何千年かが過ぎていく。かりに彼が最後の城門から走り出たとしてもーーーそんなことは決して、決してないであろうがーーー前方には大いなる帝都がひろがっている。世界の中心にして大いなる塵芥の都である。これを抜け出ることは決してない。しかもとっくに死者となった者の使いなのだ。しかし、きみは窓辺にすわり、夕べがくると、使者の到来を夢見ている」(カフカ「皇帝の使者」『カフカ寓話集・P.10』岩波文庫 一九九八年)
そこでたちまちKは「夕べがくると、使者の到来を夢見ている」Kへ変換される。「夕べ」とはいつのことを指していうのか。バルナバスが使者として登場するや否や出現する不特定な時間だ。永遠にやって来ないかもしれないが唐突に走りこんできたりもする。ゆえに油断がならない。バルナバスはいう。
「『でも、成果があったのです。わたしがわたしの官房ーーーええ、わたしの官房と呼んでいるんですーーーから出ますと、ずっと奥のほうの回廊からひとりの紳士がゆっくりこちらへやってくるのが見えるではありませんか。ほかにはもう人影もありませんでした。ずいぶんおそい時刻でしたからね。わたしは、その人を待つことに決めました。まだそこに残っているちょうどよい機会でした。わたしは、あなたによくない知らせをもって帰らなくてもよいように、ずっと残っていたかったのです。しかし、そうでなくても、その人を待っていただけの甲斐(かい)がありました。その人は、エルランガーだったのです。ご存じありませんか。クラムの第一秘書のひとりです。弱々しそうな、小柄な人で、すこしびっこを引いています。すぐにわたしだということをわかってくれました。抜群の記憶力とひろい世間知とで音にきこえた人なのです。ちょっと眉(まゆ)を寄せさえすれば、それだけでだれでも見わけてしまうのです。一度も会ったことがなく、どこかで聞いたか読んだかしただけの人たちでも見わけてしまうことがあります。たとえば、このわたしだって、それまで会ったことはまずなかったとおもいます。しかし、どんな相手でもすぐに見わけるのですが、まるで自信がなさそうに、初めにまずたずねてみるのです。それで、わたしにむかって、<バルナバスじゃないかね>と言いました。それから、<きみは、測量師を知っているね>とたずね、さらに言葉をつづけて、<ちょうどよかったよ。わたしは、これから縉紳館へ出かける。測量師にあそこへわたしを訪(たず)ねてきてもらいたいんだ。わたしの部屋は、十五号室だ。しかし、測量師は、すぐに来てくれなくてはならない。わたしは、あちらで二、三の相談ごとがあるだけで、朝の五時には城へ帰る。ぜひとも測量師と話をしたいことがあるのだ、と伝えてくれたまえ>と言うんです』」(カフカ「城・P.395~396」新潮文庫 一九七一年)
Kはバルナバスのいうとおり縉紳館(しんしんかん)へ向かう。フリーダが待っているところでもある。フリーダの誘惑はイェレミーアスを走らせKをバルナバスの家から縉紳館へ取って返すよう促した。後ろから追いかけてきたバルナバスの報告は縉紳館へ向かうKの足どりを手応えのあるものに変えた。だからといってフリーダやフリーダの愛人クラムが糸を引いているわけではまったくない。むしろどんな因果関係も絶対性を失った世界ーーーその種の謀略論などとてもではないが通じない世界ーーーが終点の見えない砂漠のように打ち広がっているばかりである。カフカは初期短編ですでにこう述べていた。
「夜、狭い通りを散歩中に、遠くに見えていた男がーーーというのは前が坂道で、明るい満月ときているーーーまっしぐらに走っているとしよう。たとえそれが弱々しげな、身なりのひどい男であっても、またそのうしろから何やらわめきながら走ってくる男がいたとしても、われわれはとどめたりはしない。走り過ぎるがままにさせるだろう。なぜなら、いまは夜なのだから。前方が上り坂で、そこに明るい月光がさしおちているのは、われわれのせいではない。それにその両名は、ふざけ半分に追いかけ合っているだけなのかもしれないのだから。ことによると二人して第三の男を追いかけているのかもしれないのだから。先の男は罪もないのに追われていて、背後の男が殺したがっているのかもしれず、とすると、こちらが巻き添えをくいかねないのだから。もしかすると双方ともまったく相手のことを知らず、それぞれがベッドへ急いでいるだけなのかもしれないのだから。もしかすると夢遊病者かもしれないのだから。もしかすると先の男が武器を持っているかもしれないのだから。それにそもそも、われわれは綿のように疲れていないだろうか」(カフカ「走り過ぎる者たち」『カフカ寓話集・P.79~80』岩波文庫 一九九八年)
リゾーム化した世界。それを言語化すればこのように記述できるだろう。ニーチェがいったようにありとあらゆる因果関係がどうにでも捏造可能な世界的繋がりを生じた瞬間、今のネット社会がそうであるように、偶然に満ちた世界の出現の必然性があかるみに出る。
BGM1
BGM2
BGM3
一方イェレミーアスはフリーダが自分のものになったと勘違いする。その勢いでイェレミーアスは誰に頼まれたわけでもないのにバルナバスの家までやってきてフリーダはもはや自分と性的関係を結んだとKに告げてKをフリーダのもとに急がせる。イェレミーアスはKの助手であるばかりでなくさらにフリーダの「使い走り」の位置にまで引き下げられてしまったに過ぎないというのに。この関係はイェレミーアスがフリーダの「使い走り」として機能する限り延々続いていくのは読者の誰もが知っているわけだが。
ところでイェレミーアスとフリーダの関係が性的関係であっても二人の間に子どもが生まれることは決してない。イェレミーアスもアルトゥールもKの助手ではあるものの同時にKだけでなくフリーダたち村民たちの誰にとっても<子ども>の系列に属している。学校でKと女性教師ギーザとが対立的意見を交わしていた時、フリーダは二人の助手たちと他愛ない<ごっこ遊び>で時間潰しをしていた。また<子ども>を演じていないときは<監視人>でしかなく、実際に子供を生産する過程に編入されることは決してない。城の機構から派遣された助手たちは助手であると同時に<監視人>なのであって、労働力商品としての子供を作ってよいなどとは一言も命じられていない。むしろ労働力商品の生産ではなく労働力商品の<監視人>でありその範疇を出ることは許されていない。もとより城の機構は助手たちに向けてフリーダと性的関係を持っていけないとはひとことも言っていない。だが両者の間で何が生じても子供が産まれる余地はあらかじめ奪われている。フリーダは大人の女性なのだが、しかし助手たちの身体は大人のままでありながら生殖とは何の関係もない子供でしかない。
作品「城」で子供の生産は問題にならない。そうではなくて重要なのは、小学生の少年ハンスのような<子ども>の系列である。ハンスが話し始めると他の誰よりも大人びた理路整然たる説明を演じてみせる。ハンスの説明がなければKはバルナバス一家が置かれた窮状をオルガから聞かされたとしてもそれほど明確に内容を把握することはできなかったに違いない。そしてまたハンスのような<子ども>はフリーダやオルガ同様<動物>の系列にすんなり入っていくことができる。しかもフリーダやオルガが<動物>の系列に入るためにはまず先に<娼婦・女中・姉妹>の系列に属していなければならないが、<子ども>は<娼婦・女中・姉妹>の系列に属することなく、それ抜きにいきなり<動物>の系列、それも無限に延長可能な諸商品の系列のように種々雑多な動物へ変換される。
フリーダのところへ戻ろうと急いでいたK。後ろからバルナバスが追いかけてきた。姉のオルガはバルナバスと城との繋がりに全身全霊で賭けている。立場は異なるのだが、Kの場合はほとんど見切りをつけたかのように振る舞いながらもなおバルナバスと城との繋がりが自分にもたらす情報に賭けている。
「『測量師さん、測量師さん!』と、だれかが路地から呼ぶ声がした。バルナバスだった。彼は、息を切らしてやってきたが、忘れずにKのまえでお辞儀をした。『成功したんです』と、バルナバスは言った。『なにが成功したんだ』と、Kは、たずねた。『おれの請願をクラムに伝えてくれたかね』。『それは、だめでした。ずいぶん骨を折ったのですが、うまくやれませんでした。わたしはまえのほうにでしゃばって、呼ばれもしないのに一日中机のすぐそばに立っていました。一度などは、わたしのために光をさえぎられた書記に押しのけられたほどです。そして、これは禁じられていることなのですが、クラムが顔をあげるたびに、手をあげて自分のいることをしめしました。わたしは、いちばんおそくまで官房に残っていて、とうとうわたしと従僕たちとだけになってしまいました。うれしいことに、クラムがもう一度戻ってくるのが見えたのですが、わたしのために引返してきたのではありませんでした。ある本でなにかを急いで調べようとしただけのことで、すぐまた出ていってしまいました。わたしがいつまでも動かないものですから、しまいに従僕が箒(ほうき)で掃きださんばかりにして、わたしをドアの外に追いだしました。こうなにもかも申しあげるのは、あなたが二度とわたしの仕事ぶりに不満をお持ちにならないようにとおもってのことです』。『バルナバス』と、Kは言った。『きみがどんなに熱心でも、それがちっとも成果をあげないのだったら、おれにとってなんの役にたつだろうか』」(カフカ「城・P.394~395」新潮文庫 一九七一年)
Kは使者としてのバルナバスをほとんど見切っている。両者はすでに切断されているに等しい。社会的立場ときたらまるで異なっている。Kを一つのブロックとしてみれば、一方にバルナバス一家のブロックがある。両者は別々のブロックでしかない。ただしかし、Kのブロックとバルナバス一家のブロックとの近くには何一つないのか。あるとしても両者の<あいだ>を繋ぎ止める役割を果たしているわけではないだろう。それはそれとして短編「皇帝の使者」の一節にこうある。
「だが、そうはならない。使者はなんと空しくもがいていることだろう。王宮内奥の部屋でさえ、まだ抜けられない。決して抜け出ることはないだろう。もしかりに抜け出たとしても、それが何になるか。果てしのない階段を走り下りなくてはならない。たとえ下りおおせたとしても、それが何になるか。幾多の中庭を横切らなくてはならない。中庭の先には第二の王宮がとり巻いている。ふたたび階段があり、中庭がひろがる。それをすぎると、さらにまた王宮がある。このようにして何千年かが過ぎていく。かりに彼が最後の城門から走り出たとしてもーーーそんなことは決して、決してないであろうがーーー前方には大いなる帝都がひろがっている。世界の中心にして大いなる塵芥の都である。これを抜け出ることは決してない。しかもとっくに死者となった者の使いなのだ。しかし、きみは窓辺にすわり、夕べがくると、使者の到来を夢見ている」(カフカ「皇帝の使者」『カフカ寓話集・P.10』岩波文庫 一九九八年)
そこでたちまちKは「夕べがくると、使者の到来を夢見ている」Kへ変換される。「夕べ」とはいつのことを指していうのか。バルナバスが使者として登場するや否や出現する不特定な時間だ。永遠にやって来ないかもしれないが唐突に走りこんできたりもする。ゆえに油断がならない。バルナバスはいう。
「『でも、成果があったのです。わたしがわたしの官房ーーーええ、わたしの官房と呼んでいるんですーーーから出ますと、ずっと奥のほうの回廊からひとりの紳士がゆっくりこちらへやってくるのが見えるではありませんか。ほかにはもう人影もありませんでした。ずいぶんおそい時刻でしたからね。わたしは、その人を待つことに決めました。まだそこに残っているちょうどよい機会でした。わたしは、あなたによくない知らせをもって帰らなくてもよいように、ずっと残っていたかったのです。しかし、そうでなくても、その人を待っていただけの甲斐(かい)がありました。その人は、エルランガーだったのです。ご存じありませんか。クラムの第一秘書のひとりです。弱々しそうな、小柄な人で、すこしびっこを引いています。すぐにわたしだということをわかってくれました。抜群の記憶力とひろい世間知とで音にきこえた人なのです。ちょっと眉(まゆ)を寄せさえすれば、それだけでだれでも見わけてしまうのです。一度も会ったことがなく、どこかで聞いたか読んだかしただけの人たちでも見わけてしまうことがあります。たとえば、このわたしだって、それまで会ったことはまずなかったとおもいます。しかし、どんな相手でもすぐに見わけるのですが、まるで自信がなさそうに、初めにまずたずねてみるのです。それで、わたしにむかって、<バルナバスじゃないかね>と言いました。それから、<きみは、測量師を知っているね>とたずね、さらに言葉をつづけて、<ちょうどよかったよ。わたしは、これから縉紳館へ出かける。測量師にあそこへわたしを訪(たず)ねてきてもらいたいんだ。わたしの部屋は、十五号室だ。しかし、測量師は、すぐに来てくれなくてはならない。わたしは、あちらで二、三の相談ごとがあるだけで、朝の五時には城へ帰る。ぜひとも測量師と話をしたいことがあるのだ、と伝えてくれたまえ>と言うんです』」(カフカ「城・P.395~396」新潮文庫 一九七一年)
Kはバルナバスのいうとおり縉紳館(しんしんかん)へ向かう。フリーダが待っているところでもある。フリーダの誘惑はイェレミーアスを走らせKをバルナバスの家から縉紳館へ取って返すよう促した。後ろから追いかけてきたバルナバスの報告は縉紳館へ向かうKの足どりを手応えのあるものに変えた。だからといってフリーダやフリーダの愛人クラムが糸を引いているわけではまったくない。むしろどんな因果関係も絶対性を失った世界ーーーその種の謀略論などとてもではないが通じない世界ーーーが終点の見えない砂漠のように打ち広がっているばかりである。カフカは初期短編ですでにこう述べていた。
「夜、狭い通りを散歩中に、遠くに見えていた男がーーーというのは前が坂道で、明るい満月ときているーーーまっしぐらに走っているとしよう。たとえそれが弱々しげな、身なりのひどい男であっても、またそのうしろから何やらわめきながら走ってくる男がいたとしても、われわれはとどめたりはしない。走り過ぎるがままにさせるだろう。なぜなら、いまは夜なのだから。前方が上り坂で、そこに明るい月光がさしおちているのは、われわれのせいではない。それにその両名は、ふざけ半分に追いかけ合っているだけなのかもしれないのだから。ことによると二人して第三の男を追いかけているのかもしれないのだから。先の男は罪もないのに追われていて、背後の男が殺したがっているのかもしれず、とすると、こちらが巻き添えをくいかねないのだから。もしかすると双方ともまったく相手のことを知らず、それぞれがベッドへ急いでいるだけなのかもしれないのだから。もしかすると夢遊病者かもしれないのだから。もしかすると先の男が武器を持っているかもしれないのだから。それにそもそも、われわれは綿のように疲れていないだろうか」(カフカ「走り過ぎる者たち」『カフカ寓話集・P.79~80』岩波文庫 一九九八年)
リゾーム化した世界。それを言語化すればこのように記述できるだろう。ニーチェがいったようにありとあらゆる因果関係がどうにでも捏造可能な世界的繋がりを生じた瞬間、今のネット社会がそうであるように、偶然に満ちた世界の出現の必然性があかるみに出る。
BGM1
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