白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・カフカ「城」と国家装置

2022年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
オイディプス三角形型家父長制に基づく家庭を拒否し「ひきこもり・自閉症」を選択した「変身」のグレーゴル・ザムザ。「城」のKもまたオイディプス三角形型家父長制に基づいて整備された官僚制が支配する村に出現したまるで別な生活様式を主張する<他者>だ。フリーダは城の村に生息する<娼婦・女中・姉妹>であり、フリーダが機転を効かせたがゆえに結婚しなくてはならない事態になりはしたが結婚など許される立場にはない。城の官僚主義的<掟>の下だと、Kにとって<娼婦・女中・姉妹>の系列に属するフリーダの位置はあらかじめ両者の結婚を認めていないし今後もずっと認めるわけにはいかない。監視人の助手たちをKが追い出した時、フリーダはそれをよくないことだという。なぜなら二人の助手は「クラムから派遣された人間」だからである。少なくともその証拠は幾らでもあるとフリーダはいう。フリーダは嫌で嫌で仕方がないのだが。

「『クラムから派遣された人間だって』。Kはおうむがえしに言った。Kにすれば、この呼称をすぐに当りまえのことだとはおもったが、それでもひどくおどろいたのである。『間違いなく、クラムから派遣されてきたのですわ』と、フリーダは言った。『よしんばそうだとしても、一方では、やはりろくでなしの青二才であることも事実です。あれを教育するには、まだ折檻(せっかん)してやることが必要ですわ。なんて不愉快な、いやな若僧たちでしょう!顔からすれば、れっきとした大人(おとな)か、ほとんど大学生のようにおもえるのに、することといったら、まるであべこべで、子供じみてばかみたいですわ。わたしにそれがわかっていないとでもおもっていらっしゃるの。わたしは、あの人たちのことを恥ずかしいとおもっているのよ。でも、大事なのは、そのことなんです。つまりね、あの人たちがわたしを反発させるのではなくて、わたしのほうが、あの人たちのことで恥ずかしくなってしまうの。ほかの人があの人たちに腹をたてたら、わたしは、笑ってすまさなくてはならないの。ほかの人がぶんなぐろうとしたら、わたしは、髪の毛をなでてやらなくちゃならないんです。夜、あなたの横に寝ていても、わたしは、眠るわけにはいかず、むこうの様子を見張っていなくてはなりません。ひとりは、掛けぶとんにぴったりくるまり、ひとりは、ストーヴの炊(た)き口をあけて、そのまえに膝(ひざ)をついて、薪(まき)をくべている。それを見張っていなくてはならないんです。そのために、あなたを起してしまうのじゃないかとおもうほおど、身をのりださなくてはならないこともありますわ。それに、猫のことにしたって、猫がわたしをおどろかしたのではありません。ええ、猫ぐらいなれっこのことだし、酒場で働いていたころは、落着かない気持でうとうと居眠りをして、たえず眠りを妨げられるような経験もしていますわ。そうよ、猫がわたしをおどろかしたのじゃなくて、自分で自分をはっとおどろかしてしまうんです。わたしをおどろかすのに、べつに猫があばれたりするなんかする必要はないんです。ちょっとした物音がしただけで、どきっと縮みあがってしまうんです。あなたが目をおさましになったら、なにもかも台なしになってしまうだろうと心配しながらも、つぎの瞬間には、あなたが目をさまして、わたしを守ってくださるように、ぱっととび起きて、急いでろうそくをつけるのです』。『そういうことは、なにひとつ知らなかったよ。ただなんとはなしにそういう気配が察せられたので、助手たちを追いだしたんだよ。しかし、彼らはもういなくなったのだから、これからは、なにもかもうまくいくだろうよ』」(カフカ「城・P.233~235」新潮文庫 一九七一年)

だからといって、助手たちを解放してやることはKとフリーダの心情にとってはなるほどすっきりするものの、助手たちが「クラムから派遣された人間」である限り助手たちの解放は「クラムから派遣された人間」の解放を意味する。そもそも「城」冒頭付近ですでに助手たちは登場しており村全体の官僚機構の中からKの助手としてKに与えられた二人の助手だからである。その二人の解放は同時に二つのことを意味する。第一にKが助手たちを解放すること。第二にKが「クラムから派遣された人間」である限り助手たちから解放されること。いずれにしてもクラムとの重要な接点が失われることを意味する。フリーダがKを説得する際のまどろっこしい言い回しは、この種の官僚機構が不可避的に持つ逆説を語るにはそう述べるしか方法がないことの説明をも兼ねている。

「『ええ、やっとのことでいなくなってくれましたわ』と、フリーダは言ったが、その顔は、どこか苦しげで、うれしそうなところはなかった。『ただ、あの人たちが何者であるか、わたしたちにはわかりません。クラムから派遣された人間だと言いましたが、それは、自分の頭のなかで勝手にそう考えただけのことで、本気でそう言ったわけではないのですけど、もしかしたら、ほんとうにそうなのかもしれません。あの人たちの眼、単純だけどきらきら光っているあの眼は、どこかしらクラムの眼を思いださせます。ええ、確かにそうですわ。ときおり彼らの眼からわたしの全身に図走(ずばし)るもの、あれは、クラムの視線ですわ。ですから、あの人たちのことで恥ずかしいなんて言ったのは、私の間違いですわ。あの人たちのことで恥ずかしい思いをできるほうがましだとおもったにすぎないのよ。これがどこかよその土地か、ほかの人たちのことであれば、おなじ振舞いをされても、ばかげて、不愉快なことだのに、あの人たちの場合は、そうじゃないのです。尊敬と驚嘆の念をもってあの人たちのばかげた行動を見ていなくてはならないのです。でも、あのふたりがクラムから派遣された人間だとしたら、だれがあの人たちからわたしを解放してくれるでしょうか。それに、そうだとしたら、そもそもふたりから解放されることは、いいことでしょうかしら。このさい、すぐにもふたりを呼びもどさなくてはならないのではないでしょうか。そして、ふたりが戻ってくれたら、もっけのさいわいではないでしょうか』。『彼らをもう一度ここに入れてやれというのだね』。『いいえ、そうじゃない。わたしは、そんなことはちっとものぞんでいません。ふたりがどっとここへとびこんでくるときの光景、わたしと再会するときのあの人たちの喜ぶ様子、子供のようにはねまわったり、一人前の男のように腕をさしのべたりするありさまーーーわたしだって、そんなのをとても我慢して見ているわけにはいかないでしょう。でもね、一方では、あなたがあくまであのふたりにたいしてきびしい態度をおとりになると、たぶんクラム自身があなたに近づいてくるのまでこばんでおしまいになることになるでしょう。そのことを考えると、そのことから生じるいろんな結果からなんとしてでもあなたを守ってあげたいとおもうのです。それで、あなたがふたりをここに入れてやってくださればいいとおもうわけですわ。だから、ねえ、早くふたりを入れてやってちょうだい!』」(カフカ「城・P.235~236」新潮文庫 一九七一年)

Kの側からすれば一度解放した助手たちをもう一度受け入れてやらねばならなくなる。だからKは、いつもすでにクラムに監視されていなければならないことを条件として引き受ける限りで、ほとんど唯一と考えられるクラムとの繋がりを維持することができる。また<オイディプス三角形型家父長制に基づいて整備された官僚制が支配する村>というのは「城」に限った条件ではまるでない。むしろ今の日本社会の多数派社会に途轍もなくよく似ている。ところが一方、実際の家庭〔家族〕の形態はとても多様になってきた。特徴的な点の一つに、家庭〔家族〕という生活様式は<血の繋がり>を基本としなくてはならないというものがあるが、そんなことはもはや問題にする側がおかしいのではないかというくらいに多様な家庭〔家族〕形態が打ち広がりつつある。

シングルあり、親が再婚して血縁でない子供たちあり、同性愛家庭〔家族〕あり、子供なし犬猫あり、ーーーというふうに家庭〔家族〕の形態は諸商品の無限の系列のようにどんどん発生している。それが実態だ。そしてまたグローバル資本主義の要請でもある。最初は途方もない異物に見えたロシア革命に対し次々と新しい<公理>を付け加え消化することによってのみ、資本主義は生き残ることができたという動かしようのない歴史的事実。

「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・第十節・P.303~304」河出書房新社 一九八六年)

諸外国だとすでにその事実認識をすっかり消化しているか少なくとも消化しようとしている。だが今の日本社会では日々目の当たりにしている実態に関し民間も官僚組織も絶対主義的官僚主義にまみれ果てており、手続上無視してもよいかのような逆の態度が取られがちである。ところが実態無視という態度は強固ではあるにせよ、とりわけ日本政府やマスコミが取っている名目上の態度に過ぎない。名目上の態度の側が正当とされている点で日本社会とその代表者である国会議員、そしてマスコミ機構の大部分はほとんど戦前戦中に等しいかび臭さを漂わせてはばからない。破廉恥ですらある。常時監視を受けながらでない限り社会の中に留まることもままならない。便利になればなるほど逆に煩雑化する事件・事故・忽然と出現する不備・機能不全の増加傾向も見逃せない。

身近な例を上げればネットを駆使した労働・教育環境の推進。すぐ導入できる現場〔家庭〕がある一方、できない現場〔家庭〕もある。この落差が日本の教育・労働環境を通して結果的に貧困格差をますます増大させている点。さらに「防犯、防犯」と喚き立てながら日本中あちこちに監視カメラが導入されているにもかかわらず一度「いじめ自殺・過労死」が発覚するやひたすら「確認できない」と繰り返すばかりの責任者層。日本のどこに二十一世紀があるのか。カフカを読むことは今の日本社会の転倒ぶりがずっと過去から見透かされていたことを確認する作業でもあるのだ。

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