赤松啓介は長生きしただけあって戦前の建築物に与えられていた事業内容に関する多様な内情にとてもよく通じていた。それら「看板」の中身には<表>と<裏>とがあった。だが戦後になって一変し、今や「文化財」の名で<表>の名が<裏>にあった内容を覆い隠したきり堂々たる歴史保存対象になっている。明治・大正・昭和・平成と生きてきた上で赤松の眼に映っている「文化財」。それは生涯に渡ってずっと妥協できず妥協しなかった違和感をありありと映し上げる「記念碑」がほとんどを占める。
差し当たり赤松が上げる問題点。(1)「研究費や調査費のもらえそうな城郭、社寺、宿場、異人館などの町並」ばかりが残されていること。(2)「女郎屋も、貧農の子女を犠牲にした記念碑ではないかと女性闘士は怒るかも知れぬが、東京の吉原、京の島原その他でも大名や豪商を相手というのはそれほどあるまい。まあ殆ど九十九パーセントまでは、われわれ民衆が買い手であった」ことがなぜか覆い隠されている点。(3)「公認売春を喜ぶわけではないが、おかげでトルコ、スナックその他の一時的恋愛売春が増えたり、団地夫人など家庭主婦のバイトが繁昌では、どういうことでしょうか」と、死後二十年を経て世界中を席巻するに至っているネット経由型「売買春」の横行について。
「文化庁とか教育委員会などというタテマエだけを後生大事にするところに、ほんとうの民衆の『文化財』の価値などわかるものでない。いわゆる文化史家とか、建築史家とかいうのはバカモンばかりで、研究費や調査費のもらえそうな城郭、社寺、宿場、異人館などの町並は残せというが、お前、少しここがおかしいのと違うか、といわれかねない女郎屋街やスラム街になると見向きもしないのである。城郭、社寺、本陣、異人館、豪農、豪商の邸宅、どの一つでもわれわれ民衆にとって『文化財』といえるものがあるか。昔のマルクス・ボーイにかえっていえば、みんな民衆の膏血をしぼりとった記念碑ばかりである。女郎屋も、貧農の子女を犠牲にした記念碑ではないかと女性闘士は怒るかも知れぬが、東京の吉原、京の島原その他でも大名や豪商を相手というのはそれほどあるまい。まあ殆ど九十九パーセントまでは、われわれ民衆が買い手であった。われわれも公認売春を喜ぶわけではないが、おかげでトルコ、スナックその他の一時的恋愛売春が増えたり、団地夫人など家庭主婦のバイトが繁昌では、どういうことでしょうか、と女性闘士たちに問いたくなる」(赤松啓介「性・差別・民俗・二・村の祭礼と差別・三・ムラとマツリ・P.166」河出文庫 二〇一七年)
かつての「女性闘士」、今の女性解放運動の<女性>活動家をからかっているのは確かだ。しかし赤松自身、なぜ女性解放運動がそのような歴史をたどってしまったのか。その点についてこう述べている。
「古い村落共同体の性風俗を、ただ淫風陋習として排撃するだけで、それに代わる性教育や性風俗を創造できなかった私たちは、いまや性の社会的壊乱のなかで、その代償を払うことになってきた」(赤松啓介「性・差別・民俗・三・土俗信仰と性民俗・三・共同体と<性>の伝承・P.274」河出文庫 二〇一七年)
ただ単に古い性風俗だからとかよくない淫風陋習だからと排撃するだけで「それに代わる性教育や性風俗を創造できなかった私たち」民衆こそ、今日の性風俗の巨大産業資本化を許してしまっている最大の理由の、少なくともその一つだというわけである。そして民衆の側は多額の「税金」で「その代償を払うことになってきた」のも見誤る余地のない事実だ。この文章の中には取り返しのつかない現状に対する自己批判の生々しい表明がある。ただしもちろん明治維新の元勲から始まり、さらに戦時中に満州で得た権益を日本に持ち帰った後、上流階級入りした今の政治家一家などを筆頭に上げなければならない。しかし赤松が民衆の側に立って民衆もまた加害者であるというのは実際に身近で観察し研究し現場で共に生活して確かめなおかつ大量の文献を漁りまくってきた生き証人として揺るがせにできない事実だからに違いない。
さて、カフカ。比較的短いからか国際社会でよく知られている「変身」。グレーゴル・ザムザ。彼は一体何をしたのか。職場に連絡しないまま家で寝ていたグレーゴル。気づいたのはとうに出社している時間。ところがなぜかグレーゴル一人のためにわざわざ「支配人」が家まで迎えに来ている。「支配人」を先頭に一家揃ってグレーゴルに声をかけ、できるかぎり速やかな出社を促す。グレーゴルは部屋の中からこう答える。
「『すぐ服を着て、サンプルの包みをこしらえて、出かけますから。出かけさせてくれるんでしょうね、支配人さん。ごらんのとおりわたしはけっして頑固者じゃありませんし、仕事好きなんです。むろん旅行は楽じゃありませんが、そうかといって旅行がなかったら生きてはいけまいと思っているんです。これからどちらです、支配人さん、お店ですか。そうですか。万事ありのままお伝えくださいね。だれにしたってちょっと働けなくなるときはありますからね、そんな場合には、ふだんの成績のことを思い出してくださって、ぐあいさえよくなればむろん旧に倍して精を出すものだということを考えてくださらなくちゃ。わたしはまったくの話が社長を恩に着ているんです。申しあげるまでもないんですが。いっぽうまた両親や妹のことも気がかりで、板ばさみなんですよ。けれどなんとか切りぬけてみせます。しかしどうかこれ以上わたしを不利な立場に追いこまないでください。店でもどうかわたしをかばっていただきたいんです。外交販売員は人に好かれない、よくわかっています。大金を儲(もう)けて、いい暮しをしていると思われているんです。そうかといって、こういう偏見を考えなおしてみようという気を起さない、まあそれももっともです。だけど、支配人さん、あなただけはほかの連中よりも事情をよくのみこんでいらっしゃるわけじゃありませんか。いや、ここだけの話ですが、社長なんかよりもそうなんです。社長はなにしろお役目柄からいっても物事を判断する場合にとかく社員というものには不利な考え方もしがちですからね。こんなことはくどくど申しあげるまでもないと思いますが、一年じゅう店を留守にして外を出あるいている外交員はとかく陰口や偶然事やいわれのない非難を背負いこむもので、こっちはそうだからといってどうしようもない立場にいるんですしね。まったくの話がそういうことはなにひとつこっちの耳にははいってこない。旅を終ってやれやれと家に帰ってきたときになってはじめて、原因なんかはもう探ってみることもできないような、いやないろいろな結果を自分の体に見つけだすというしだいなんですよ。どうか、支配人さん、おひきとりになるまえに、お願いですから、なるほどおまえの言うことも多少はもっともだといった意味のお言葉をお聞かせいただきたいんです』」(カフカ「変身・P27~28」新潮文庫 一九五二年)
グレーゴルの言葉というよりその<声>を聞いた支配人は「獣(けもの)」の声だとしてすでにとっととその場から逃げ出す準備に入っている。グレーゴルの家族らも怯えきっている。何が変わったのか。特に何ということもない。しかし当時は途方もない事態だった。グレーゴルはグレーゴル自身で自分の生活様式を変化させた。今なら便利な言葉がある。「ひきこもり・自閉症」。社会の或る種の枠組みから別の枠組みへ移動したというばかり。ところが当時はそのようなことを実行に移す人々はごく少数だった。グレーゴルは絶対的とされていた<家庭>の鋳型から逃走しようとしたに過ぎない。後にアメリカ・ドイツ・ロシア・中国を覆い尽くすオイディプス三角形並びに絶対主義的官僚制という枠組みから降りた。そうするやグレーゴルとその一家はたちどころに社会から排除された。上への排除は「皇帝」とか「大統領」とか呼ばれるけれども、作品「変身」のケースはそうでなく下への排除。社会的制裁対象とされる。カースト制度の最底辺。社会的リンチが待っている。しかしグレーゴルの家族の中でも父親はグレーゴルに対して再編入の機会を与えてやる。それが次のシーン。
「そのとき、彼のすぐわきになにかが飛んできて、彼の前をころがった。林檎(りんご)であった。やんわりと投げられたらしい。つづいてすぐ第二の林檎が飛んできた。驚きのあまりグレーゴルは立ちすくんだ。それ以上這って逃げてももうだめだった。父親は爆撃の決意を固めていたからである。食器棚(だな)の上にあった果物皿(くだものざら)からどのポケットにもいっぱいつめこんだ林檎を、さしあたってはぴたりとねらいをつけずにやたらに投げだしたのだ。小さな赤い林檎は電気仕掛けみたいに床の上をころげまわってぶつかりあった。そっと投げられた林檎の一つが背中をかすったが、べつに背中には異状なく林檎は滑りおちた。ところが第二弾が背中にぐさりとめりこんだ。場所を変えれば、突然の信ずるべからざる背中の苦痛が消えるとでもいうように、グレーゴルはさらに逃げようとしたが、まるで釘(くぎ)づけにされたような感じで、全感覚が完全に狂ったまま、その場に伸びてしまった。目が見えなくなる直前、自分の部屋のドアが開かれるのをやっと見ることができた。なにごとか叫ぶ妹のうしろから母親が走り出てきた。下着のままだった」(カフカ「変身・P65~66」新潮文庫 一九五二年)
主にキリスト教圏で「林檎(りんご)」といえば何をイメージするだろうか。わかりきったことだ。グレーゴルの父はグレーゴルに「赤い林檎」を与えることで、もはや古くなりつつあるオイディプス三角形並びに絶対主義的官僚制という枠組みへ連れ戻そうとした。少なくともその機会を与えている。そしてまた母親の行動だがなぜか「下着のままだった」。この性的イメージは重要な部分だ。わざわざ「下着のまま」走り出てくる必然性などない。にもかかわらずカフカはそう書いた。もはや前提として語られるようになったが、カフカ作品では女性が重要な役割を果たす。特に母でなくともよい。性的なものの出現は可塑性への誘惑を意味する。そこから再びやり直すことが可能だと。さらに<女中・娼婦>になると「城」で大いに活躍するように電話交換局的な結節点として機能する。或る種の電車がどんどん路線変更していくポイントの役割を果たす。話を「変身」に限るとしても、グレーゴルはオイディプス三角形などもうこりごりだと全身で表明しているにもかかわらず、母は逆にもう一度オイディプス三角形が支配する<家庭>を作り直す機会をちらつかせてしまう。人間として産まれ直しましょうと。その趣旨が肉親から発されているだけになおのことグレーゴルを苦しめ、その精神を相反する両極に引き裂いてしまう。均質で凡庸で平板で成績優秀な会社員の<家庭>に戻りましょうと。グレーゴル自身が最も強力にそれを拒否しているにもかかわらず。だがそこでグレーゴルを直接的に<家庭>に戻すことには無理があると感じた家族は社会とグレーゴルとを繋ぐ<移動民>としてグレーゴルの妹を「派遣」する。父は一般的社会機構を代表しているが妹はその直接的<代理人>とはまた異なる位置にいる。ドゥルーズ=ガタリのいう次の事態が発生している。
「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを⦅つまり信じられないような欲望の抑圧を⦆操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ。つまり、<背信の翻訳>の場合でしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.151~152」河出書房新社 一九八六年)
ところがさらにグレーゴルが拒否しているのはオイディプス三角形型の<家庭>ばかりではなくもっと巨大なものをも同時に拒否している。絶対主義的官僚制がそれだ。明文化されて与えられている公務員手帳の規則などではまったくなく、もっと毎日眼にしているあからさまな官僚主義的<掟>を意味する。例えば上官の発言は実際に発語されるかどうかは二の次であり無言であっても構わない。むしろ上官の態度がただよわせる空気=気配を嗅ぎ取ってその意向に従わなければ許されない。しかしもし官僚主義的<掟>に従わず逆に公務員手帳にある表向きの記述に従った場合、どういうことになるか。過酷この上ない粛清。官僚主義的<掟>のケースはスターリン時代のソ連が代表している。オイディプス三角形型の<家庭>=「ファミリー」を代表するのがアメリカであるように。
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差し当たり赤松が上げる問題点。(1)「研究費や調査費のもらえそうな城郭、社寺、宿場、異人館などの町並」ばかりが残されていること。(2)「女郎屋も、貧農の子女を犠牲にした記念碑ではないかと女性闘士は怒るかも知れぬが、東京の吉原、京の島原その他でも大名や豪商を相手というのはそれほどあるまい。まあ殆ど九十九パーセントまでは、われわれ民衆が買い手であった」ことがなぜか覆い隠されている点。(3)「公認売春を喜ぶわけではないが、おかげでトルコ、スナックその他の一時的恋愛売春が増えたり、団地夫人など家庭主婦のバイトが繁昌では、どういうことでしょうか」と、死後二十年を経て世界中を席巻するに至っているネット経由型「売買春」の横行について。
「文化庁とか教育委員会などというタテマエだけを後生大事にするところに、ほんとうの民衆の『文化財』の価値などわかるものでない。いわゆる文化史家とか、建築史家とかいうのはバカモンばかりで、研究費や調査費のもらえそうな城郭、社寺、宿場、異人館などの町並は残せというが、お前、少しここがおかしいのと違うか、といわれかねない女郎屋街やスラム街になると見向きもしないのである。城郭、社寺、本陣、異人館、豪農、豪商の邸宅、どの一つでもわれわれ民衆にとって『文化財』といえるものがあるか。昔のマルクス・ボーイにかえっていえば、みんな民衆の膏血をしぼりとった記念碑ばかりである。女郎屋も、貧農の子女を犠牲にした記念碑ではないかと女性闘士は怒るかも知れぬが、東京の吉原、京の島原その他でも大名や豪商を相手というのはそれほどあるまい。まあ殆ど九十九パーセントまでは、われわれ民衆が買い手であった。われわれも公認売春を喜ぶわけではないが、おかげでトルコ、スナックその他の一時的恋愛売春が増えたり、団地夫人など家庭主婦のバイトが繁昌では、どういうことでしょうか、と女性闘士たちに問いたくなる」(赤松啓介「性・差別・民俗・二・村の祭礼と差別・三・ムラとマツリ・P.166」河出文庫 二〇一七年)
かつての「女性闘士」、今の女性解放運動の<女性>活動家をからかっているのは確かだ。しかし赤松自身、なぜ女性解放運動がそのような歴史をたどってしまったのか。その点についてこう述べている。
「古い村落共同体の性風俗を、ただ淫風陋習として排撃するだけで、それに代わる性教育や性風俗を創造できなかった私たちは、いまや性の社会的壊乱のなかで、その代償を払うことになってきた」(赤松啓介「性・差別・民俗・三・土俗信仰と性民俗・三・共同体と<性>の伝承・P.274」河出文庫 二〇一七年)
ただ単に古い性風俗だからとかよくない淫風陋習だからと排撃するだけで「それに代わる性教育や性風俗を創造できなかった私たち」民衆こそ、今日の性風俗の巨大産業資本化を許してしまっている最大の理由の、少なくともその一つだというわけである。そして民衆の側は多額の「税金」で「その代償を払うことになってきた」のも見誤る余地のない事実だ。この文章の中には取り返しのつかない現状に対する自己批判の生々しい表明がある。ただしもちろん明治維新の元勲から始まり、さらに戦時中に満州で得た権益を日本に持ち帰った後、上流階級入りした今の政治家一家などを筆頭に上げなければならない。しかし赤松が民衆の側に立って民衆もまた加害者であるというのは実際に身近で観察し研究し現場で共に生活して確かめなおかつ大量の文献を漁りまくってきた生き証人として揺るがせにできない事実だからに違いない。
さて、カフカ。比較的短いからか国際社会でよく知られている「変身」。グレーゴル・ザムザ。彼は一体何をしたのか。職場に連絡しないまま家で寝ていたグレーゴル。気づいたのはとうに出社している時間。ところがなぜかグレーゴル一人のためにわざわざ「支配人」が家まで迎えに来ている。「支配人」を先頭に一家揃ってグレーゴルに声をかけ、できるかぎり速やかな出社を促す。グレーゴルは部屋の中からこう答える。
「『すぐ服を着て、サンプルの包みをこしらえて、出かけますから。出かけさせてくれるんでしょうね、支配人さん。ごらんのとおりわたしはけっして頑固者じゃありませんし、仕事好きなんです。むろん旅行は楽じゃありませんが、そうかといって旅行がなかったら生きてはいけまいと思っているんです。これからどちらです、支配人さん、お店ですか。そうですか。万事ありのままお伝えくださいね。だれにしたってちょっと働けなくなるときはありますからね、そんな場合には、ふだんの成績のことを思い出してくださって、ぐあいさえよくなればむろん旧に倍して精を出すものだということを考えてくださらなくちゃ。わたしはまったくの話が社長を恩に着ているんです。申しあげるまでもないんですが。いっぽうまた両親や妹のことも気がかりで、板ばさみなんですよ。けれどなんとか切りぬけてみせます。しかしどうかこれ以上わたしを不利な立場に追いこまないでください。店でもどうかわたしをかばっていただきたいんです。外交販売員は人に好かれない、よくわかっています。大金を儲(もう)けて、いい暮しをしていると思われているんです。そうかといって、こういう偏見を考えなおしてみようという気を起さない、まあそれももっともです。だけど、支配人さん、あなただけはほかの連中よりも事情をよくのみこんでいらっしゃるわけじゃありませんか。いや、ここだけの話ですが、社長なんかよりもそうなんです。社長はなにしろお役目柄からいっても物事を判断する場合にとかく社員というものには不利な考え方もしがちですからね。こんなことはくどくど申しあげるまでもないと思いますが、一年じゅう店を留守にして外を出あるいている外交員はとかく陰口や偶然事やいわれのない非難を背負いこむもので、こっちはそうだからといってどうしようもない立場にいるんですしね。まったくの話がそういうことはなにひとつこっちの耳にははいってこない。旅を終ってやれやれと家に帰ってきたときになってはじめて、原因なんかはもう探ってみることもできないような、いやないろいろな結果を自分の体に見つけだすというしだいなんですよ。どうか、支配人さん、おひきとりになるまえに、お願いですから、なるほどおまえの言うことも多少はもっともだといった意味のお言葉をお聞かせいただきたいんです』」(カフカ「変身・P27~28」新潮文庫 一九五二年)
グレーゴルの言葉というよりその<声>を聞いた支配人は「獣(けもの)」の声だとしてすでにとっととその場から逃げ出す準備に入っている。グレーゴルの家族らも怯えきっている。何が変わったのか。特に何ということもない。しかし当時は途方もない事態だった。グレーゴルはグレーゴル自身で自分の生活様式を変化させた。今なら便利な言葉がある。「ひきこもり・自閉症」。社会の或る種の枠組みから別の枠組みへ移動したというばかり。ところが当時はそのようなことを実行に移す人々はごく少数だった。グレーゴルは絶対的とされていた<家庭>の鋳型から逃走しようとしたに過ぎない。後にアメリカ・ドイツ・ロシア・中国を覆い尽くすオイディプス三角形並びに絶対主義的官僚制という枠組みから降りた。そうするやグレーゴルとその一家はたちどころに社会から排除された。上への排除は「皇帝」とか「大統領」とか呼ばれるけれども、作品「変身」のケースはそうでなく下への排除。社会的制裁対象とされる。カースト制度の最底辺。社会的リンチが待っている。しかしグレーゴルの家族の中でも父親はグレーゴルに対して再編入の機会を与えてやる。それが次のシーン。
「そのとき、彼のすぐわきになにかが飛んできて、彼の前をころがった。林檎(りんご)であった。やんわりと投げられたらしい。つづいてすぐ第二の林檎が飛んできた。驚きのあまりグレーゴルは立ちすくんだ。それ以上這って逃げてももうだめだった。父親は爆撃の決意を固めていたからである。食器棚(だな)の上にあった果物皿(くだものざら)からどのポケットにもいっぱいつめこんだ林檎を、さしあたってはぴたりとねらいをつけずにやたらに投げだしたのだ。小さな赤い林檎は電気仕掛けみたいに床の上をころげまわってぶつかりあった。そっと投げられた林檎の一つが背中をかすったが、べつに背中には異状なく林檎は滑りおちた。ところが第二弾が背中にぐさりとめりこんだ。場所を変えれば、突然の信ずるべからざる背中の苦痛が消えるとでもいうように、グレーゴルはさらに逃げようとしたが、まるで釘(くぎ)づけにされたような感じで、全感覚が完全に狂ったまま、その場に伸びてしまった。目が見えなくなる直前、自分の部屋のドアが開かれるのをやっと見ることができた。なにごとか叫ぶ妹のうしろから母親が走り出てきた。下着のままだった」(カフカ「変身・P65~66」新潮文庫 一九五二年)
主にキリスト教圏で「林檎(りんご)」といえば何をイメージするだろうか。わかりきったことだ。グレーゴルの父はグレーゴルに「赤い林檎」を与えることで、もはや古くなりつつあるオイディプス三角形並びに絶対主義的官僚制という枠組みへ連れ戻そうとした。少なくともその機会を与えている。そしてまた母親の行動だがなぜか「下着のままだった」。この性的イメージは重要な部分だ。わざわざ「下着のまま」走り出てくる必然性などない。にもかかわらずカフカはそう書いた。もはや前提として語られるようになったが、カフカ作品では女性が重要な役割を果たす。特に母でなくともよい。性的なものの出現は可塑性への誘惑を意味する。そこから再びやり直すことが可能だと。さらに<女中・娼婦>になると「城」で大いに活躍するように電話交換局的な結節点として機能する。或る種の電車がどんどん路線変更していくポイントの役割を果たす。話を「変身」に限るとしても、グレーゴルはオイディプス三角形などもうこりごりだと全身で表明しているにもかかわらず、母は逆にもう一度オイディプス三角形が支配する<家庭>を作り直す機会をちらつかせてしまう。人間として産まれ直しましょうと。その趣旨が肉親から発されているだけになおのことグレーゴルを苦しめ、その精神を相反する両極に引き裂いてしまう。均質で凡庸で平板で成績優秀な会社員の<家庭>に戻りましょうと。グレーゴル自身が最も強力にそれを拒否しているにもかかわらず。だがそこでグレーゴルを直接的に<家庭>に戻すことには無理があると感じた家族は社会とグレーゴルとを繋ぐ<移動民>としてグレーゴルの妹を「派遣」する。父は一般的社会機構を代表しているが妹はその直接的<代理人>とはまた異なる位置にいる。ドゥルーズ=ガタリのいう次の事態が発生している。
「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを⦅つまり信じられないような欲望の抑圧を⦆操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ。つまり、<背信の翻訳>の場合でしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.151~152」河出書房新社 一九八六年)
ところがさらにグレーゴルが拒否しているのはオイディプス三角形型の<家庭>ばかりではなくもっと巨大なものをも同時に拒否している。絶対主義的官僚制がそれだ。明文化されて与えられている公務員手帳の規則などではまったくなく、もっと毎日眼にしているあからさまな官僚主義的<掟>を意味する。例えば上官の発言は実際に発語されるかどうかは二の次であり無言であっても構わない。むしろ上官の態度がただよわせる空気=気配を嗅ぎ取ってその意向に従わなければ許されない。しかしもし官僚主義的<掟>に従わず逆に公務員手帳にある表向きの記述に従った場合、どういうことになるか。過酷この上ない粛清。官僚主義的<掟>のケースはスターリン時代のソ連が代表している。オイディプス三角形型の<家庭>=「ファミリー」を代表するのがアメリカであるように。
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