フリーダはクラムの愛人である。クラムの要求に応じていつもで体を与える<娼婦>である。その点でフリーダは村人から笑われる。しかしこの笑いはどこに源泉を持つのか。フリーダに対する根深い<嫉妬>がそれに当たる。フリーダは娼婦であるにもかかわらず城の機構の重要部門に位置するクラムといともたやすく接触することができる。他の村民にはとてもではないが不可能な導線の役割を演じることができる。それが村民たちの<嫉妬>の感情を嫌が上にも増殖させる。村民はフリーダに対して底知れぬルサンチマン(劣等感・復讐感情)を抱いている。ニーチェがいうように。
「道徳上の奴隷一揆が始まるのは、《怨恨(ルサンチマン)》そのものが創造的になり、価値を生み出すようになった時である。ここに《怨恨=反感》というのは、本来の《反作用=反動》、すなわち行動上の反動が禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩の《怨恨》である。すべての高貴な道徳はそれ自身に向かう高らかな自己肯定から生ずるが、奴隷道徳は『外のもの』『他のもの』、『自分とは異なるもの』を頭から否定する。そして《この》否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ。評価を定める眼差しがこのように逆立ちしていることーーーすなわち、自分自身に向かい合うよりもむしろ、つねに外へと向かうこの《必然的な》方向ーーーこれこそはまさしく《怨恨》の本性である。奴隷道徳が成立するためには、常にまず一つの対立、一つの外界を必要とする。生理学的に言えば、奴隷道徳は一般に、動き、行動を起こすための外的刺激を必要とする。ーーーだから奴隷道徳の行動は根本的に反動である」(ニーチェ「道徳の系譜・第一論文・十・P.36~37」岩波文庫 一九四〇年)
ところが一方のアマーリアの場合、フリーダとは逆に城の役人ソルティーニの露骨な性的要求を拒否したため城との繋がりはバルナバスが城の使者を務めている点に限られてくる。しかしバルナバスが演じるほかない城と村とを架橋する使者という機能はあまりにも頼りない職務でしかない。以前引用した。
「『なるほど』と、Kは言った。『バルナバスは、命令をもらうまでに、長いあいだ待たされるんですね。それは、わからないことでもありませんよ。どうやら当地には掃いて捨てるほど使用人がいるようですからね。だれもが毎日仕事をもらえるとはかぎらない。あんたがたがそのことで不平をこぼすのは、筋ちがいというものです。おそらく、だれだってそうなんでしょうから。しかし、最後には、バルナバスだって、仕事がもらえる。これまでにも、ぼくに手紙を二通もってきてくれましたからね』。『わたしたちが泣きことをいうのは、まちがっているかもしれません。わたしの場合は、特にそうですわ。すべてのことを話に聞いて知っているだけですし、女ですから、バルナバスのようによく理解することもできません。それに、バルナバスにしたって、まだ隠していることがいろいろあるんですもの。だけど、つぎには、手紙がどういうものか、たとえば、あなたあての手紙がどういうものか、それをお話ししましょう。バルナバスは、こうした手紙を直接クラムから受けとるのではなく、書記からもらうのです。いつでもいいんですが、ある任意の日の任意の時間にーーーだから、この勤めも、一見らくなように見えますが、とても疲れるんです。と言いますのは、バルナバスは、たえず注意をくばっていなくてはならないからですわ。とにかく、ある日のある時間に書記が、バルナバスのことを思いだしてくれて、彼に合図をします。これは、全然クラムが指定したのではないようです。彼は、静かに本に首をつっこんでいるだけです。ときおり、といっても、ふだんでもちょっしゅうしていることなんですが、たまたまバルナバスが行ったときに、クラムが鼻眼鏡をふいていることがあります。そういうときには、あるいはバルナバスの姿を眼にとめてくれるかもしれません。もっとも、クラムが眼鏡をかけずにものが見えるとしての話ですが、バルナバスは、それを疑っています。クラムは、そういうとき、眼をほとんどとじているのです。まるで眠っているようで、夢のなかで眼鏡をふいているとしか見えないそうです。そうこうしているうちに、書記は、机の下に置いてあるたくさんの書類や手紙類のなかから、あなたあての手紙をさがしだします。ですから、それは、そのとき書いたばかりの手紙ではないんです。むしろ、封筒の状態から判断すると、非常に古い手紙で、長いこと机の下に放置されていたのです。けれども、それが古い手紙であるのなら、なぜバルナバスをこんなに長いあいだ待たせておいたのでしょう。そして、おそらくあなたをも。そして、最後には、手紙をも、だって、そんな手紙なんか、いまじゃ反故(ほご)同然なんですもの。しかも、そのおかげで、バルナバスは、けしからん、のろまな使者だという評判をたてられてしまうんです。書記のほうは、もちろん、平気なもので、バルナバスに手紙を渡すと、<クラムからKにあててだ>というだけです。これだけで、バルナバスは退出です。さて、それから、バルナバスは、家へ帰ってきます。息を切らせて、やっとのことで手に入れた手紙をシャツの下の肌身(はだみ)に巻きつけて帰ってくるのです』」(カフカ「城・P.299~300」新潮文庫 一九七一年)
古すぎる手紙。「反故(ほご)同然」の手紙。にもかかわらず、もしそれを宛先(Kからクラム、クラムからK、その他さまざま)に届けなければバルナバスは今後いったいどうなるかわかったものではない。「反故(ほご)同然」の手紙であっても何かほんの僅かの問い合わせをきっかけとして今すぐ照会しなければ許されない手紙へと価値移動するような事例なら掃いて捨てるほど幾らでもある。
このようにバルナバスの職務は伸び縮みするため「信用」という点で村民たちから見れば脆過ぎるものでしかない。そこで結局のところ体を与えてでもクラムの要求に応じたフリーダより、ソルティーニの要求を拒否して一家を底知れぬ不安定状態に陥れてしまったアマーリアは村民たちから嫉妬すらされず、ただ単なる嘲笑に晒される待遇に甘んじることになった。嫉妬すらされず「軽蔑されるだけ」。オルガはいう。
「『フリーダを笑った者でさえ、意地わるでそうしたか、でなければ、フリーダをねたんでいるのです。とにかく、笑われるだけですみます。ところが、アマーリアは、あの子と血のつながりのない相手からは、軽蔑されるだけなのです。ですから、あなたがおっしゃるように、根本的にちがったケースですが、それでもやはり似たケースでもあるんですわ』」(カフカ「城・P.326」新潮文庫 一九七一年)
Kの問いに答える形でオルガはさらに説明を続ける。しばらくしてオルガはこういう。
「『ほんとうのところ、お役人たちと女性たちとの関係は判断するのがひどくむずかしいのです』」(カフカ「城・P.328~329」新潮文庫 一九七一年)
両者の因果関係はいつもすでに接続されたり切断されたり別のものへと再接続されたりを繰り返しているため、絶対的因果関係を決定することはもはやできないということだ。ニーチェから二箇所。
(1)「ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。現に存在するもの、何らかの仕方で発生したものは、それよりも優勢な力によって幾たびとなく新しい目標を与えられ、新しい場所を指定され、新しい功用へ作り変えられ、向け変えられる。有機界におけるすべての発生は、一つの《圧服》であり、《支配》である。そしてあらゆる圧服や支配は、さらに一つの新解釈であり、一つの修整であって、そこではこれまでの『意識』や『目的』は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまわなければならない。ある生理的器官(乃至はまたある法律制度、ある社会的風習、ある政治的慣習、ある芸術上の形式または宗教的儀礼の形式)のもつ《功用》をいかによく理解していても、それはいまだその発生に関する理解をもっていることにはならない。こう言えば、旧套に馴れた人々の耳には随分と聞きづらく不快に響くかもしれない、ーーーというのは、古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見る《ために》作られ、手は摑む《ために》作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰する《ために》発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有する者を支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの《標証》にすぎない。従ってある『事物』、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、それの諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し交替するだけである。してみれば、ある事物、ある慣習、ある器官の『発展』とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力と負担とで達せられる《進歩》ではなお更ない。ーーーむしろ、事物乃至は器官の上に起こる多少とも深行的な、多少とも相互に独立的な圧服過程の連続であり、同時にこの圧服に対してその度ごとに試みられる反抗であり、弁護と反動を目的とする思考的な形式変化であり、更に旨く行った反対活動の成果でもある。形式も固定したものでないが、『意味』はなお一層固定したものでない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十二・P.88~90」岩波文庫 一九四〇年)
(2)「わたしの頭上の空よ、おまえ、清らかなもの、高いものよ。わたしにとっておまえの清らかさとは、そこになんらの永遠的な理性蜘蛛(りせいぐも)とその蜘蛛の巣がないということなのだ。ーーーまたおまえがわたしにとって神的な偶然が踊る踊り場であるということ、神的な骰子(さい)と神的な骰子遊びをする者にとっての神的な卓であるということなのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・日の出前・P.264」中公文庫 一九七三年)
因果関係の絶対性はもはや消え失せた。言葉を置き換えれば「神は死んだ」。だからといって因果関係という概念もまた絶滅してしまったのかといえばまるで違う。死んだ「神」にとって代わって官僚機構の<部分としての司法制度>が因果関係を作り上げたり解体したり結び直したり別の要因と繋ぎ合わせたりしている。人間の権力意志というものは自分に危険が及ばないよう自ら進んで危険極まりない場所へ入って緻密な操作を機敏に行う。そのためには自分よりも上位に位置する社会的権力者層の言動とその意向についていつも敏感な嗅覚を維持しておかなければならない。その結果、以前なら官僚機構の中でたまたま自分より下位に属する職員の一人や二人が行方不明になったり自殺死体で発見されたりするのは「仕方がない」ということで済まされてきた。ところが驚くべき電気通信網・ネット社会の激変に伴って、いつどこでどのような意図的操作がどの程度行われたか、ほとんどすべてといっていいほど特定可能になってきた。どんな国家のどんな権力者も永遠に不死身でいることはもはや不可能になった。
さて、城の機構と村の女性との関係についてオルガはいう。女性は生まれた時すでに、あらかじめ決定された状況の中へ放り込まれるような仕方で生まれてくるほかないと。
「『アマーリアにはたずねることができないのです。あの子は、ただソルティーニを袖にしただけで、それ以上のことはなにも知らないのです。自分がソルティーニを愛しているのか、愛していないのかということさえ、知らないのです。けれども、わたしたちは、知っていますーーー女性というものは、お役人にいったんこちらを向かれたら、相手を愛さざるをえなくなってしまうのです。それどころか、どんなに否定しようとおもったって、そのまえからすでにお役人を愛してしまっているのです』」(カフカ「城・P.329」新潮文庫 一九七一年)
村の女性たちはいつもすでにあらかじめ決定された自分自身を「持ってしまっている」。ドゥルーズはフィッツジェラルドのアルコール依存について述べているが、城の村の女性が置かれた立場と変わるところはない。二箇所引こう。
(1)「アルコール飲みは、この硬直が隠匿する柔らかさを愛するのと同様に、自分を捕える硬直も愛するのである。一方の時期が他方の時期の中にあり、現在がこれほど固くなり硬直するのは、破裂しそうな柔らかな点を占拠するためにほかならない。同時的な二つの時期は、奇妙な仕方で複合される。すなわち、アルコール飲みは、半過去や未来を生きるのではなく、《複合過去》しか持たないのである。ただし極めて特殊な複合過去である。アルコール飲みは、酔いを材料にして、想像的な過去を複合する。まるで、柔らかな過去分詞が、固い助動詞現在形に結合しに来たかのように。私は愛してしまったを-持っている、私は行なってしまったを-持っている、私は見てしまったを-持っている(j’ai-aimé, j’ai-fait, j’ai-vu)。これが、二つの時期の交接を表現し、アルコール飲みが躁的な全-能性を享受しながら一方の時期を他方の時期の《中で》経験するやり方を表現する。ここにおいて、複合過去は隔たりや完遂をまったく表現していない。現在の時期は、動詞・持つの時期であるが、すべての存在者は、『過去』として、《同時的な》別の時期の中に、分有の時期、分詞の固定の時期の中にある。それにしても、この締め付け、現在が別の時期を包囲し占拠し締め付けるこの方式は、ほとんど堪え難い何とも奇妙な緊張である。現在は、柔らかな中心・溶岩・液状ガラス・粘性ガラスの周囲で、円形の水晶や花崗岩になる」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・第22セリー・P.275~276」河出文庫 二〇〇七年)
(2)「さらに別のものになるために、緊張は解けてしまう。というのは、当然にも、複合過去は『私は飲んでしまったを-持っている』に到るからである。現在の時期は、もはやアルコールの効果の時期ではなくなり、アルコールの効果の効果の時期になる。そして、今や、この別の時期が、近い過去(私が飲んでいた時期)を無差別に含んでしまう。また、この近い過去が隠匿する想像的同一化のシステムと、多かれ少なかれ遠ざかった素面の過去のリアルな要素も含んでしまう。それによって、現在の硬化はまったく意味を変える。すなわち、現在は、固い現在としては、影響力を失って色褪せ、何ものも締め付けず、別の時期のすべての相を等しく遠ざける。まるで、近くの過去、しかしまた、近くの過去で構成された同一化の過去、そして最期に、〔その構成の〕材料を提供していた素面の過去、これらすべてが、羽ばたいて逃げ去り、等しくなったかのようである。これらすべての過去との距離を維持しているのが、全般的に拡大する色褪せた現在、増大する砂漠の中で改めて硬直する新たな現在である。複合過去の一次効果は、唯一の複合過去『私は飲んでしまったを-持っている』の二次効果で置き換えられる。この助動詞現在形は、一切の分詞と一切の分有からの無限の距離を表現するだけである。現在の硬化(私は持っている)と、過去(私は飲んでしまった)の逃走の効果には、今や関連性があることになる。であったことを持っている(has been)においてすべては頂点に達する。過去の逃走の効果、あらゆる意味での対象喪失が、アルコリスムの抑鬱的な面を構成する。そして、この逃走の効果が、たぶん、フィッツジェラルドの作品の最大の力になっているものであり、フィッツジェラルドが最も深く表現したものである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・第22セリー・P.276~277」河出文庫 二〇〇七年)
掟(おきて)というものの過酷さは実際に相手を愛しているかいないかなどまるで問題にしない点に顕著である。城の村の女性たちは幼少期を過ぎて意識が明確になるにつれ、「私は愛してしまったを-持っている」ということで<なければならない>状況に包囲されていることに直面せざるを得ない。それをアマーリアは「拒否したを-持っている」バルナバス一家。Kの常識からすればアマーリアの側こそ「正しい」。しかし城に属する村民の常識は違っている。むしろ「正しいか正しくないか」は城の機構が決めることだからである。そしてまた城の機構は一度決めた決定にもかかわらず、もう明日には逆方向へ転倒させているかもしれない。今の日本の裁判機構のようだ。立場の弱い市民層から見て手続上は「最高裁判所」だが、内部でやることなすことは「最低裁判所」だと揶揄してみても今さら始まらない。というのもカフカが「城」で描いたように「柵」はいつも<可動的>だからだ。無いに等しい。けれども「柵」抜きに裁判上の手続きを進めることは原告にとっても被告にとってもできない。
だがしかし<子ども>の系列が城の機構に属する村中をいつもうろちょろしていることを忘れるわけにはいかない。二人の助手がそうだし、小学校生・ハンスもまたそうだ。ハンスはKに向かって理路整然と話をする。時として村長よりも明確に説明する。しかし必要最低限と思われる話をし終えるやたちまち子どもに返ってフリーダや助手たちと他愛ない<ごっこ遊び>に打ち込んでいる。「子供か大人か」ではなく<子ども>の系列があり同時に<おとな>の系列があり、どちらの代表者でもない限りでハンスや二人の助手は両方を往来できる資格を与えられているというべきだろう。この<非定住民>的性格は<娼婦・女中・姉妹>が持つ<非定住民>的性格とはまた別種の非定住民性として考えられなくてはならない。その意味で<子ども>の系列はもっと遥かに遠い射程を持つといえそうだ。
BGM1
BGM2
BGM3
「道徳上の奴隷一揆が始まるのは、《怨恨(ルサンチマン)》そのものが創造的になり、価値を生み出すようになった時である。ここに《怨恨=反感》というのは、本来の《反作用=反動》、すなわち行動上の反動が禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩の《怨恨》である。すべての高貴な道徳はそれ自身に向かう高らかな自己肯定から生ずるが、奴隷道徳は『外のもの』『他のもの』、『自分とは異なるもの』を頭から否定する。そして《この》否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ。評価を定める眼差しがこのように逆立ちしていることーーーすなわち、自分自身に向かい合うよりもむしろ、つねに外へと向かうこの《必然的な》方向ーーーこれこそはまさしく《怨恨》の本性である。奴隷道徳が成立するためには、常にまず一つの対立、一つの外界を必要とする。生理学的に言えば、奴隷道徳は一般に、動き、行動を起こすための外的刺激を必要とする。ーーーだから奴隷道徳の行動は根本的に反動である」(ニーチェ「道徳の系譜・第一論文・十・P.36~37」岩波文庫 一九四〇年)
ところが一方のアマーリアの場合、フリーダとは逆に城の役人ソルティーニの露骨な性的要求を拒否したため城との繋がりはバルナバスが城の使者を務めている点に限られてくる。しかしバルナバスが演じるほかない城と村とを架橋する使者という機能はあまりにも頼りない職務でしかない。以前引用した。
「『なるほど』と、Kは言った。『バルナバスは、命令をもらうまでに、長いあいだ待たされるんですね。それは、わからないことでもありませんよ。どうやら当地には掃いて捨てるほど使用人がいるようですからね。だれもが毎日仕事をもらえるとはかぎらない。あんたがたがそのことで不平をこぼすのは、筋ちがいというものです。おそらく、だれだってそうなんでしょうから。しかし、最後には、バルナバスだって、仕事がもらえる。これまでにも、ぼくに手紙を二通もってきてくれましたからね』。『わたしたちが泣きことをいうのは、まちがっているかもしれません。わたしの場合は、特にそうですわ。すべてのことを話に聞いて知っているだけですし、女ですから、バルナバスのようによく理解することもできません。それに、バルナバスにしたって、まだ隠していることがいろいろあるんですもの。だけど、つぎには、手紙がどういうものか、たとえば、あなたあての手紙がどういうものか、それをお話ししましょう。バルナバスは、こうした手紙を直接クラムから受けとるのではなく、書記からもらうのです。いつでもいいんですが、ある任意の日の任意の時間にーーーだから、この勤めも、一見らくなように見えますが、とても疲れるんです。と言いますのは、バルナバスは、たえず注意をくばっていなくてはならないからですわ。とにかく、ある日のある時間に書記が、バルナバスのことを思いだしてくれて、彼に合図をします。これは、全然クラムが指定したのではないようです。彼は、静かに本に首をつっこんでいるだけです。ときおり、といっても、ふだんでもちょっしゅうしていることなんですが、たまたまバルナバスが行ったときに、クラムが鼻眼鏡をふいていることがあります。そういうときには、あるいはバルナバスの姿を眼にとめてくれるかもしれません。もっとも、クラムが眼鏡をかけずにものが見えるとしての話ですが、バルナバスは、それを疑っています。クラムは、そういうとき、眼をほとんどとじているのです。まるで眠っているようで、夢のなかで眼鏡をふいているとしか見えないそうです。そうこうしているうちに、書記は、机の下に置いてあるたくさんの書類や手紙類のなかから、あなたあての手紙をさがしだします。ですから、それは、そのとき書いたばかりの手紙ではないんです。むしろ、封筒の状態から判断すると、非常に古い手紙で、長いこと机の下に放置されていたのです。けれども、それが古い手紙であるのなら、なぜバルナバスをこんなに長いあいだ待たせておいたのでしょう。そして、おそらくあなたをも。そして、最後には、手紙をも、だって、そんな手紙なんか、いまじゃ反故(ほご)同然なんですもの。しかも、そのおかげで、バルナバスは、けしからん、のろまな使者だという評判をたてられてしまうんです。書記のほうは、もちろん、平気なもので、バルナバスに手紙を渡すと、<クラムからKにあててだ>というだけです。これだけで、バルナバスは退出です。さて、それから、バルナバスは、家へ帰ってきます。息を切らせて、やっとのことで手に入れた手紙をシャツの下の肌身(はだみ)に巻きつけて帰ってくるのです』」(カフカ「城・P.299~300」新潮文庫 一九七一年)
古すぎる手紙。「反故(ほご)同然」の手紙。にもかかわらず、もしそれを宛先(Kからクラム、クラムからK、その他さまざま)に届けなければバルナバスは今後いったいどうなるかわかったものではない。「反故(ほご)同然」の手紙であっても何かほんの僅かの問い合わせをきっかけとして今すぐ照会しなければ許されない手紙へと価値移動するような事例なら掃いて捨てるほど幾らでもある。
このようにバルナバスの職務は伸び縮みするため「信用」という点で村民たちから見れば脆過ぎるものでしかない。そこで結局のところ体を与えてでもクラムの要求に応じたフリーダより、ソルティーニの要求を拒否して一家を底知れぬ不安定状態に陥れてしまったアマーリアは村民たちから嫉妬すらされず、ただ単なる嘲笑に晒される待遇に甘んじることになった。嫉妬すらされず「軽蔑されるだけ」。オルガはいう。
「『フリーダを笑った者でさえ、意地わるでそうしたか、でなければ、フリーダをねたんでいるのです。とにかく、笑われるだけですみます。ところが、アマーリアは、あの子と血のつながりのない相手からは、軽蔑されるだけなのです。ですから、あなたがおっしゃるように、根本的にちがったケースですが、それでもやはり似たケースでもあるんですわ』」(カフカ「城・P.326」新潮文庫 一九七一年)
Kの問いに答える形でオルガはさらに説明を続ける。しばらくしてオルガはこういう。
「『ほんとうのところ、お役人たちと女性たちとの関係は判断するのがひどくむずかしいのです』」(カフカ「城・P.328~329」新潮文庫 一九七一年)
両者の因果関係はいつもすでに接続されたり切断されたり別のものへと再接続されたりを繰り返しているため、絶対的因果関係を決定することはもはやできないということだ。ニーチェから二箇所。
(1)「ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。現に存在するもの、何らかの仕方で発生したものは、それよりも優勢な力によって幾たびとなく新しい目標を与えられ、新しい場所を指定され、新しい功用へ作り変えられ、向け変えられる。有機界におけるすべての発生は、一つの《圧服》であり、《支配》である。そしてあらゆる圧服や支配は、さらに一つの新解釈であり、一つの修整であって、そこではこれまでの『意識』や『目的』は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまわなければならない。ある生理的器官(乃至はまたある法律制度、ある社会的風習、ある政治的慣習、ある芸術上の形式または宗教的儀礼の形式)のもつ《功用》をいかによく理解していても、それはいまだその発生に関する理解をもっていることにはならない。こう言えば、旧套に馴れた人々の耳には随分と聞きづらく不快に響くかもしれない、ーーーというのは、古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見る《ために》作られ、手は摑む《ために》作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰する《ために》発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有する者を支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの《標証》にすぎない。従ってある『事物』、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、それの諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し交替するだけである。してみれば、ある事物、ある慣習、ある器官の『発展』とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力と負担とで達せられる《進歩》ではなお更ない。ーーーむしろ、事物乃至は器官の上に起こる多少とも深行的な、多少とも相互に独立的な圧服過程の連続であり、同時にこの圧服に対してその度ごとに試みられる反抗であり、弁護と反動を目的とする思考的な形式変化であり、更に旨く行った反対活動の成果でもある。形式も固定したものでないが、『意味』はなお一層固定したものでない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十二・P.88~90」岩波文庫 一九四〇年)
(2)「わたしの頭上の空よ、おまえ、清らかなもの、高いものよ。わたしにとっておまえの清らかさとは、そこになんらの永遠的な理性蜘蛛(りせいぐも)とその蜘蛛の巣がないということなのだ。ーーーまたおまえがわたしにとって神的な偶然が踊る踊り場であるということ、神的な骰子(さい)と神的な骰子遊びをする者にとっての神的な卓であるということなのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・日の出前・P.264」中公文庫 一九七三年)
因果関係の絶対性はもはや消え失せた。言葉を置き換えれば「神は死んだ」。だからといって因果関係という概念もまた絶滅してしまったのかといえばまるで違う。死んだ「神」にとって代わって官僚機構の<部分としての司法制度>が因果関係を作り上げたり解体したり結び直したり別の要因と繋ぎ合わせたりしている。人間の権力意志というものは自分に危険が及ばないよう自ら進んで危険極まりない場所へ入って緻密な操作を機敏に行う。そのためには自分よりも上位に位置する社会的権力者層の言動とその意向についていつも敏感な嗅覚を維持しておかなければならない。その結果、以前なら官僚機構の中でたまたま自分より下位に属する職員の一人や二人が行方不明になったり自殺死体で発見されたりするのは「仕方がない」ということで済まされてきた。ところが驚くべき電気通信網・ネット社会の激変に伴って、いつどこでどのような意図的操作がどの程度行われたか、ほとんどすべてといっていいほど特定可能になってきた。どんな国家のどんな権力者も永遠に不死身でいることはもはや不可能になった。
さて、城の機構と村の女性との関係についてオルガはいう。女性は生まれた時すでに、あらかじめ決定された状況の中へ放り込まれるような仕方で生まれてくるほかないと。
「『アマーリアにはたずねることができないのです。あの子は、ただソルティーニを袖にしただけで、それ以上のことはなにも知らないのです。自分がソルティーニを愛しているのか、愛していないのかということさえ、知らないのです。けれども、わたしたちは、知っていますーーー女性というものは、お役人にいったんこちらを向かれたら、相手を愛さざるをえなくなってしまうのです。それどころか、どんなに否定しようとおもったって、そのまえからすでにお役人を愛してしまっているのです』」(カフカ「城・P.329」新潮文庫 一九七一年)
村の女性たちはいつもすでにあらかじめ決定された自分自身を「持ってしまっている」。ドゥルーズはフィッツジェラルドのアルコール依存について述べているが、城の村の女性が置かれた立場と変わるところはない。二箇所引こう。
(1)「アルコール飲みは、この硬直が隠匿する柔らかさを愛するのと同様に、自分を捕える硬直も愛するのである。一方の時期が他方の時期の中にあり、現在がこれほど固くなり硬直するのは、破裂しそうな柔らかな点を占拠するためにほかならない。同時的な二つの時期は、奇妙な仕方で複合される。すなわち、アルコール飲みは、半過去や未来を生きるのではなく、《複合過去》しか持たないのである。ただし極めて特殊な複合過去である。アルコール飲みは、酔いを材料にして、想像的な過去を複合する。まるで、柔らかな過去分詞が、固い助動詞現在形に結合しに来たかのように。私は愛してしまったを-持っている、私は行なってしまったを-持っている、私は見てしまったを-持っている(j’ai-aimé, j’ai-fait, j’ai-vu)。これが、二つの時期の交接を表現し、アルコール飲みが躁的な全-能性を享受しながら一方の時期を他方の時期の《中で》経験するやり方を表現する。ここにおいて、複合過去は隔たりや完遂をまったく表現していない。現在の時期は、動詞・持つの時期であるが、すべての存在者は、『過去』として、《同時的な》別の時期の中に、分有の時期、分詞の固定の時期の中にある。それにしても、この締め付け、現在が別の時期を包囲し占拠し締め付けるこの方式は、ほとんど堪え難い何とも奇妙な緊張である。現在は、柔らかな中心・溶岩・液状ガラス・粘性ガラスの周囲で、円形の水晶や花崗岩になる」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・第22セリー・P.275~276」河出文庫 二〇〇七年)
(2)「さらに別のものになるために、緊張は解けてしまう。というのは、当然にも、複合過去は『私は飲んでしまったを-持っている』に到るからである。現在の時期は、もはやアルコールの効果の時期ではなくなり、アルコールの効果の効果の時期になる。そして、今や、この別の時期が、近い過去(私が飲んでいた時期)を無差別に含んでしまう。また、この近い過去が隠匿する想像的同一化のシステムと、多かれ少なかれ遠ざかった素面の過去のリアルな要素も含んでしまう。それによって、現在の硬化はまったく意味を変える。すなわち、現在は、固い現在としては、影響力を失って色褪せ、何ものも締め付けず、別の時期のすべての相を等しく遠ざける。まるで、近くの過去、しかしまた、近くの過去で構成された同一化の過去、そして最期に、〔その構成の〕材料を提供していた素面の過去、これらすべてが、羽ばたいて逃げ去り、等しくなったかのようである。これらすべての過去との距離を維持しているのが、全般的に拡大する色褪せた現在、増大する砂漠の中で改めて硬直する新たな現在である。複合過去の一次効果は、唯一の複合過去『私は飲んでしまったを-持っている』の二次効果で置き換えられる。この助動詞現在形は、一切の分詞と一切の分有からの無限の距離を表現するだけである。現在の硬化(私は持っている)と、過去(私は飲んでしまった)の逃走の効果には、今や関連性があることになる。であったことを持っている(has been)においてすべては頂点に達する。過去の逃走の効果、あらゆる意味での対象喪失が、アルコリスムの抑鬱的な面を構成する。そして、この逃走の効果が、たぶん、フィッツジェラルドの作品の最大の力になっているものであり、フィッツジェラルドが最も深く表現したものである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・第22セリー・P.276~277」河出文庫 二〇〇七年)
掟(おきて)というものの過酷さは実際に相手を愛しているかいないかなどまるで問題にしない点に顕著である。城の村の女性たちは幼少期を過ぎて意識が明確になるにつれ、「私は愛してしまったを-持っている」ということで<なければならない>状況に包囲されていることに直面せざるを得ない。それをアマーリアは「拒否したを-持っている」バルナバス一家。Kの常識からすればアマーリアの側こそ「正しい」。しかし城に属する村民の常識は違っている。むしろ「正しいか正しくないか」は城の機構が決めることだからである。そしてまた城の機構は一度決めた決定にもかかわらず、もう明日には逆方向へ転倒させているかもしれない。今の日本の裁判機構のようだ。立場の弱い市民層から見て手続上は「最高裁判所」だが、内部でやることなすことは「最低裁判所」だと揶揄してみても今さら始まらない。というのもカフカが「城」で描いたように「柵」はいつも<可動的>だからだ。無いに等しい。けれども「柵」抜きに裁判上の手続きを進めることは原告にとっても被告にとってもできない。
だがしかし<子ども>の系列が城の機構に属する村中をいつもうろちょろしていることを忘れるわけにはいかない。二人の助手がそうだし、小学校生・ハンスもまたそうだ。ハンスはKに向かって理路整然と話をする。時として村長よりも明確に説明する。しかし必要最低限と思われる話をし終えるやたちまち子どもに返ってフリーダや助手たちと他愛ない<ごっこ遊び>に打ち込んでいる。「子供か大人か」ではなく<子ども>の系列があり同時に<おとな>の系列があり、どちらの代表者でもない限りでハンスや二人の助手は両方を往来できる資格を与えられているというべきだろう。この<非定住民>的性格は<娼婦・女中・姉妹>が持つ<非定住民>的性格とはまた別種の非定住民性として考えられなくてはならない。その意味で<子ども>の系列はもっと遥かに遠い射程を持つといえそうだ。
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