Kはフリーダと二人の助手たちとともに村の学校で暮らすことになった。夜はあまりに寒すぎたので助手たちは薪を精一杯焚いて部屋を暖かくした。助手たちは薪をくべることこそ自分たちの使命だと言わんばかりにとことん薪を焚いていく。一度始めると止める様子がない。Kにすれば今度はあまりにも暑くなり過ぎてきた。そこで助手たちを怒鳴りつけてようやく薪を焚くのを止めさせた。そして彼らは眠りについた。翌朝。Kたちが目を覚ました時すでに学校の生徒たちが登校し始めていた。面白そうにKたちの姿を眺めている。というのも寝る前にくべていた薪の熱があまりにも暑かったためKたちは肌着以外何一つ身につけず一つの教室で眠りこけてしまっていたので、それが生徒たちの目には男女入り乱れた雑魚寝に映って見えたからだろう。しかし問題はそこへ女性教師ギーザが出勤してきた時に発した言葉にある。
「翌朝、一同が目をさましたときには、すでに早く来た生徒たちが、いかにもおもしろそうにこの寝床のまわりに立っていた。なんとも具合のわるいことだった。というのは、もちろん朝になったいまではふたたび寒さが感じられるほどになっていたが、夜中は暑すぎたために、みんな肌着以外はぬいでしまっていたからである。そして、ちょうど一同が服を着はじめたとき、女教師のギーザ嬢が教室の入口のところに姿を見せた。ギーザは、ブロンドの髪をし、背が高く、美人であったが、からだの線がいくらか硬(かた)かった。彼女は、あきらかに新来の小使に会う心がまえをし、おそらく男の教師から指図(さしず)を受けてきたらしかった。というのは、敷居のところに立つなり、こう言ったからである。『これは、我慢がなりません。なんとも結構なご世帯ですこと。あなたたちは、教室で眠る許可があたえられているだけです。しかし、わたしには、あなたたちの寝室で授業をしなくてはならない義務はないのですよ。朝おそくまで寝床でごろごろしている小使の一家なんて、前代未聞だわ!』」(カフカ「城・P.216」新潮文庫 一九七一年)
女性教師ギーザは何をいっているだろうか。「教室」と「寝室」とが置き換え可能なことなどもはや言うまでもない前提ではないかといっている。さらに、だからといって生徒たちが登校してくる時間になってまで雑魚寝に等しい振る舞いを見せつけるものではないというのである。生徒たちが登校してくる時間帯である以上、一刻も早く「寝室」を「教室」に変換してほしいし変換すべきであると主張する。当り前だが一つの部屋は唯一の機能を果たすことしかできないわけではまるでない。
ところで今の日本でも阪神・淡路大震災以降ますます、福島で発生した原発事故でよりいっそう明確になったように大地震という非常事態に襲われれば「教室」はすぐさま「寝室」へ変換可能である。会議室も体育館も「寝室」を兼ねた避難所へ変換された。「城」では「教室から寝室・寝室から教室」へ再変換されるが、福島原発事故の場合、いったん激しく汚染された民家等の「寝室」はもう二度と他の用途に再変換される可能性を奪い去られたまま放置・放棄されるに至ったままだが。戦前の資本主義とは違い戦後資本主義は土地化・脱土地化・再土地化される<流れ>が極めてスムーズに行われている限りで始めて資本主義の全運動を何度でも繰り返すことを可能にした。しかし福島では原発事故発生によって、洗練された戦後資本主義の<流れ>には途方もない弱点が内部に組み込まれていることが見る見る間にあかるみに出た。原発安全神話はいつまで経っても《神話》に過ぎない。また福島原発事故以降、当面の間は原発批判が続いていたのは確かなのだが、しばらくして批判熱が冷めてくるのを見計らったかのように今度は風力発電施設が不備で壊れたとか地熱発電には初期費用があまりにもかかり過ぎることとか太陽光発電設置に関するスキャンダルが発覚するたびに日本中のマスコミはこぞって大々的に取り上げ批判する方向へ急傾斜してきた。「風力・地熱・太陽光」<発電>をめぐる設備とその経費に関する批判はたちまち<「風力・地熱・太陽光」発電そのもの>への批判へ移動させられてしまう。その一方、依然として大問題である<原発>批判はなぜか影をひそめ視聴者の死角へ編入される。原発安全《神話》は隙をみていつでも浮上できるように地下へ潜伏したゲリラででもあるのだろうか。そのうちマスコミはだんだん信用を失ってしまった。
そこでネット情報に目を向けてみる。すると情報は溢れかえっているものの、その内容がどこまで信頼できるかという点になるとたちまち根拠に乏しい怪しげなものが横行している光景に出くわす。だからといってマスコミが正確かと問いつめようとすると問いつめるまでもなくそのスポンサーはどれも幾つかの巨大電力会社のお友達ばかりである。これではどのみち電力を使う点で共通しているなら消費者は面白い側、要するにネットに流れるわけであって逆にテレビ離れ・新聞離れが加速するのも仕方ないというほかない。ニーチェはいう。
「人間にとって猿(さる)とは何か。哄笑(こうしょう)の種(たね)、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならぬ。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱でなければならぬ。あなたがたは虫から人間への道をたどってきた。だがあなたがたの内部にはまだ多量の虫がうごめいている。またかつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・ツァラトゥストラの序説・三・P.16」中公文庫 一九七三年)
「教室から寝室・寝室から教室」への変換が可能であり実際にしばしば変換できている限り、世界の諸大国が宣伝しているように人間が宇宙ステーションの側へ移住可能になり次第、地球の側を原発施設と核廃棄物放置場へ変換することも可能ではないだろうか。何を馬鹿なと笑う人々は、ではなぜただちに宇宙開発を中止させないのか。不可解である。幻想的信仰と実証的科学との混在は何も今に始まったことではない。
ところで赤松啓介はいう。
「私が民間信仰型宗教、土俗的教団の調査をして感じたのは、反宗教闘争だの、無神論だのという運動は、まず成功する時代がなかろうということだ。個人的には可能性があっても、すべての人たちに支持される日がくるとは思えない。おそらく地球が絶滅する瞬間まで、われわれは宗教や信仰から離れられないだろう。そうと割り切って考えれば、われわれがどのように宗教や信仰とつき合ってゆくのが、人類にとって幸いであるかという方法論の問題になる。民間信仰型教団や行場で、縁日とか祭礼の終わった後の宴会、つまり直会(なおらい)・慰労宴ということになるが、そこでときに行われる女のはだか踊りとなると、これはとても男の及ぶものではない。なるほど天の岩戸の前で、天のうづめの命でなければ踊れなかった理由がわかる」(赤松啓介「性・差別・民俗・三・土俗信仰と性民俗・二・土俗信仰と性民俗・P.250~251」河出文庫 二〇一七年)
赤松のいう宗教はすぐそばにある。にもかかわらず指摘する人々はあまりに少ない。赤松が「地球が絶滅する瞬間まで、われわれは宗教や信仰から離れられないだろう」という<宗教・信仰>は大小の差こそあれ全国各地で看板を掲げている宗教教団に限った話ではない。そうではなく、ごく身近で瞬時に発生したと思えば半年から数年で様変わりしていく<宗教・信仰>のことだ。そうでなければわざわざ「はだか踊り」というテーマ系に触れる必然性などまるでない。そこまで深刻に食い込んでいる<宗教・信仰>とはどういうものか。「地球が絶滅する瞬間まで」離れることはないと赤松に言わせているほど強固な、根絶しがたい<宗教・信仰>。
例えば例年秋から年末年始にかけて世間を騒がせることになっているスポーツ・イベントがそれだというわけではなく、スポーツ・イベントの中で忽然と出現する<宗教・信仰>がそれに当たる。あまりにも当り前過ぎてそれこそがまぎれもない<宗教・信仰>の起源になるということを忘れさせてしまうほど根深い。一度全国優勝した個人なりチームなり、いずれにしても「次もまた優勝」しなければならない立場へ自覚的に移動したその瞬間、その意識の動きはもはや<宗教・信仰>の領域に入っている。イベントが東京で行われる場合であろうと地方で行われる場合であろうと「次もまた優勝」を目指さねば許されない立場に自分で自分自身を置くや否や発生する<心の動き>を指して<宗教・信仰>というのであって、その意味では他の<宗教・信仰>と一つも違わない。ましてや「次もまた優勝」と意識した途端同時に生じるプレッシャーが上げられるが、そのプレッシャーに「勝つ」とか「負ける」とかの用語を無意識のうちに用いている以上、中東・ロシア・中国・アメリカを始めとして世界中いつでもどこでも起こっている宗教戦争の萌芽は日本の全国各地でも同時多発的にごろごろ転がっているのは間違いない。
実際、次の北京五輪を巡って政治的ボイコットがどうのこうのと騒がしい。それならいっそのこと五輪そのものを永久に止めてしまえば話はまたたく間に手っ取り早く済んでしまう。ところが止めることはできないし考えられもしないと国際社会はいう。では国際社会とはいったいなんなのか。さらに意味不明になってくる。
BGM1
BGM2
BGM3
「翌朝、一同が目をさましたときには、すでに早く来た生徒たちが、いかにもおもしろそうにこの寝床のまわりに立っていた。なんとも具合のわるいことだった。というのは、もちろん朝になったいまではふたたび寒さが感じられるほどになっていたが、夜中は暑すぎたために、みんな肌着以外はぬいでしまっていたからである。そして、ちょうど一同が服を着はじめたとき、女教師のギーザ嬢が教室の入口のところに姿を見せた。ギーザは、ブロンドの髪をし、背が高く、美人であったが、からだの線がいくらか硬(かた)かった。彼女は、あきらかに新来の小使に会う心がまえをし、おそらく男の教師から指図(さしず)を受けてきたらしかった。というのは、敷居のところに立つなり、こう言ったからである。『これは、我慢がなりません。なんとも結構なご世帯ですこと。あなたたちは、教室で眠る許可があたえられているだけです。しかし、わたしには、あなたたちの寝室で授業をしなくてはならない義務はないのですよ。朝おそくまで寝床でごろごろしている小使の一家なんて、前代未聞だわ!』」(カフカ「城・P.216」新潮文庫 一九七一年)
女性教師ギーザは何をいっているだろうか。「教室」と「寝室」とが置き換え可能なことなどもはや言うまでもない前提ではないかといっている。さらに、だからといって生徒たちが登校してくる時間になってまで雑魚寝に等しい振る舞いを見せつけるものではないというのである。生徒たちが登校してくる時間帯である以上、一刻も早く「寝室」を「教室」に変換してほしいし変換すべきであると主張する。当り前だが一つの部屋は唯一の機能を果たすことしかできないわけではまるでない。
ところで今の日本でも阪神・淡路大震災以降ますます、福島で発生した原発事故でよりいっそう明確になったように大地震という非常事態に襲われれば「教室」はすぐさま「寝室」へ変換可能である。会議室も体育館も「寝室」を兼ねた避難所へ変換された。「城」では「教室から寝室・寝室から教室」へ再変換されるが、福島原発事故の場合、いったん激しく汚染された民家等の「寝室」はもう二度と他の用途に再変換される可能性を奪い去られたまま放置・放棄されるに至ったままだが。戦前の資本主義とは違い戦後資本主義は土地化・脱土地化・再土地化される<流れ>が極めてスムーズに行われている限りで始めて資本主義の全運動を何度でも繰り返すことを可能にした。しかし福島では原発事故発生によって、洗練された戦後資本主義の<流れ>には途方もない弱点が内部に組み込まれていることが見る見る間にあかるみに出た。原発安全神話はいつまで経っても《神話》に過ぎない。また福島原発事故以降、当面の間は原発批判が続いていたのは確かなのだが、しばらくして批判熱が冷めてくるのを見計らったかのように今度は風力発電施設が不備で壊れたとか地熱発電には初期費用があまりにもかかり過ぎることとか太陽光発電設置に関するスキャンダルが発覚するたびに日本中のマスコミはこぞって大々的に取り上げ批判する方向へ急傾斜してきた。「風力・地熱・太陽光」<発電>をめぐる設備とその経費に関する批判はたちまち<「風力・地熱・太陽光」発電そのもの>への批判へ移動させられてしまう。その一方、依然として大問題である<原発>批判はなぜか影をひそめ視聴者の死角へ編入される。原発安全《神話》は隙をみていつでも浮上できるように地下へ潜伏したゲリラででもあるのだろうか。そのうちマスコミはだんだん信用を失ってしまった。
そこでネット情報に目を向けてみる。すると情報は溢れかえっているものの、その内容がどこまで信頼できるかという点になるとたちまち根拠に乏しい怪しげなものが横行している光景に出くわす。だからといってマスコミが正確かと問いつめようとすると問いつめるまでもなくそのスポンサーはどれも幾つかの巨大電力会社のお友達ばかりである。これではどのみち電力を使う点で共通しているなら消費者は面白い側、要するにネットに流れるわけであって逆にテレビ離れ・新聞離れが加速するのも仕方ないというほかない。ニーチェはいう。
「人間にとって猿(さる)とは何か。哄笑(こうしょう)の種(たね)、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならぬ。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱でなければならぬ。あなたがたは虫から人間への道をたどってきた。だがあなたがたの内部にはまだ多量の虫がうごめいている。またかつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・ツァラトゥストラの序説・三・P.16」中公文庫 一九七三年)
「教室から寝室・寝室から教室」への変換が可能であり実際にしばしば変換できている限り、世界の諸大国が宣伝しているように人間が宇宙ステーションの側へ移住可能になり次第、地球の側を原発施設と核廃棄物放置場へ変換することも可能ではないだろうか。何を馬鹿なと笑う人々は、ではなぜただちに宇宙開発を中止させないのか。不可解である。幻想的信仰と実証的科学との混在は何も今に始まったことではない。
ところで赤松啓介はいう。
「私が民間信仰型宗教、土俗的教団の調査をして感じたのは、反宗教闘争だの、無神論だのという運動は、まず成功する時代がなかろうということだ。個人的には可能性があっても、すべての人たちに支持される日がくるとは思えない。おそらく地球が絶滅する瞬間まで、われわれは宗教や信仰から離れられないだろう。そうと割り切って考えれば、われわれがどのように宗教や信仰とつき合ってゆくのが、人類にとって幸いであるかという方法論の問題になる。民間信仰型教団や行場で、縁日とか祭礼の終わった後の宴会、つまり直会(なおらい)・慰労宴ということになるが、そこでときに行われる女のはだか踊りとなると、これはとても男の及ぶものではない。なるほど天の岩戸の前で、天のうづめの命でなければ踊れなかった理由がわかる」(赤松啓介「性・差別・民俗・三・土俗信仰と性民俗・二・土俗信仰と性民俗・P.250~251」河出文庫 二〇一七年)
赤松のいう宗教はすぐそばにある。にもかかわらず指摘する人々はあまりに少ない。赤松が「地球が絶滅する瞬間まで、われわれは宗教や信仰から離れられないだろう」という<宗教・信仰>は大小の差こそあれ全国各地で看板を掲げている宗教教団に限った話ではない。そうではなく、ごく身近で瞬時に発生したと思えば半年から数年で様変わりしていく<宗教・信仰>のことだ。そうでなければわざわざ「はだか踊り」というテーマ系に触れる必然性などまるでない。そこまで深刻に食い込んでいる<宗教・信仰>とはどういうものか。「地球が絶滅する瞬間まで」離れることはないと赤松に言わせているほど強固な、根絶しがたい<宗教・信仰>。
例えば例年秋から年末年始にかけて世間を騒がせることになっているスポーツ・イベントがそれだというわけではなく、スポーツ・イベントの中で忽然と出現する<宗教・信仰>がそれに当たる。あまりにも当り前過ぎてそれこそがまぎれもない<宗教・信仰>の起源になるということを忘れさせてしまうほど根深い。一度全国優勝した個人なりチームなり、いずれにしても「次もまた優勝」しなければならない立場へ自覚的に移動したその瞬間、その意識の動きはもはや<宗教・信仰>の領域に入っている。イベントが東京で行われる場合であろうと地方で行われる場合であろうと「次もまた優勝」を目指さねば許されない立場に自分で自分自身を置くや否や発生する<心の動き>を指して<宗教・信仰>というのであって、その意味では他の<宗教・信仰>と一つも違わない。ましてや「次もまた優勝」と意識した途端同時に生じるプレッシャーが上げられるが、そのプレッシャーに「勝つ」とか「負ける」とかの用語を無意識のうちに用いている以上、中東・ロシア・中国・アメリカを始めとして世界中いつでもどこでも起こっている宗教戦争の萌芽は日本の全国各地でも同時多発的にごろごろ転がっているのは間違いない。
実際、次の北京五輪を巡って政治的ボイコットがどうのこうのと騒がしい。それならいっそのこと五輪そのものを永久に止めてしまえば話はまたたく間に手っ取り早く済んでしまう。ところが止めることはできないし考えられもしないと国際社会はいう。では国際社会とはいったいなんなのか。さらに意味不明になってくる。
BGM1
BGM2
BGM3
