白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・債務者としてのバルナバス一家/オルガの家畜化

2022年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
ソルティーニの手紙に対するアマーリアの拒否によって発生したバルナバス一家絶滅の危機。一家の父がやっていた靴職人の仕事との関わりを切断してしまった村民たち。しかしその時はまだ一家と城との良好な繋がりが回復されることになれば以前と同じ境遇に戻されるだろうという希望があった。この希望は一家の中にのみあっただけではなく村中にあった。しかしどこからどう見ても回復の機会はないと見るに立ち至った時、村中が一家に向けて決定的態度を下す。オルガはいう。「つまり、わたしたちをあらゆる集団からしめだしてしまったのです」。

「『人びとはわたしたちが手紙の事件からなんとかして抜けだす力をもっていないことに気づき、非常にだらしがないとおもったのです。よくは知らなかったにせよ、わたしたちの運命の困難さをあの人たちが低く考えていたわけではありません。自分たちだってこの試練をわたしたちよりもりっぱに乗りきることはできなかっただろうということは、百も承知していました。しかし、それだけにいっそう、わたしたちときっぱり縁を切ることが必要だったのです。もしわたしたちがこの運命を首尾よく切りぬけていたら、それ相応にわたしたちを尊敬してくれたでしょうが、わたしたちが切りぬけることができなかったものですから、これまではただかりそめにやっていたことを、こんどは断乎としてやりはじめたのです。つまり、わたしたちをあらゆる集団からしめだしてしまったのです』」(カフカ「城・P.351~352」新潮文庫 一九七一年)

バルナバス一家でさえ回復不可能な事態が発生した。とすれば他の村民の誰も不可能なことに違いない。この際、「きっぱり縁を切ることが必要だ」と村中の人々は考え実行した。だからといってオルガは村民たちを責めようとしない。諦めているわけではなくむしろそういうものだと受け止めている。この絶望性にもかかわらず危機を脱しようとオルガの父はありとあらゆる手段を講じる。しかしどれも徒労に終わる。文庫本で十頁ほどに及ぶ記述は、父の努力がすべて無意味化し、遂に廃人同様の状態に陥るまでの経過について描かれている。城の機構に触れる案件である以上、一度降りかかった火の粉を振り落とすことは絶望的だ。しかし絶望が深ければ深いほどありとあらゆる希望を繋ぎ止め回復させようとする父の努力をまったくの無駄だと口に出して宣告することは誰にもできない。言い換えれば、一家の父がベッドから起きることもままならないようになるまで全力で生きた時期はこの時が最初で最後である。父はただ単なる一人の靴職人として平穏無事に生涯を終えるのではなく、他の村民だと味わうことができそうにない、充実した異例の一時期を送ることができたとも言える。狂信的宗教者でもない限り自ら進んで過労死したり廃人化したりするほど仕事に打ち込む人間はほとんどいない。けれども第一次世界大戦と第二次世界大戦とのあいだの時期、そのような不可解な人間がしばしば出現するようになったことは確かだ。あり余り散乱するそれら増殖するばかりの<力>は第二次世界大戦によってすべてが消費されるまで世界中のあちこちで出現と増殖と再発と再増殖とを繰り返した。

オルガは正攻法ともいえる父の失敗を見て他の方法はないものかと考えた。というより、考えるまでもなく村中のそこらへんにいつでも転がっている方法があった。拒否したアマーリアの態度が「罪」に当たるなら、その逆にアマーリアに代わって姉のオルガが城の役人たちの性奴隷になればいい。アマーリアの拒否が「罪」だというのならその「罪」と等価関係を取り結ぶことができる代償行為も可能なはずだとオルガは思う。ニーチェはいう。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)

アマーリアは「犯罪者」としてすでに債務者の位置に縛りつけられている。この債務は城の機構全体に対する債務であり城の機構全体が債権者の位置を占めている。従ってこう言える。

「犯罪者は何よりもまず『破壊者』であり、これまで関与してきた共同生活のあらゆる財産や快適に関して言えば、《全体に対する》契約や言質の破棄者である。犯罪者は、単に自己のあらかじめ受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。それゆえに彼は、その後は当然これらの財産や便益をことごとく喪失するのみならずーーーむしろ今や《それらの財産がいかに重要なものであったか》を思い知らされる。被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、犯罪者を再び法の保護外の野蛮な追放の状態へ突き戻し、そういう状態からの従来の保護を解く。つまり共同体は犯罪者を除斥するーーーそして今やあらゆる種類の敵意は彼の上に注がれてよいことになる」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・九・P.81~82」岩波文庫 一九四〇年)

そこで村民たちは「わたしたちをあらゆる集団からしめだしてしまった」。全体と部分の関係は前にヘーゲルから引用した。

「《全体》はそれぞれの自立的な存立をもつところの反省した統一である。けれども、このような統一の存立は同様にまた、その統一によって反発される。全体は否定的統一として自己自身への否定的な関係である。そのために、この統一は自己を外化〔疎外〕する。則ち、その統一は自己の《存立》を自己の対立者である多様な直接性、則ち《部分》の中にもつ。《故に全体は部分から成立する》。従って全体は部分を欠いてはあり得ない。その意味で、全体は全体的な相関であり、自立的な全体性である。しかし、またまさに同一の理由で、全体は単に一個の相関者にすぎない。なぜなら、それを全体者たらしめるところのものは、むしろそれの《他者》、則ち部分だからである。つまり全体は、その存立を自己自身の中にもたず、却ってこれをその他者の中にもつのである。同様に、部分もまた全体的な相関である。部分は反省した自立性〔全体〕に《対立する》ところの直接的な自立性であって、全体の中に成立するのではなくて、向自的に〔単独に〕存在する。しかし、それは更にまた、この全体を自己の契機としてもっている。即ち全体が部分の関係を形成する。全体がなければ部分は存在しない」(ヘーゲル「大論理学・第二巻・第二篇・第三章・A全体と部分との相関・P.188」岩波書店 一九六〇年)

ところでオルガは役人たちの言動の特徴についてよく知っている。フリーダの感情の変化についても観察済みだ。そうすると次の文章がオルガから語られるのはもはや必然的である。

「『彼らも、自分の値打ちをよく知っていて、掟(おきて)のもとで出所進退をするお城では、静かに、上品にかまえています。これは、何度も確かめたことですから、まちがいありません。この村へやってきても、従僕たちのあいだにその名残(なご)りがかすかにみとめられることがあります。もっとも、名残りにすぎませんけれども。普通は、お城の掟が村ではあの人たちにとって完全に通用しないとわかっていますから、まったく人が変ったようになります。もはや掟ではなく、飽くことを知らぬ衝動に支配された、乱暴で手に負えない烏合(うごう)の衆になってしまうのです。彼らの破廉恥さかげんは、とどまるところを知りません。村にとってなによりもありがたいことに、あの人たちは、許可がなければ縉紳館から出ていけないのです。けれども、縉紳館では、なんとかして彼らと仲よくやっていこうとしなくてはなりません。フリーダは、それに手を焼きました。それで、従僕たちをおとなしくさせるのにわたしを使えるということは、フリーダにとって願ったり叶(なか)ったりだったわけです。こうして、わたしは、二年以上もまえから、すくなくとも週に二度は従僕たちといっしょに馬小屋で夜をすごします』」(カフカ「城・P.366~367」新潮文庫 一九七一年)

役人たちの性的生贄の機能を演じるようになってから、もう二年以上になるという。しかしなぜ「馬小屋」なのか。そしてまた役人たちの言動はなぜ「飽くことを知らぬ衝動に支配された、乱暴で手に負えない」ものなのか。人間の動物化と動物の人間化というテーマ系が見えてくる。カフカはその傾向について短編小説の手法を用いてどんどん描いている。三箇所ばかり引こう。

(1)「半分は猫、半分は羊という変なやつだ。父からゆずられた。変な具合になりだしたのはゆずり受けてからのことであって、以前は猫というよりもむしろ羊だった。今はちょうど半分半分といったところだ。頭と爪は猫、胴と大きさは羊である。両方の特徴を受けついで、目はたけだけしく光っている。毛なみはしなやかだし、やわらかい。忍び歩きも跳びはねるのもお手のものだ。陽当たりのいい窓辺で寝そべっているときは、背中を丸めてのどを鳴らしているが、野原に出るとしゃにむに駆け出して、つかまえるのに難儀する。強そうな猫と出くわすと逃げだすくせに、おとなしそうな小羊には襲いかかる。月の夜に屋根の庇(ひさし)をのそのそ歩くのが大好きだ。ろくにニャオとも鳴けないし、ネズミには尻ごみする。鶏小屋のそばで辛抱強く待ち伏せしても、首尾よく獲物をしとめたことなど一度もない」(カフカ「雑種」『カフカ短編集・P.46』岩波文庫 一九八七年)

(2)「猫の分と羊の分と、まるで別個の胸さわぎを覚えるらしい。いくらなんでも二匹分は多すぎるーーーかたわらの肘掛椅子にとびのると、私の肩に前足をのせ、耳もとに鼻づらをすりよせてくる。そっと打ち明けている具合であって、実際そのつもりらしく、つづいて私の顔をのぞきこみ、こちらの反応をたしかめようとする」(カフカ「雑種」『カフカ短編集・P.48』岩波文庫 一九八七年)

(3)「大きな尾をもった獣である。何メートルもの狐のような尻尾であって、いちどそいつをつかみたいと思うのだが、どうにもつかめない。獣はいつも動いていて、尻尾をたえず打ち振っている。からだはカンガルーのようだが、顔は平板な、楕円形の人間の顔とそっくり。無表情だが、牙を隠したり剥き出すときに表情があらわれる。ときおりそんな気がするのだが、この獣は私を襲いたいのではなかろうか。そうでなくては、私が尻尾に手をのばすと、どうしてやにわに引き上げたうえ、ふたたびグラッと下げて誘いかけ、ついでまたピンと打ち振ったりするのか、その理由がわからない」(カフカ「獣」『カフカ寓話集・P.66』岩波文庫 一九九八年)

(1)でカフカはそれまでのくっきりした区別が無効になり新しいけれども大変あいまいな区別が出現しつつあることを告げている。絶対的基準の消滅。(3)では<獣性>と<誘惑>とは接近した別々のものではなくもはや重なり合っているという事情があかるみに出される。だが最も関心を引くのは(2)に違いない。外見はなるほど一つに見えてはいてもその人格面は多数であって捉えどころがないと述べている点。ニーチェは次のように言っているが。

「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

人格の多元性、多数性、多様性、ーーー言い方は様々ある。そもそも人間は幾つもの存在形式へ自分で自分自身を変換することができる。その意味で昨日まで盗賊だった一人の人間が翌日からボランティアになることも可能である。嫌味ではなく、ただマスコミが取り上げないから部分的にしか知られていないというだけのことで、実際にそういう人々は結構いる。

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