白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<ヌケミチ>としての<マツリ>・年貢から税金プラスKの悲劇

2022年01月03日 | 日記・エッセイ・コラム
徳川幕藩体制のもとで民衆の女性に与えられていた性の自由。その過酷な内容。さらにそれぞれの村落共同体に設けられた<掟>というものがありそれぞれ異なる。赤松啓介はその特徴を村内完結的な「封鎖型」でありなおかつ「若衆連中の独占的支配・若衆たちの性的要求に絶対に服従しなければならなかった」とする。だが赤松は、多少なりとも濃淡の差異はあれ「そうした厳しい規約はタテマエで、ウラでは抜け道があったと推定するのが事実に近い」と見ており、<ヌケミチ>というのは「年中行事」のことであり、それが持っていた<機能>に注目する。

「下北半島尻屋岬の周辺は、ごく後まで若衆連中の独占的支配が残っていた地域で、十五歳以上の娘や出戻り女、後家は、若衆たちの性的要求に絶対に服従しなければならなかった。娘や女たちが外泊するにも許可が要るし、自村の若衆以外は肌を接する能わずというのだから徹底した封鎖型である。摂丹播の山村でも封鎖型は珍しくないが、さすがに外泊の許可まではいわないし、それだけ封鎖が弱いことも事実であった。親や兄弟などでも娘をかまうことができず、一切を若者たちの自由にまかせ、夜間の屋内立入りも自由にさせねば罰金をとったり、村八分にするというのだから、これほど絶対的権限をもったのは珍らしいだろう。ただ私が興味をもつのは、若衆連中の運用である。ムラの経済状況、人口構成などがわからないのでなんともいえないが、こうした完全封鎖型は男も他のムラから排撃されるから、完全に自村内部だけで性的消費を循環しなければならない。女房も加えてはならまだしも、娘や後家に限るのなら、まず一年もたてば内部から崩壊する。人口比率などの諸元の設定で違うが、総人口二~三百ぐらいなら大差なく、どんなに計算しても夜這いの順廻しは破綻するだろう。尻屋岬の岩屋、尻屋、尻労などのムラは、古くは孤立的でおそらく村内婚に限られたと思われるが、そうして自己完結的儀式でないと困難である。ただし、それではいずれ血族結婚ということになって、これも内部的に破綻するほかあるまい。つまり完全な封鎖型村落は存続できないということで、こうした若衆連中の規約がいつまで守られ、どのようにして崩壊したかが問題である。おそらく、そうした厳しい規約はタテマエで、ウラでは抜け道があったと推定するのが事実に近い。摂丹播地方の封鎖型村落にしても、盆とか祭り、行事などに開放する限定型が多いのはそのためである。平素でも絶対的封鎖というタテマエだが、ムラの娘や女をとったの、とられたのという紛争が多い。それによって村落生活に活気が生じ、一定の役割を果たしていることを見逃してはならぬ」(赤松啓介「性・差別・民俗・三・土俗信仰と性民俗・三・共同体と<性>の伝承・P.291~292」河出文庫 二〇一七年)

なぜ<祭り>なのか。自己完結型血族結婚では村は近いうちに崩壊する。しかし歴史はそうなっていない。なぜ崩壊しなかったのか。<ヌケミチ>が機能したからだ。表向きは盆や正月、様々な様式を持つ祭り。もっとも、表向きの「祭り」ではなく実状に合わせた<マツリ>である。そしてそれが<ヌケミチ>として上手く機能した場合に限り村は存続することができた。

例えば江戸時代、全国各地で何度か「抜け参り」の流行が見られる。どんな理由があって敢えて<ヌケマイリ>したのか。する必要性があったのか。出発地点を江戸とすれば伊勢まではずいぶん距離がある。その間に様々な「宿場」がある。山間部を通れば地図に記されている街道筋のすぐ横道に堂々たる宿屋が忽然と出現する。さらに<オコモリ>可能な寺院の<お堂>が幾つかある。それらが<境界領域>として語られる理由はまさしくそこが日常的社会制度とは別の<ヌケミチ>=非日常的性民俗解放空間として機能していたことによる。そうまでして<オモテ>と<ウラ>とを使い分けねば性行為の自由すらままならなかったところに厳格この上ない徳川幕藩体制のもとでの家父長制の過酷さが見える。ところが徳川幕府を倒して成立した維新政府は民衆に対して新しく開かれた自由な社会制度を与えるかのようなことを盛んに口にしておきながら、その実、今度は大量の民衆女性を近代資本主義「商品経済」のもとへ繋ぎ止めた。女性たちにとって「昔はよかった」どころではまるでない労働力商品として、一方で低賃金重労働に隷属させられ、もう一方で性的搾取対象として商品化される、という過程をたどった。自分たちが古くから守っていた地域それぞれに固有の土着的思想・信仰は「忠君愛国の国家理念に屈服」するという絶対主義的<掟>の「下請け装置」を演じる限りで、今度は近代日本帝国主義発展のために生き生きと生き残っていくよう強引に改変・活用された。「年貢」は「税金」へ名を置き換えた。

「資本主義社会への転換とともに、商品経済の侵入によって村落共同体の崩壊がすすみ、若衆仲間も解体され、国家体制による一元的な大日本聯合青年団へ改組されたというのが、その凡その経過である。これは同時に若衆仲間を中心として、民衆がもっていた自由な性民俗、慣習が、一定の国家目的のために制限され、弾圧されるもとになった。しかし、それは一方においては一夫一婦制を中心とする家父長制家族の維持を指向したが、他方ではそれを崩壊させる売春産業の造出と、その保護をせざるをえない矛盾を発展させ、社会的性民俗と性意識の混乱を惹起している。もともと私たちの性民俗、性意識は極めて自由闊達であり、七つ、八つから具体的な性教育を始め、十三歳にもなれば性交をも指導したのであり、純潔だの、貞操だのという国家目的的倫理観とは相容れないものであった。私たちが忠君愛国の国家理念に屈服し、性意識の自由を失ったとき、また思想・信仰の自由をも失ったのである」(赤松啓介「性・差別・民俗・三・土俗信仰と性民俗・三・共同体と<性>の伝承・P.293」河出文庫 二〇一七年)

荘子はいう。

「齧缺、問乎王倪曰、子知物之所同是乎、曰、吾悪乎知之、子知子之所不知邪、曰、吾悪乎知之、然則物無知邪、曰、吾悪乎知之、雖然嘗試言之、庸詎知吾所謂知之非不知邪、庸詎知吾所謂不知之非知邪、且吾嘗試問乎女、民溼寝則腰疾偏死、鰌然乎哉、木處則惴慄恂懼、猨猴然乎哉、三者孰知正處、民食芻豢、麋鹿食薦、蜈且甘帯、鴟鴉耆鼠、四者孰知正味、猨獺狙以爲雌、麋與鹿交、鰌與魚游、毛嬙麗姫人之所美也、魚見之深入、鳥見之高飛、麋鹿見之決驟、四者孰知天下之正色哉、自我観之、仁義之端・是非之塗、樊然殽亂、吾悪能知其辯

(書き下し)齧缺(げきけつ)、王倪(おうげい)に問いて曰わく、子(し)は物の同じく是(ぜ)とする所を知るかと。吾れ悪(いず)くんぞこれを知らんと。子は子の知らざる所を知るか。曰わく、吾れ悪くんぞこれを知らんと。然らば則ち物は知ること鳴きか。曰わく、吾れ悪くんぞこれを知らん。然りと雖も嘗試(こころ)みにこれを言わん。庸詎(なん)ぞ吾れの謂う所の知の不知に非ざることを知らん。庸詎(なん)ぞ吾れの謂う所の不知の知に非ざることを知らん。且(か)つ吾れ嘗試(こころ)みに女(なんじ)に問わん。民は溼(しつ=湿)に寝(い)ねれば則ち腰疾(ようしつ)して偏死(へんし)するも、鰌(しゅう)は然らんや。木に処(お)れば則ち惴慄恂懼(ずいりつじゅんく)するも、猨猴(えんこう)は然らんや。三者孰(いず)れか正処(せいしょ)を知る。民は芻豢(すうけん)を食らい、麋鹿(びろく)は薦(せん)を食らい、蜈且(しょくしょ)は帯(へび)を甘(うま)しとし、鴟鴉(しあ)は鼠(ねずみ)を耆(この)む。四者孰れか正味を知る。猨(えん)は獺狙(へんそ)以て雌(し)と為(な)し、麋は鹿と交わり、鰌は魚と游ぶ。毛嬙(もうしょう)・麗姫(りき)は人の美とする所なるも、魚はこれを見れば深く入り、鳥はこれを見れば高く飛び、麋鹿はこれを見れば決して驟(はし)る。四者孰(いず)れか天下の正色を知らん。我れよりこれを観れば、仁義の端(たん)・是非の塗(と=途)は、樊然(はんぜん)として殽乱(こうらん)す。吾れ悪くんぞ能く其の弁(べん=別)を知らん。

(現代語訳)齧缺(げきけつ)が〔先生の〕王倪(おうげい)にたずねた、『先生はすべての存在がひとしく善しとして認めるような〔絶対的な価値を持つ〕ものをご存知でしょうか』。〔王倪は〕答えた、『わしに、どうしてそれが分かろうか』。『先生はご自分の分からないところをご存知でしょうか』。『わしに、どうしてそれが分かろう』。『それでは、すべての物は何か分からないのですか』。『わしに、どうしてそれが分かろう。けれども、試(ため)しにそれについて話してみよう。わしが知っていると言ったことが実は分かっていないことであるかも知れないし、わしが知らないと言ったことが実は分かっていることであるかも知れない。ひとつ試しにお前にたずねてみよう。人間は湿地で寝ていると腰の病気になって半身不随で死ぬが、鰌(どじょう)はそうではあるまい。木の上にいるとふるえ上ってこわがるが、猿(さる)はそうではあるまい。この三者のどれが本当の居所を知っていることになるか。また人間は牛や豚などの家畜を食べ、鹿の類は草を食い、むかでは蛇をうまいと思い、鳶(とび)や烏(からす)は鼠(ねずみ)を好む。この四類の中でどれが本当の味を知っていることになるのか。猿(さる)は獺狙(いぬざる)がその雌(めす)として求め、麋(となかい)は鹿と交わり、鰌(どじょう)は魚と遊ぶ。毛嬙(もうしょう)や麗姫(りき)は、人はだれもが美人だと考えるが、魚はそれを見ると水底深くもぐりこみ、鳥はそれを見ると空高く飛び上り、鹿はそれを見ると跳(と)びあがって逃げ出す。この四類の中でどれが世界じゅうの本当の美を知っていることになるのか。わしの目から見ると、〔世間での〕仁義のあり方や善し悪しの道すじは、雑然と混乱している。その区別をわきまえることが、どうしてわしにできようか』」(「荘子(第一冊)・内篇・斉物論篇・第二・九・P.74~77」岩波文庫 一九七一年)

人間を含めどんな動物も立場の違いによって基準は異なる。本来は絶対的基準などありはしない。荘子は広大な土地の上で演じられる様々な王家の盛衰を目の前で見ている。その王家もぐるぐるぐるぐる回転して止まない。固定するということがない。どの王家が本当の王家なのかわからない。無数の王家がある。もりもり盛り上がってはぺしゃんこに崩壊していく。ということは本当の王家などないに等しい。場面は次々と切り換えられていくばかりだ。ゆえに孔子とも老子とも異なる東アジア帝王哲学の巨大な一角を打ち立てることができた。ところが近代資本主義の導入は「北京」という雲の上の塔のようなものを建造させるに立ち至った。民衆の恐怖と憧れの的。だが民衆の中で「北京」の内部について知っている人間がどれほどいたか。村落共同体によりけりで地理的距離は近かったり遠かったり様々だが、聖域的な意味での「北京」というのはごくふつうの民衆にとってあたかも死後の世界よりずっと遠い遥かな彼岸に光り輝き漂う星雲のような曖昧模糊たるものでしかない。

ところでアルトーについて。アルトーはニーチェを越えたかという問い。越えていない。なぜならアルトーは残酷演劇の即興性に未来を賭けたわけだが、デリダに言わせれば、それもまた<汚染されていない純粋な言語>の創設を目指すことになるのは不可避的であり、従って「この形而上学自身がそうである以上に、この形而上学に対して忠実であろうとして」しまうほかなくなるからである。

「私から私を剥奪し、私から遠ざけるもの、私自身に対する私の近接性を壊すものは私を汚すのだ。そのため私は私の固有性=清潔さを失ってしまう。自己に近い主体ーーーおのれがそれであるところの主体ーーーの名前は清潔(プロプル)だが、客体の名前や漂流している作品の名前はおぞましい。私は自分が清潔(プロプル)であるときに固有(プロプル)名をもつ。清潔であるときにだけ、子供は自分の名のもとで西洋社会のなかにーーーまず手始めに学校にーーー入っていくのであり、清潔であるときにだけ、きちんと真に名づけられるのだ。これらの複数の意味作用の統一性は見かけ上は分散して隠されているが、この意味作用の統一性、つまり、自己に絶対的に近接している主体の、汚(けが)れなきこととしての固有=清潔という統一性は、(〔固有の〕が〔近く〕に結びつけられた)哲学のラテン時代以前には生じることはなかった。そして同じ理由から、哲学のラテン時代以前には、狂気を疎外の病とみなす形而上学的規定が熟し始めることもなかった。(言うまでもないことだが、われわれは言語学的現象を原因や症候に仕立てあげているのではない。狂気の概念が、簡単に言えば、固定されるのは、固有=清潔な主体性の形而上学の時代においてでしかないのだ)。アルトーがこの形而上学を《煽動し》、それを《揺さぶる》のは、この形而上学がおのれ自身をあざむくときである。そのとき、この形而上学は、ひとが自分の固有性=清潔さをきれいに捨て去ること(つまり疎外の疎外)を固有性=清潔さという現象の条件に仕立て上げる。これに対してアルトーは依然としてこの形而上学を《必要としている》。アルトーは依然としてこの形而上学の奥底にある価値をくみ取り、一切の分離の前日に固有性=清潔さを絶対的に復元することで、この形而上学自身がそうである以上に、この形而上学に対して忠実であろうとしているのである」(デリダ「吹きこまれ掠め取られる言葉」『エクリチュールと差異・P.368~369』法政大学出版局 二〇一三年)

アルトーが思いも寄らなかった形で逆に従来の形而上学を逆説的に補強してしまう。だからといってアルトーの革新性は何から何まですべて無駄な空転に終わったかといえば必ずしもそうだとは言い難い部分を残す。ともあれアルトーはどこか、部屋の外へ出てしまった「グレーゴル・ザムザ」のように思える。部屋の中で「ひきこもり・自閉症」に陥った「優秀な会社員」グレーゴルはオイディプス三角形型家族制と絶対主義的官僚制とにいきなり揺さぶりをかける大いなるインパクトだった。しかしグレーゴルの態度がインパクトとして十分機能するのはグレーゴル自身が部屋の中へ立てこもっている間に限られる。グレーゴルの死後、ザムザ一家の目の前には平穏無事というよりむしろ、グレーゴルが生きていた時より以上に未知で豊かな社会復帰への課程が押し開かれる。もう少し述べると、カフカ作品では二十一世紀型のリゾーム社会と十九〜二十世紀型のヘーゲル弁証法とが混在している。Kはいつも<被告>としてどこまでも引き延ばされていくばかりの訴訟を演じなければならない立場に陥る。その理由はKはいつも訴訟に勝利するためにヘーゲル弁証法的な方法論を選択するからである。勝利はいつも敗北を招き、敗北はしかし次の勝利を準備する。以下同文。その繰り返し。改めて逃走線を見出すためには第二次世界大戦の後、グローバル資本主義の成立を待たなければならない。だからといってヘーゲル弁証法はまるで無効化したかといえば全然そんな話ではないのである。

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