白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・ノルポワ式

2023年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム

ノルポワが連発して止まないステレオタイプ(紋切型・常套句)を冷笑するシャルリュス。当時の流行語の幾つかを羅列して見せるだけでノルポワが出来上がってしまう。

 

「そういえば想い出すね、昔あなたが、あらわれてはしばらく存続しやがて消えてゆくあの語法を、面白がってメモしておられたことを。『風を撒(ま)くものは嵐を刈りとる』とか、『犬が吠えるのを尻目に隊商は進む』とか、『われによき政策を与えたまえ、さらば汝によき財政を与えん、ですよ、ルイ男爵が言っていたように』とか、『そこに見られるさまざまな徴候を悲観的にとらえるのは大仰だが、しかしまじめに受けとったほうがいい』とか、『プロシア王のために働く』とか(そもそもこれが復活したのは必定でしたな)。ところがその後、いやはや、なんと多くのものが死んでゆくのを見たことか!」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.240~241」岩波文庫 二〇一八年)

 

遥かに以前からノルポワが口にしていたステレオタイプ(紋切型)は次のようなもの。「花咲く乙女たちのかげに」篇でプルーストはすでに暴露しておいた。

 

「たとえば『セント=ジェームズ宮の内閣はいち早く危機を察した』とか、『ポン=ト=シャントルでは衝撃は並たいていのものでなかった。双頭帝国の利己的で巧妙な政策を不安な想いで見守っていた』とか、『モンテトリオ宮から警戒警報が発せられた』とか」(プルースト「失われた時を求めて3・第二篇・一・一・P.89」岩波文庫 二〇一一年)

 

後者でノルポアが連発するステレオタイプは「ノルポワ式」とでもいうべき特徴を持つ。思わず読者の側を赤面させてしまう幼稚な娯楽小説の決まり文句として実にしばしば投げ売りされる「お約束」のモザイク。ちなみにこの「ノルポワ式」はとりわけ第二次世界大戦後、どれもエンターテイメントの世界で盛んに用いられ読者や観客の関心をぐいぐい引っ張っていくための方便として利用されたフレーズのパッチワークばかりの先駆けに等しい。二十世紀のエンターテイメント界の有名どころではクライブ・カッスラーやフレデリック・フォーサイス、あるいは映画「007」シリーズでもう見飽きたという読者を続出させた。しかしシャルリュスに戻っていえば、ノルポワがいつも用いていい気になるちょっとしたワンフレーズにのみ焦点を当てているわけではない。問題はその論理の進め方に見られる鼻持ちならないステレオタイプ丸出しの下品この上ない文体なのだと述べる。

 

「お気づきかな、ノルポワがつねづね、早くも一九一四年から、いかに狡猾な言いまわしで中立諸国へ向けた論説の出だしを書いていたか。ノルポワは最初、たしかにフランスはイタリア(あるいはルーマニアやブルガリアなど)の政策に介入する必要はない、と言明する。中立から脱すべきか否かは、これら列強のみが、完全に独立した見地から、それぞれの国益のみを考慮して決定すべきことである、と言う。ところが、論説の最初の言明(昔なら緒言と呼ばれたもの)はこのように見事に公平無私であるのに、そのつづきは大概ずっと欲得ずくになる。ノルポワは『しかしながら』と言って、要するにこうつづけるのです。『戦闘から実質的利益をひき出しうるのは、ひとえに権利と正義の側に与(くみ)する国民だけとなることは火を見るよりも明らかである。努力を惜しむ政策をとり、連合国のために剣をとって闘おうとしない国民に、何世紀も前から虐げられた同胞の嘆きの声が立ちのぼる領土が報酬として授けられることなど、期待するほうがおかしい』。こうして参戦を奨励する方向へ一歩踏みだしてしまうと、もうノルポワをとどめるものはなにもない。もはや参戦の方針のみならず時期についても、ますます露骨な忠告を与える始末。『たしかに』とノルポワは『よき伝道者』と自称するほど偽善者面をしてこう言う、『参戦すべき適切な時期と形態を決めるのは、もとよりイタリアやルーマニアだけの権利である。とはいえ両国は、いたずらに言を左右にしていては時機を逸するおそれがあることを知らぬわけにはいかない。すでにロシア騎兵の蹄(ひづめ)の音は、追いつめられたゲルマニアを言いあらわしえぬ恐怖で震撼させている。勝利の輝かしい曙光(しょこう)がすでに見えてから助太刀に駆けつける国民が、急げばなお与えられる報酬を授かる権利などなんら有しないことは自明の理であろう、云々』。これじゃあ、まるで劇場で『残り少ないお席はまもなく売り切れます。遅れておいでのお客さまはお急ぎください!』って呼ばわるのとなんら変わらん」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.246~247」岩波文庫 二〇一八年)

 

すべての読者を前にしてノルポワはこう話を進めていく。今の日本でよく使われるマニュアル的現代文へ言い換えてみれば次のような方法。

 

おっしゃるとおり、なるほどAという方法があります。一般的でとてもわかりやすい。理にもかなっていると思います。次にBですが、さきほどお客様のお話で少し出ましたように利点が割とはっきりしていているところは確かですね。一方で多少とも難点が目に付くかなとご指摘される方も同様に少なからずいらっしゃいます。お客様もおっしゃられたようにです。さらにCですが、この方法はコスト面で敬遠される方が多いわけですが、利便性や使い勝手のよさだけでなく長く付き合っていけるものをということでしたらですね、案外将来性は見込めるのではないでしょうか。もっとも、今のところはそれほど広く普及していないですけれど、少しずつですが選択される方が増えてきたとは言えます。駆け足ですがABCそれぞれの方法についてご説明しますとそんなイメージでしょうか。さて、(「しかしながら」)今回わたくしどもがご案内したいと申しますのはこのページをめくっていただくとあるDという方法です。

 

シャルリュスのいう「ノルポワ式」は相手の頭にすでにあるだろう幾つかの方法をかなり当たりのいいソフトタッチかつ親身になって寄り添う演出で早くも承認してしまい、しかしそこで暗黙の「しかしながら」を割り込ませ、実をいえば大事な点はここなのですとばかりに間を置いて見せる。「しかしながら」以前と以後とで、まったく次元の異なる提案が挿入されてくることを相手にほとんど意識させないことが肝心。ところがそんな技術もすでに見え透いているとシャルリュスは「ノルポワ式」ステレオタイプの浅はかさをあざわらう。ノルポワはまあまあ利口な側ではあるものの始めから間違っているというのだ。シャルシュスにすればノルポワが始めから間違わざるを得ない事情について、やや数ページさかのぼってみないといけない。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ78

2023年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月一日(火)。

 

深夜(午前三時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)その他の混合適量。

 

流動食からカリカリへの移行期間は長かった。カリカリだけにしぼってからしばらく経つが、あれよという間にマグロであれチキンであれ、ほかのメーカーのほかの種類のものも同じ速度で食べてくれる。切り換えが速いのかあまり気にしなくなったのかわからないところがある。順調であればと思うばかり。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて499

2023年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は藤野「柚子おぼろ」。二分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、付属のたれを半分入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個を粥と一緒に食する。

 

薬剤の効果が最も高いと思われるのが昨日か今日。そのぶん身体に与えるダメージも大きい。食欲不振と倦怠感とは相変わらずだが少しずつでも食べられるものは食べるよう心がける。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・衰退するヴェルデュラン夫人主催サロン

2023年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム

戦時下のパリにいるシャルリュスは「もはや一介の傍観者にすぎなくなる」。さらに複雑で混み入った事情が次々接続されていく。それはそれとして少なくともこの箇所で言えるのは、すでにシャルリュスは「正真正銘のフランス人ではなくなり、しかもフランスに住んでいる以上、氏はドイツ贔屓にならざるをえなかった」がゆえに、それが戦時中の全体主義的な場の空気にもたらす破壊的効果についてだ。

 

「もはや一介の傍観者にすぎなくなると、正真正銘のフランス人ではなくなり、しかもフランスに住んでいる以上、氏はドイツ贔屓にならざるをえなかったのだ。氏はきわめて明敏な人間であったが、どの国でもいちばん数が多いのは愚か者である。氏がドイツに住んでいたら、愚かにも不当な主義主張を情熱的に擁護する愚かなドイツ人たちに憤慨していたであろうことは間違いない。ところが氏はフランスに住んでいたので、愚かにも正当な主義主張を情熱的に擁護する愚かなフランス人たちにそれと劣らず憤慨したのである。情熱の理屈は、たとえこのうえなく正当な主張に適用された場合でも、情熱に駆られていない人にとっては、けっして反駁できぬたぐいのものではない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.224~225」岩波文庫 二〇一八年)

 

シャルリュスの明敏さは、フランスにいればフランスで最も数多い「愚か者」を見出す。そして十八番の言説をどんどん繰り出し相手を駆逐してしまう。しかしもしドイツにいればどうするか。ドイツにいればいたでドイツで最も数多い「愚か者」を見出す。そして十八番の言説をどんどん繰り出し相手を駆逐してしまうに違いない。シャルリュスはフランスにいてもドイツにいてもいずれにしても全体主義的「情熱に駆られていない人」を演じてはばからない。シャルリュスはフランスかドイツかという問いの立て方とは別のところにいる。シャルリュスはフランスであるだけでなく同時にドイツでもある。

 

逆に「情熱に駆られて」平気なお目出たい人々。例えば国家総動員令のような旗振り役をわざわざ買って出るヴェルデュラン夫人。二人の違いはますます歴然としてくる。

 

ヴェルデュラン夫人が愛国主義を煽り立てれば煽り立てるほど、ヴェルデュラン夫人が主催する社交界から若い男がますます戦場へ消えていく。ヴェルデュラン夫人のサロンにやって来るのは老嬢ばかりで閑古鳥一つ鳴かない。その貧しさは見るに耐えない。

 

一方シャルリュスの側は戦地で男性同性愛者に衣更えした若い男が、いっときの休暇を得てパリへ戻ってくるのを待つだけでいい。そうしてシャルリュスは自分の快楽をむさぼる。ヴェルデュラン夫人主催サロンへ顔を出すのはもはや無益だ。