同時出現する諸記号。
「するとそのとき、第二の前兆が到来し、不揃いなふたつの敷石が私にもたらした前兆を補強し、私が自分の責務を果たすよう促した。じつは召使いが、音を立てまいと細心の注意を払っていたにもかかわらず、皿にスプーンをぶつけてしまったのだ。すると不揃いなタイルが私にもたらしたのと同様のえもいわれぬ幸福感が私を満たした。今度もやはりかなりの暑さの感覚であったが、さきの感覚とはまるで違うものだった。今度の暑さは、煙の匂いが混じるものの、周囲の森のひんやりした匂いに和らげられている。と、私はこんなに心地よい感覚を与えてくれるのは、観察するのも描くのもつまらないと思ったあの一列の木々と同じものだと気づいた。私はなにやら目まいがして、たった今、自分が汽車のなかへ持ちこんだビール瓶の栓を抜きながらその木々の前にいるような気がした。それほど、皿にぶつかったスプーンの音は、私がわれに返る間(ま)もなく、汽車があの木立の前に停まっていたあいだ車輪のどこかを調整していた作業員のハンマーの音だと私に錯覚させたのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.434」岩波文庫 二〇一八年)
三つの出来事。
(1)「私」が「不揃いなふたつの敷石」を踏んだこと。
(2)召使いが「皿にスプーンをぶつけてしまった」音。
(3)「作業員のハンマーの音」。
繋がり一つないにもかかわらず同時出現した三つの出来事。「錯覚させ」ることができるという驚き。時系列はばらばらに解体され空間的広がりも多様である。諸部分をランダムに切り離し取り出し別々のもの同士を瞬時に接続することができるという事情。近代はこの種のばらばらさを表向きだけでも取り繕おうとして同じばらばらさを利用することに懸命になり過ぎ第二次世界大戦の大量殺戮にまで立ち至った多くの歴史でいっぱいだ。
喜んで殺し喜んで死ぬ。軍事動員された「民衆」は無理やり動員されたわけでは必ずしもない。即座の自殺を選ぶわけではなく多くはむしろ率先して戦地へ赴くことで死の本能の直接性を狡猾に回避しわざわざ戦死というもってまわった「迂路」を選んだ。なぜわざわざ「迂路」なのだろう。「迂路」であれば夢中で熱狂できたのだろう。今なお不可解。