白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ96

2023年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月十九日(土)。

 

深夜(午前三時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

誰かが部屋にいないと寝てばかりなのかといえばそうでもない。誰かがいても寝ている。いずれにせよ、構ってやる時間が減ったわけではないのだが一人遊びに慣れてきた。見ているとけっこう熱心。そんなふうにひとり遊びに打ち込めるというのは何ともいい身分のような気がする。


Blog21・遊歩ということ

2023年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

ベンヤミンはいろいろ引用する。辞書からも。

 

「『芸術家や詩人たちが一番仕事に没頭しているのは、彼らが一番仕事が暇そうに見えるときのことが多い』ピエール・ラルース大辞典8、パリ、<一八七二年>」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.189」岩波文庫 二〇二一年)

 

その少し前にルソーから次の箇所。

 

「さて、およそ人間として経験することができるこのうえなく奇怪な境遇にある自分の魂の平常の状態をえがいてみようという計画を立てたわたしは、この企てを実行するための、なによりも簡単で確実な方法は、わたしの孤独な散歩とその間の夢想を、頭を完全に自由にして観念を抵抗も拘束もなしに移り行くままにしているときの夢想を、忠実にしるしてみることだと考えた。そういう孤独と瞑想の時こそ、一日のうちでわたしが完全にわたし自身であり、わたし自身のものであり、心をほかへ向けさせるものもなく、邪魔するものもなく、自然が望んだとおりのわたしであるとほんとうに言うことができる唯一の時なのである」(ルソー「孤独な散歩者の夢想・第二の散歩・P.22」岩波文庫 一九六〇年)

 

並べてみると変わった風景が見えてくる。ルソーは今の消費社会の中ではとても考えられないほど贅沢な時間の過ごし方を知っていたようだ。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて517

2023年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は相模屋「とろける生とうふ」。1カップを椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはナスの糠漬け。

 

(1)タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたナスの漬物を二片取り出す。(2)水洗いして手でよく絞り塩分を落とす。(3)皮を剥く。(4)俎板の上に置き包丁で六等分。十二片に切り分ける。(5)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。(6)温めた粥の下に置き入れて粥の熱で少し温める。今朝は十二個とも完食。

 

朝食時の調子はまあまあ。とはいえその時だけのことで済めばすぐ横になり昼まで寝ている。時間ができれば足首のむくみを取るため自分で揉みほぐしている。なので時間ができてもその作業で時間が消えてしまう。

 

今朝の音楽はシェーンベルク「浄夜」。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・諸記号と全体主義

2023年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

同時出現する諸記号。

 

「するとそのとき、第二の前兆が到来し、不揃いなふたつの敷石が私にもたらした前兆を補強し、私が自分の責務を果たすよう促した。じつは召使いが、音を立てまいと細心の注意を払っていたにもかかわらず、皿にスプーンをぶつけてしまったのだ。すると不揃いなタイルが私にもたらしたのと同様のえもいわれぬ幸福感が私を満たした。今度もやはりかなりの暑さの感覚であったが、さきの感覚とはまるで違うものだった。今度の暑さは、煙の匂いが混じるものの、周囲の森のひんやりした匂いに和らげられている。と、私はこんなに心地よい感覚を与えてくれるのは、観察するのも描くのもつまらないと思ったあの一列の木々と同じものだと気づいた。私はなにやら目まいがして、たった今、自分が汽車のなかへ持ちこんだビール瓶の栓を抜きながらその木々の前にいるような気がした。それほど、皿にぶつかったスプーンの音は、私がわれに返る間(ま)もなく、汽車があの木立の前に停まっていたあいだ車輪のどこかを調整していた作業員のハンマーの音だと私に錯覚させたのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.434」岩波文庫 二〇一八年)

 

三つの出来事。

 

(1)「私」が「不揃いなふたつの敷石」を踏んだこと。

 

(2)召使いが「皿にスプーンをぶつけてしまった」音。

 

(3)「作業員のハンマーの音」。

 

繋がり一つないにもかかわらず同時出現した三つの出来事。「錯覚させ」ることができるという驚き。時系列はばらばらに解体され空間的広がりも多様である。諸部分をランダムに切り離し取り出し別々のもの同士を瞬時に接続することができるという事情。近代はこの種のばらばらさを表向きだけでも取り繕おうとして同じばらばらさを利用することに懸命になり過ぎ第二次世界大戦の大量殺戮にまで立ち至った多くの歴史でいっぱいだ。

 

喜んで殺し喜んで死ぬ。軍事動員された「民衆」は無理やり動員されたわけでは必ずしもない。即座の自殺を選ぶわけではなく多くはむしろ率先して戦地へ赴くことで死の本能の直接性を狡猾に回避しわざわざ戦死というもってまわった「迂路」を選んだ。なぜわざわざ「迂路」なのだろう。「迂路」であれば夢中で熱狂できたのだろう。今なお不可解。