白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ103

2023年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月二十六日(土)。

 

深夜(午前三時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

二冊ともブックカバーが同じ。昨夜、こたつの上に乗せたまま飼い主は寝た。

 

夜中の間に置き換わっていて間違った。気づいたのは電車内で本を取り出しページを開いたとき。犯人はーーー。


Blog21・今夏も守られなかった

2023年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム

今夏も無視されて終わってしまいそうなカントから。

 

「《平和連合》とでも名づけることができる特殊な連合が存在しなければならないが、これは《平和条約》とは別で、両者の区別は、後者がたんに《一つの》戦争の終結をめざすのに対して、前者は《すべての》戦争が永遠に終結するのをめざすことにある、と言えよう」(カント「永遠平和のために・P.42~43」岩波文庫 一九八五年)

 

「たがいに関係しあう諸国家にとって、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには、理性によるかぎり次の方策しかない。すなわち、国家も個々の人間と同じように、その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、そうして一つの(もっともたえず増大しつつある)諸民族合一国家を形成して、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる、という方策しかない。だがかれらは、かれらがもっている国際法の考えにしたがって、この方策をとることをまったく欲しないし、そこで一般命題として正しいことを、具体的な適用面では斥(しりぞ)けるから、《一つの世界共和国》という積極的理念の代わりに(もしすべてが失われてはならないとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する《連合》という《消極的》な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである」(カント「永遠平和のために・P.45」岩波文庫 一九八五年)

 

「地球上の諸民族の間にいったんあまねく行きわたった(広狭さまざまな)共同体は、地上の《一つ》の場所で生じた法の侵害が《すべて》の場所で感じとられるまで発展を遂げたのであるから、世界市民法の理念は、もはや空想的で誇張された法の考え方ではなく、公的な人類法一般のために、したがってまた永遠平和のために、国法や国際法に書かれていない法典を捕足するものとして必要なのであって、ひとびとはこうした条件の下においてのみ、永遠平和にむけてたえず前進しつつあると誇ることができるのである」(カント「永遠平和のために・P.53」岩波文庫 一九八五年)

 

それはそれとして。このところクラッシックばかり聴いているかといえば必ずしもそうではない。数ヶ月ほど上げていなかった音楽を幾つか列挙しておこう。

 

 

 

 

 

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて525

2023年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。1パックの三分の二を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはナスの糠漬け。

 

(1)タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたナスの漬物を二片取り出す。(2)水洗いして手でよく絞り塩分を落とす。(3)皮を剥く。(4)俎板の上に置き包丁で六等分。十二片に切り分ける。(5)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。(6)温めた粥の下に置き入れて粥の熱で少し温める。今朝は十二個とも完食。

 

昨日の夕食のカボチャの煮付けはまあまあ食べられたほうかもしれない。またここ数日を通して母自身で朝食の用意ができている。

 

今朝の音楽はショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲第六番」。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・恣意性の破棄と「印象/感性」へ

2023年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム

「ひとえに印象だけが」と語り手はいう。なぜ「想念」ではなく「印象」なのか。あるいは「象形文字」なのか。

 

「純粋な知性のつくりだすさまざまな想念には、論理的な真実、可能な真実しか存在せず、そうした真実は恣意的に選ばれるにすぎない。われわれが記した文字ではなく、象徴的な文字からなる書物こそ、われわれのただひとつの書物である。われわれのつくりだす想念が論理的に正しいことなどありえないからではなく、その想念が真実であるかどうかはわれわれには判断できないからである。ひとえに印象だけが、たとえその素材がいかにみすぼらしく、その傷痕がいかに捉えにくいものであろうと、真実の指標となり、それゆえ精神によって把握される価値があるのは印象だけである。というのも印象から精神が真実をひき出すことができるなら、印象だけが精神を一段と大きな完成へと導き、精神に純粋な歓びを与えることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.458」岩波文庫 二〇一八年)

 

ゲルマント邸の中庭の敷石にしてもサン・マルコ洗礼堂の不揃いな二枚のタイルにしても、そこから当り前のように思い浮かんでしまう習慣化された「想念」にはためらいを覚えざるをえない。というのは「われわれのつくりだす想念が論理的に正しいことなどありえないからではなく、その想念が真実であるかどうかはわれわれには判断できないからである」。オリジナルかコピーかという問いはもはや失効している。習慣として制度化された無益なことを反復するのは犯罪的ですらあるだろう。

 

ところがゲルマント邸の中庭の敷石にしてもサン・マルコ洗礼堂の不揃いな二枚のタイルにしても「素材」としては「みすぼらし」いし「痕跡」としても「捉えにくい」のは如何とも仕様がないとしてもなお、「印象」として、あるいは「象形文字」としては習慣のステレオタイプの枠組み(社会的コード)へ回収されてしまう前の身体的次元の感性を奪い去られきってはいない。「私」が挑戦しようとするのはこの「印象/感性」をいかに作品へ翻訳するか、できるとすればどんな方法があるのか、その探究へ向かうことだ。