シャルリュスの言説の中には幾つもの鋭い洞察がちりばめられている。例えば「戦争ごっこ論」に夢中になる社交界や世間の人々は、しかし、いったい何を根拠に自説を大げさに語って見せているのだろうか。というよりもむしろその種の人々が口にしたがる戦争に関する数々の判断や断言は果たしてその人自身の思考から生じてきたものなのかと。戦前戦中戦後にわたってころころと立場を置き換えることができるのはそもそも根拠のない表層からの無数の引用が可能だからではないかと。ごてごてと切り貼りしセンスのないパッチワークを演じている限りに過ぎないのではとシャルリュスはいう。
「それでも氏は、ずっと正当な指摘をして話を締めくくった。『不思議なのは』と氏は言った、『そんなふうに戦争にまつわる人間や事物について新聞の報じることによってのみ判断をくだしている世間の人が、自分自身で判断をくだしていると想いこんでいることですな』」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.255」岩波文庫 二〇一八年)
社交界や世間が連発する数々のおしゃべりは、人々が日々せっせと仕入れることを忘れないマス-コミ情報のモザイク以上のものにはなり得ない。新聞しかなかった時代には新聞が提供する情報がその素材。二〇二三年の世界ではマス-コミ、雑誌、インターネットその他の提供をいとも安易に受け止め勝手放題に加工する。しかしそんな人々が何かを人前で断言し自分の立場の輪郭をより一層明確にしようとする際、いつも忘れ去られてしまうのは、その種の作業を通して何か大発見でも成し遂げたかのような無邪気な熱狂のうちに、ともすれば情報の受け手は「自分自身で判断をくだしていると想いこんでいる」勘違いに、実にしばしば陥ってしまって留まるところを知らない。
情報はあらかじめすでに一つの判断/断言である。情報発信者が先に判断/断言した上で流通させるもろもろの素材だけが情報の受け手のもとに届けられる。両者はまるで異なる位置にいる。両者のあいだは切断されていていつも断続的かつ間歇的な関係しか持ちえない。情報の浮上とともに両者は瞬時に出会うことになりはするけれども、この出会いは、いつもすでに出会い損ねという形での繋がりでしかない。
にもかかわらず情報の受け手はどういうわけか「自分自身で判断をくだしていると想いこ」む。無限かつ多層的に打ち重ねられていく様々な情報という形をとった判断/断言の洪水。ただ単にそれら恣意的な情報を受け止めているに過ぎないにもかかわらず何をどうすれば自分自身の判断/断言へすり換え勘違いし思い込むことまでできるのか。シャルシュスはそれを「不思議なのはーーー」と見下ろし腹の中でせせら笑う。