ジュピアンの男娼館の入口で中に入るか入らないか迷っている二人の青年の一方がいう。「要するにどうなってもいいじゃないか」。
「ふたりのうちのひとりはーーーなかなかの美男子だったーーーもうひとりに、ほとんどひっきりなしに、半ば問いただすような半ば説得するような笑みをうかべ、『なに!要するにどうなってもいいじゃないか?』とくり返していた。しかしそんなふうに、要するにどうなってもいいじゃないかといくら言おうとも、その客はそれほどどうなってもいいとは思っていないらしい。というのも、そう言っておきながらいっこうになかへはいる動作をせず、あらためて相手を見やってはさっきと同じ笑みをうかべ、同じように『《要するにどうなってもいいじゃないか》』とくり返すからだ。この《要するにどうなってもいいじゃないか》ということばは、われわれがふだん使っていることば遣いとはまるで違って、動揺のせいで言いたかったことを回避させ、代わりにまるっきりべつのことばを口にさせる、あの数多くの信じられないことば遣いの一例にほかならない。口から出たことばは、考えていることとはなんの関係がないにもかかわらず、だからこそ考えていることを露わにする、この手の多くの表現が棲みついている未知の湖の底から浮かびあがってきたものなのだ」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.335~336」岩波文庫 二〇一八年)
語り手はそれについて一応一つの説明を与える。「《要するにどうなってもいいじゃないか》ということばは、われわれがふだん使っていることば遣いとはまるで違って、動揺のせいで言いたかったことを回避させ、代わりにまるっきりべつのことばを口にさせる、あの数多くの信じられないことば遣いの一例にほかならない」。
ほんの「一例」でしかない。語り手はただそんな単純なことだけを言おうとしているのだろうか。動揺した瞬間、何かまるで別の意味の言葉を発して覆い隠してしまう。覆い隠されたのは、しかし、動揺だけなのだろうか。いつも必ず動揺だと決まっているのだろうか。「考えていることとはなんの関係がないにもかかわらず、だからこそ考えていることを露わにする、この手の多くの表現」とあるように、「考えていること」の次元からしてそもそもわかっていないにもかかわらず。「なんの関係がない」のなら覆い隠されているのは必ずしも動揺だとはまるで限らないというのに。何一つ隠されていないこともあるだろう。むしろ逆に「要するにどうなってもいいじゃないか」ということが「露わに」なると同時か少なくともその後になって何かが隠されていることも「露わに」なる。
「なんの関係がない」ことは「要するにどうなってもいいじゃないか」でなくても必ずしも構わない事情を思いがけず「露わに」してしまう。「要するに」どんな別の言葉へもどんどん置き換えられていく無限の系列を出現させる。隠されているのが精神的「動揺」だというのなら「動揺」という言葉が出現しても全然問題ない。隠されている何かがあるにせよ、ないにせよ、言葉は常に「回避」させる。「まるっきりべつのことば」ばかりがやって来ていつも迂路を経るよう差し向けられるほかない。いつまでも迂路へ迂路へ「回避」する動作が延々引き延ばされていく光景を見ないではいられなくなる。ある一つの言葉にある唯一の意味が対応する世界という事態は消え失せてもはやどこにもない。神の死とともに出現した近代とはそういうことでもある。中心はいつも可変的だ。すり換え可能である。