白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ88

2023年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月十一日(金)。

 

深夜(午前三時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

食欲旺盛。わずかばかりだがエアコンの効いたリビング。わざわざ陽当たりのいい窓辺で寝そべる。しかしコミカルな動きは三ヶ月前に譲り受けた時から依然変わらず。食後の運動に付き合いながら見やっていると何か別の動物に似た動きがしばしば打ち重なって見える。ともすれば途中で自分が猫なのを忘れたかのように見えもする。ケージから出てすぐとか食事のあとすぐとか。

 

何をするべきか忘れているのではと思わせる瞬間がある。しかし動物は人間と同じようには考えない。人間が今何をするべきかというふうに考えているわけではないらしい。動物は動物それぞれで生きている環世界が異なるらしく、それら環世界は人間社会と重なり合いながらも別次元を持っていると言われている。「暇」な時はずいぶん「暇」なようだ。人間はグローバル規模の消費社会の掟に従いながら来る日も来る日もぎゅうぎゅう詰めの息苦しさに振り回され消費社会にもてあそばれ続けている受動的存在だけれども、その光景は猫から見ればかなり滑稽に見えるだろう。言い換えれば「暇」な猫というのはたいそう贅沢な生き方を意味する。興味深い。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて509

2023年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

母の朝食の支度。

午前六時。

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は豆光「にがり絹とうふ」。三分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはナスの煮付けを小さく切り分けたもの。

昨日の夜にレモンゼリーを作って試食。もっとも、すでに母は酸味を受け付けられなくなっているのでレモン以外の何かほかの果物を使わないといけないのだが、とりあえずゼラチンを用いて家でできるゼリーの固さの調節のため。一般的なレシピ通りだと病人の口には固すぎる。改善の余地はいろいろありそう。

食事の支度を終えて自室に戻り音楽を聴く。今朝はベートーヴェン弦楽四重奏曲第十二番。ひさしぶりだ。

参考になれば幸いです。

Blog21・迂路へ「回避」する言葉

2023年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュピアンの男娼館の入口で中に入るか入らないか迷っている二人の青年の一方がいう。「要するにどうなってもいいじゃないか」。

「ふたりのうちのひとりはーーーなかなかの美男子だったーーーもうひとりに、ほとんどひっきりなしに、半ば問いただすような半ば説得するような笑みをうかべ、『なに!要するにどうなってもいいじゃないか?』とくり返していた。しかしそんなふうに、要するにどうなってもいいじゃないかといくら言おうとも、その客はそれほどどうなってもいいとは思っていないらしい。というのも、そう言っておきながらいっこうになかへはいる動作をせず、あらためて相手を見やってはさっきと同じ笑みをうかべ、同じように『《要するにどうなってもいいじゃないか》』とくり返すからだ。この《要するにどうなってもいいじゃないか》ということばは、われわれがふだん使っていることば遣いとはまるで違って、動揺のせいで言いたかったことを回避させ、代わりにまるっきりべつのことばを口にさせる、あの数多くの信じられないことば遣いの一例にほかならない。口から出たことばは、考えていることとはなんの関係がないにもかかわらず、だからこそ考えていることを露わにする、この手の多くの表現が棲みついている未知の湖の底から浮かびあがってきたものなのだ」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.335~336」岩波文庫 二〇一八年)

語り手はそれについて一応一つの説明を与える。「《要するにどうなってもいいじゃないか》ということばは、われわれがふだん使っていることば遣いとはまるで違って、動揺のせいで言いたかったことを回避させ、代わりにまるっきりべつのことばを口にさせる、あの数多くの信じられないことば遣いの一例にほかならない」。

ほんの「一例」でしかない。語り手はただそんな単純なことだけを言おうとしているのだろうか。動揺した瞬間、何かまるで別の意味の言葉を発して覆い隠してしまう。覆い隠されたのは、しかし、動揺だけなのだろうか。いつも必ず動揺だと決まっているのだろうか。「考えていることとはなんの関係がないにもかかわらず、だからこそ考えていることを露わにする、この手の多くの表現」とあるように、「考えていること」の次元からしてそもそもわかっていないにもかかわらず。「なんの関係がない」のなら覆い隠されているのは必ずしも動揺だとはまるで限らないというのに。何一つ隠されていないこともあるだろう。むしろ逆に「要するにどうなってもいいじゃないか」ということが「露わに」なると同時か少なくともその後になって何かが隠されていることも「露わに」なる。

「なんの関係がない」ことは「要するにどうなってもいいじゃないか」でなくても必ずしも構わない事情を思いがけず「露わに」してしまう。「要するに」どんな別の言葉へもどんどん置き換えられていく無限の系列を出現させる。隠されているのが精神的「動揺」だというのなら「動揺」という言葉が出現しても全然問題ない。隠されている何かがあるにせよ、ないにせよ、言葉は常に「回避」させる。「まるっきりべつのことば」ばかりがやって来ていつも迂路を経るよう差し向けられるほかない。いつまでも迂路へ迂路へ「回避」する動作が延々引き延ばされていく光景を見ないではいられなくなる。ある一つの言葉にある唯一の意味が対応する世界という事態は消え失せてもはやどこにもない。神の死とともに出現した近代とはそういうことでもある。中心はいつも可変的だ。すり換え可能である。