白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ104

2023年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月二十七日(日)。

 

深夜(午前三時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

今日の玩具。書店のキャンペーンでもらった栞。

 

正午頃によく遊ぶ。

 

ちなみに黒猫だから全身黒ずくめというわけではなく性器のすぐ上に白い毛が少しばかり伸びて楕円模様を描いている。

 

男の子なので去勢手術を控えているが、その後もなお白模様が残るとすればやや変則的な黒猫ということになるだろう。


Blog21・思考への衝迫

2023年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム

暴力的不意打ちによって始めて人間は思考することへ差し向けられる。ドゥルーズから。

 

(1)「まことに、概念というものは可能性を示しているにすぎないのだ。概念に欠けているのはひとつの爪である。絶対的必然性の爪、すなわち、思考に加えられる根源的暴力という、また奇妙さという、あるいはそれだけが思考をその自然的昏迷とその永遠の可能性とから救い出す敵意という爪であるようなひとつの爪である。これほどの事態であってみれば、思考のなかに強制的に引き起こされた、非意志的な思考〔作用〕よりほかに思考は存在せず、不法侵入によって、偶然から世界のなかに生まれ出るがゆえに、ますます絶対的に必然的であるような思考しか存在しない。思考において始原的であるもの、それは不法侵入であり、暴力であり、それはまた敵であって、何ものも愛知(フィロゾフィー)〔哲学〕を仮定せず、一切は嫌知(ミゾゾフィー)から出発するのだ」(ドゥルーズ「差異と反復・上・第三章・P.371~372」河出文庫 二〇〇七年)

 

(2)「この仕事がわたしたちに当然のごとく予想させるものは、思考するということの衝迫、強迫であり、これは、すべての種類の分岐を経めぐり、神経から出発して、魂におのれを連絡し、こうして思考に到達するものである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・第三章・P.392」河出文庫 二〇〇七年)

 

これらを引用しながら宇野邦一はいう。

 

「アルトーを引用して『思考のイマージュ』を批判したドゥルーズは、その意味で、根本的に反哲学的で、哲学の制度や規制を明らかに逸脱していた。ドゥルーズの思考が、しばしば<詩的、文学的>に見えるとしたら、そのことには深い必然性があった。学問のなかにも、科学技術の認識のなかにも器官的体制が深く浸透して、この体制を支えているのだ。もちろん詩や文学自体もその例外ではない」(宇野邦一「新しいコギト、あるいは非有機的生」『群像・2023・09・P.286~287』講談社 二〇二三年)

 

「哲学の制度や規制」へ問いかけ、「学問のなかにも、科学技術の認識のなかにも」問いかけ、「詩や文学自体もその例外ではない」と述べる。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて526

2023年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。1パックの三分の二を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはナスの糠漬け。

 

(1)タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたナスの漬物を二片取り出す。(2)水洗いして手でよく絞り塩分を落とす。(3)皮を剥く。(4)俎板の上に置き包丁で六等分。十二片に切り分ける。(5)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。(6)温めた粥の下に置き入れて粥の熱で少し温める。今朝は十二個とも完食。

 

なお以前は食べられていたカルシウム入りウエハース。食欲不振のひどさは想像以上で一時はそれさえ食べられなくなっていた。ところが昨日の昼頃に試してみると案外おいしく食べられるくらいには戻っている。抗癌剤を中止したため副作用から回復してきたからかもしれない。

 

だが抗癌剤治療を続けて手術に耐えうる体力が残り、さらに患部摘出手術を行なったとしても胃痛や全身倦怠感が取り除かれるかどうかはわからないという説明をあらかじめ受けていたので、不振とはいえ少なくとも以前の食欲が戻りつつあるのはつじつまが合う気はする。

 

母自身、すでに葬儀の段取りやその後の行政的手続きの日程作成に取りかかっている。

 

今朝の音楽はショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲第七番」。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・過去を保存する「名」

2023年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム

「私」は「この本」(「フランソワ・ル・シャンピ」)を通して「見知らぬ男、それはこの本が私の内部によみがえらせた私自身、つまり当時の少年だった私」と再会する。

 

「しかし現在のようにひとりでいるとき、私はずっと深いところに沈潜していた。このようなときの私には、社交界で知り合ったさる女性がかの幻灯に登場したゲルマント夫人の従姉妹(いとこ)であるという考えは、これまでに読んだ本のなかで最大の傑作というべきさる本が、あの並外れた『フランソワ・ル・シャンピ』と比べてーーー実際にはそれよりずっと優れているのだがーーー優れているとは言わずとも同等であるという考えと同じく、私にはまるで理解不能であった。これはずいぶん昔の印象で、そこには少年時代や家族のやさしい想い出が混じっていて、私はただちにその印象だと認めることができなかった。最初、怒りに駆られた私は、私に辛い想いをさせにやって来たこの見知らぬ男はだれなのかと自問した。この見知らぬ男、それはこの本が私の内部によみがえらせた私自身、つまり当時の少年だった私である。なぜならこの本は、私については当時の少年しか知らないので、すぐさまこの少年を呼び出し、この少年の目でのみ見つめられたい、この少年の心からのみ愛されたい、この少年にのみ語りかけたいと願ったのだ。そんなわけで母がコンブレーで明けがた近くまで朗読してくれたこの本は、私にとってその後の魅力を余すところなく保存していたのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.465~466」岩波文庫 二〇一八年)

 

「私」は現在から一つも動いていない。にもかかわらず遠い昔、「母がコンブレーで明けがた近くまで朗読してくれたこの本は、私にとってその後の魅力を余すところなく保存していた」。

 

「土地の名」あるいは「ゲルマントの名」だけではない。ただ単なる本の名「フランソワ・ル・シャンピ」。「私」にとってそれは現在と過去とを共鳴させるにありあまる。何年後かの日本の現在の姿がまだ見渡せぬ戦後賠償問題と共鳴し合い、今なお解決を見ていないだけでなく今後どれだけ噴出してくるか想像もつかない公害問題と共振しつつあるように。