語り手がジュピアンの男娼館の様子を通して語っている言語活動の多義性。「《こんなところへ》」という言葉が連発される。どんなところへ、なのだろう。
「もっとも社交人士たちは、自分たちの快楽に奉仕してくれるしがないドアマンや工員たちとは違って、この悪所通いをあまり隠そうとはしなかった。そのことは察しのつく多くの理由のほかに、こんな理由を考えれば納得できるはずだ。工員や召使いにとって、この手の場所へ行くのは、堅気と思われている女が娼家へ行くようなものである。そこへ行ったことがあると告白した連中も、けっして二度とは行かなかったと言い張り、ジュピアン自身も、連中の評判に傷をつけないためか競合をさけるためか嘘をつき、こう断言した、『いや、とんでもない、あの人はうちには来ません、《こんなところへ》来たくないのでしょう』。社交人士にとって、ことはさほど重大ではない。《こんなところへ》来ないほかの社交人士たちは、こんなところがどんなところか知らず、こんなところの生活などに関心がないだけに、なおのこと重大ではないのだ。それにひきかえ飛行機製造工場では、《こんなところへ》行く者がいたとしても、それを見張っていた仲間たちは、自分が見つかるのを怖れて金輪際《こんなところへ》行こうとはしないものである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.365」岩波文庫 二〇一八年)
(1)「ドアマン、工員や召使いにとって」の「こんなところへ」
(2)「社交人士にとって」の「こんなところへ」
(3)「ジュピアン」のいう「こんなところへ」
(1)(2)はいずれも小遣い稼ぎのためかあるいは性的志向ゆえ。一方通行的で融通が効かない。(1)は貨幣獲得のため。(2)は快楽追求のため。どちらにしてもあえて融通を効かせる必要がない。
注目したいのは(3)ジュピアンの場合。「いや、とんでもない、あの人はうちには来ません」というのは男娼館を訪れる種々雑多な人々のプライバシー保護のための「嘘」なのだが、すぐさま続ける「《こんなところへ》来たくないのでしょう」とある中の「こんなところへ」という言葉は(1)(2)の場合とは天地の違いで切り離された重層性の打ち立てを瞬時に担う。
一方で「ドアマン、工員や召使いにとって」の「こんなところへ」という一義性がありもう一方で「社交人士にとって」の「こんなところへ」という一義性がある。ジュピアンは一方の一義性ともう一方の一義性とを合体させることで生じる第三項としての「こんなところへ」を採用する。この第三項は第一項と第二項との対立が止揚されて生じるような新しい第三項ではない。その種の重々しさは一つもない。前の二つの層を寄せ集め合体させつつ瞬時に第三の層として重層的な組み換えを果たして消え去りさらなる多層性を描き出していく言語の軽快なパッチワークの無限の系列としてのみ存在する。
若い底辺労働者たちの小遣い稼ぎのための第一項がありパリ有数の社交人士の性的志向を満足させるための第二項があり両者のどちらもを寄せ集め組み換えさせてやる第三項としてジュピアンのいう「こんなところへ」が打ち重なる。貧困に陥った若い底辺労働者たちに救いの手段を開けておくとともに上流社交界人士たちの性的志向の満足を保証するための、いわば「言語的エコノミー」を引き出す詩人の言葉がジュピアンのいう「こんなところへ」なのだ。