もっぱら散文が好みなので短歌や俳句に目を通すことはほとんどないのだがーーー。
誤読について。
穂村弘は二つの短歌を上げ、あるきっかけに出くわすまで誤読していたという。
(1)「ライターもて紫陽花の屍(し)に火を放つ一度も死んだことなききみら(塚本邦雄「綠色研究」)」(穂村弘「現代短歌ノート二冊目」『群像・2023・09・P.628』講談社 二〇二三年)
某イベントの席でこう述べたらしい。
「『枯れてしまった紫陽花は、なんだか燃えやすそうですよね。<私>はその屍にライターで火を放つ。でも、大丈夫。紫陽花は不死身なんです。個体としての『きみ』は滅びても、種としての『きみら』は不滅。その証拠に、今も咲いているでしょう。永遠の紫陽花に対して、<私>は一度死ねばそれっきり』」(穂村弘「現代短歌ノート二冊目」『群像・2023・09・P.628』講談社 二〇二三年)
隣にいた小島ゆかりの表情がたちまち曇るのを察した穂村弘は致命的誤読に気づき、会場ですぐこう訂正する。
「『え、あれ?そうか!ごめんなさい。違いました。この歌、昔からそう読んでいたんですけど、この『きみら』は紫陽花のことじゃなくて、人間の『きみら』のことですね。紫陽花の屍に火を放ったのは<私>だと思い込んでいたけど、たぶん無軌道な若者たちとか、そういう『きみら』ですね。彼らの暴力的な生命力を眩しみつつ、本当は、一度も死んだことがないのは若者たちだけではなく、<私>も、すべての人間も同じこと。そういう含みもある歌でしょうね。ずっと誤解していました』」(穂村弘「現代短歌ノート二冊目」『群像・2023・09・P.628』講談社 二〇二三年)
この「無軌道な若者たちとか、そういう『きみら』」の背後には「戦争で死んだかれら」があるのかもしれないと穂村弘は書いている。
しかし読者としてはそれにもなお違和感をおぼえる。半ばやけくそめいた「無軌道なきみら」の「背後」には「戦争で死んだかれら」があるというのは確かだとしても、両者の間に「背後」関係など始めからなく、戦争で死ぬことができるのならまだしもそれ以前にけっして自殺だけは許されない厳重な管理社会の下で労働へ労働へほいほい投げ込まれていくしかない若者たちが実にしばしば怠惰かつ支離滅裂なニヒリズム感ただよう無軌道へ流れがちなのは一方でごく自然なのではと思うからだ。
(2)「暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた(斎藤史「魚歌」)」(穂村弘「現代短歌ノート二冊目」『群像・2023・09・P.628』講談社 二〇二三年)
穂村弘は最初、どう読むかあまり自信がなかったようだ。差し当たり次の読みを取ることで自分で自分を納得させていたらしい。
「一九三六年の二.二六事件に、史の父である斎藤瀏が連座し、幼馴染みの軍人たちが処刑された。このような時代の激動の中から生まれた女歌の新風として、『暴力のかくうつくしき世』では、対比的に置かれた『子守うた』に、国家的な暴力に加担し得ない女としての<私>の矜持が示されている」(穂村弘「現代短歌ノート二冊目」『群像・2023・09・P.629』講談社 二〇二三年)
「自分の受けた戦後教育の枠組の中では、あり得ない歌」としてそう解釈していたと述べる。戦後教育を受けていようがいまいが、穂村弘の読みはまったく「優等生的」な読みであり従って危険な読みでもあったのだろう。というのはもし仮に戦前戦中教育を受けていれば稀にみる模範的な軍国少年になっていたに違いないからだ。そしてそういう人々は大量にいた。
穂村弘はどこか引っかかりを覚えながら採用していた読みについて、ある時、花山多佳子から指摘を受けたという。
「或る時、歌人の花山多佳子さんと話していて、『その読みは変というか、逆なんじゃないの』との指摘を受けた。『ほむらさんの解釈では<暴力のかくうつくしき世>がアイロニーみたいだけど、作者としてはたぶん、そのまんまの意味で書いてるんじゃないかな』。衝撃を受けた。それはつまり、二.二六事件という男たちの革命の礼賛ということになる。でも、作者のスタンスとしては、当然そうなのかもしれない。私も心の奥ではそのほうが自然だと思っていた」(穂村弘「現代短歌ノート二冊目」『群像・2023・09・P.629』講談社 二〇二三年)
敗戦以前の日本では、憎たらしいほど生々しくうごめく肉体をどうむさぼり尽くすか、まだ何らかの方法が残されていた。二.二六事件がその後軍部に利用されたこととはまた別に、肉体そのものから湧き起こってやまない暴力性を存分に解放させるためのきっかけ、自分で自分の死をわざわざ招き込み急速に早めることがわかっているがゆえにそれに賭ける方法がまだ残されていた。その種の暴力の炸裂へやすらうことさえできる日常。もしアイロニーがあるとすれば、そんな時代はもはや消え失せどこにもないということになるだろう。
(1)(2)いずれにしても誤読に気づかせてくれたのが女性だという点は面白いかもしれない。しかし穂村弘が強調したいように思われるのはもう一つ、「思い込み」の怖さについてである。