白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ89

2023年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月十二日(土)。

 

深夜(午前三時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

食後の運動中、走り方がどこかぎくしゃくして見えるのが気になっていて、もし何かの病気なら考えないといけない。今日は午前午後とも注意深く観察。

 

最初はなるほど猫だとはいえ半分くらい子犬に似ているのかなと思っていた。ところがふと鹿のようにも見える。ジャンプがのびのびとても楽しそう。鹿の走りで思い出したのがインパラの走り。You Tube映像で確かめてみると似ている。三メートルも飛び上がったりしないしツノもないが。しかし大きめのジャンプで着地したその足で急な方向転換が図れる小回りのよさ。その点はネコ科に共通しているようにもおもう。

 

ということは。二代目タマは今のところ子猫であり子犬であり子鹿でありインパラでもある。そういうことなのだろうか。とすれば種を越えてこれからまだまだ多くの系列を描き出していく可能性を秘めているといえるかもしれない。


Blog21・病的憂鬱都市

2023年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム

十九世紀ヨーロッパの大都市は死で充満してもいる。パリはその一つだ。ベンヤミンはボードレールを引用しつつ「都市の冥府的要素」をギリシア悲劇にではなく現代に見る。

 

「彼の詩にうたわれるパリは、沈没した都市、しかも地底に沈んだというよりは、むしろ海底に沈んだ都市である。この都市の冥府的要素がーーー地理学上の地層からいえば、昔は人も住まない荒涼たるセーヌ河の川床であるーーーボードレールの中に痕跡を留めているようである。しかし、ボードレールのこの都市をうたう『死の臭いのする牧歌』において決定的なのは、一つの社会的な基層、現代的な基層である。現代性こそが彼の詩の主アクセントなのである。彼は理想を憂鬱(スプリーン)として寸断する(『憂鬱と理想』)」(ベンヤミン「パサージュ論1・P.45」岩波文庫 二〇二〇年)

 

ずいぶん思いきった一節。

 

「『パリの憂鬱』にはじめ予定されていた題名は『孤独な散歩者』だった。ーーー『悪の華』の場合は『冥府』だった」(ベンヤミン「パサージュ論2・P.100」岩波文庫 二〇二一年)

 

憂鬱と憂愁とでは意味が違うとされている。憂鬱は延々うち続く鬱状態をいうわけだがパリ全体が病的鬱状態に陥っているとボードレールは考えた。たとえば。

 

「<雨月>(プリュヴィオーズ)は、都会の全体に向かって腹を立て、その水甕(みずがめ)からなみなみと、暗黒な冷たさを、隣の墓地の色あおざめた住人たちに注ぎかけ、霧深い場末町(フォーブール)には、死の運命を雨と降らせる」(ボードレール「憂鬱」(スプリーン)『ボードレール全詩集1・P.169』ちくま文庫 一九九八年)

 

「隣の墓地の色あおざめた住人たち」とある。隣は墓地。その隣も墓地。そのまた隣も墓地。墓地で埋め尽くされていて始めて倦怠(アンニュイ)に満ちた大都市を称することができる。馬鹿正直に読み取っているわけでは必ずしもなくすぐ次に「霧深い場末町(フォーブール)には、死の運命を雨と降らせる」とあるのが間違いでないならそう読んで構わないだろうとおもう。衛生環境は最悪。転がったまま放置され蛆だらけになった死体のそばを様々な人/物/貨幣を往還させつつ誰それかまわず押し寄せてくる死を眺めてぼんやりしたり慌ただしく過ぎ去ったりする光景。ボードレールは憎悪以上にそんなパリを愛している。ボードレール以上にそこで暮らす人々はそんなパリを愛している。「猫たち」の中でパリに暮らす高齢者はみんなアンニュイこの上ない猫を体内に蔵して生きていると歌われているように。

 

しかし「孤独な散歩者」というのはただ単なる孤立とは異なる。きわめて逆説的な態度として現れるほかない。

 

「群衆、孤独。活動的で多産な詩人にとって、たがいに等しく、置き換えることの可能な語。己の孤独を賑(にぎ)わせる術(すべ)を知らぬ者は、忙(せわ)しい群衆の中にあって独りでいる術をも知らない。詩人は、思いのままに自分自身でもあり他者でもあることができるという、この比類のない特権を享(う)けている。一個の身体を求めてさまようあれらの霊魂たちと同じように、詩人は、欲する時に、どんな人物の中へでも入ってゆく。彼にとってだけは、すべてが空席なのだ」(「群衆」『ボードレール全詩集2・P.37~38』ちくま文庫 一九九八年)

 

もはや誰もが等しくいつ何にでも置き換え可能。初演がない。再演ばかり気の遠くなるほど延々演じられていく鏡の迷宮が打ち広がっている。至るところ死の世界。ところが二〇二三年になると今の東京がそうであるように衛生環境は衛生的であり過ぎ、誰もが親しみを込めて死を眺めながら立ち止まり思考することのできる世界は、少なくとも先進諸国では、消え失せてひさしい。もっとも、諸手をあげて十九世紀パリと同時代の欧米大都市とを褒め上げることは決してできない。しかし今ではもっと褒められないかもしれない。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて510

2023年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母がキッチンで支度するところを見守る。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は豆光「にがり絹とうふ」。三分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはナスの煮付けを小さく切り分けたもの。

 

短時間作業だからか母一人で済ませる。ようやく副作用の下痢から少しばかり回復してきたかに見えはする。といっても今の抗癌剤治療から方針転換する予定なので余命はあと半年から長くて一年。

 

副作用も様々で末梢神経のしびれや足首のむくみなどいろいろ目につく。むくみは足首と足とほとんど違わないくらいふくれている。

 

聴覚異常も激しい。先日びわこの花火大会があったが家の中とはずいぶん距離があるにもかかわらず音が頭をがんがん打ち付けとてもではないが安心してベッドに横になっていられないほど消耗。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・「美人のフランソワーズ」から「娼婦」への接続

2023年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム

記号が記号を呼び寄せるとはどういうことだろう。「口から出たことばは、考えていることとはなんの関係がない」という事例の二例目。

 

「想い出すのは、あるときアルベルチーヌが素っ裸で私に寄り添っていて、私たちの気づかぬうちにフランソワーズが部屋にはいってきたので、それを私に知らせようとしたアルベルチーヌが思わず『あら、美人のフランソワーズよ』と言ったことである。フランソワーズはもう目がよく見えないし、部屋のなかの私たちよりかなり離れたところを横切っただけなので、おそらくなにも気づかなかったはずだ。ところがアルベルチーヌがこれまで一度も口にしたことのなかった『美人のフランソワーズ』という常ならぬことばがなにゆえ出てきたのかはおのずと明らかで、フランソワーズはそのことばが動揺のあまり行きあたりばったりに出てきたことを感知し、なにも見ずともすべてを悟って、お国の方言なのか『娼婦』(プタナ)という語をつぶやきながら出ていった」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.336」岩波文庫 二〇一八年)

 

フランソワーズの身振りがアルベルチーヌの言葉を呼び寄せ再びフランソワーズの身振りへ瞬時にスキップする系列がある。

 

(1)「私たちの気づかぬうちにフランソワーズが部屋にはいってきた」

 

(2)「それを私に知らせようとしたアルベルチーヌが思わず『あら、美人のフランソワーズよ』と言った」

 

(3)「『美人のフランソワーズ』という常ならぬことば」

 

(4)「『娼婦』(プタナ)という語をつぶやきながら出ていった」

 

さらに「考えていることを露わにする」観点から見るとすればアルベルチーヌの言葉は「動揺のあまり行きあたりばったりに出てきた」ものでアルベルチーヌの内面の「動揺」が動機として考えられはする。ところがアルベルチーヌの死後もなお無数のアルベルチーヌについて長々と述べられてきたように唯一絶対的動機というものはどこにも見あたらない。もし動機の出現を目撃したとしてもそれはすでにてんでばらばらな無限の系列を見せており決して唯一性に収斂しない不可解な分裂の目撃であるほかない。先に語り手が上げた事例を参照すれば、ある種の「動揺」が動機だというのなら「美人のフランソワーズ」ではなく「要するにどうなってもいいじゃないか」でも構わない。

 

そして思うかもしれない。錯乱しているのは語り手だろうかそれとも読者だろうかあるいはアルベルチーヌだろうかまたはすべてだろうかと。


Blog21・誤読と優等生

2023年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム

もっぱら散文が好みなので短歌や俳句に目を通すことはほとんどないのだがーーー。

 

誤読について。

 

穂村弘は二つの短歌を上げ、あるきっかけに出くわすまで誤読していたという。

 

(1)「ライターもて紫陽花の屍(し)に火を放つ一度も死んだことなききみら(塚本邦雄「綠色研究」)」(穂村弘「現代短歌ノート二冊目」『群像・2023・09・P.628』講談社 二〇二三年)

 

某イベントの席でこう述べたらしい。

 

「『枯れてしまった紫陽花は、なんだか燃えやすそうですよね。<私>はその屍にライターで火を放つ。でも、大丈夫。紫陽花は不死身なんです。個体としての『きみ』は滅びても、種としての『きみら』は不滅。その証拠に、今も咲いているでしょう。永遠の紫陽花に対して、<私>は一度死ねばそれっきり』」(穂村弘「現代短歌ノート二冊目」『群像・2023・09・P.628』講談社 二〇二三年)

 

隣にいた小島ゆかりの表情がたちまち曇るのを察した穂村弘は致命的誤読に気づき、会場ですぐこう訂正する。

 

「『え、あれ?そうか!ごめんなさい。違いました。この歌、昔からそう読んでいたんですけど、この『きみら』は紫陽花のことじゃなくて、人間の『きみら』のことですね。紫陽花の屍に火を放ったのは<私>だと思い込んでいたけど、たぶん無軌道な若者たちとか、そういう『きみら』ですね。彼らの暴力的な生命力を眩しみつつ、本当は、一度も死んだことがないのは若者たちだけではなく、<私>も、すべての人間も同じこと。そういう含みもある歌でしょうね。ずっと誤解していました』」(穂村弘「現代短歌ノート二冊目」『群像・2023・09・P.628』講談社 二〇二三年)

 

この「無軌道な若者たちとか、そういう『きみら』」の背後には「戦争で死んだかれら」があるのかもしれないと穂村弘は書いている。

 

しかし読者としてはそれにもなお違和感をおぼえる。半ばやけくそめいた「無軌道なきみら」の「背後」には「戦争で死んだかれら」があるというのは確かだとしても、両者の間に「背後」関係など始めからなく、戦争で死ぬことができるのならまだしもそれ以前にけっして自殺だけは許されない厳重な管理社会の下で労働へ労働へほいほい投げ込まれていくしかない若者たちが実にしばしば怠惰かつ支離滅裂なニヒリズム感ただよう無軌道へ流れがちなのは一方でごく自然なのではと思うからだ。

 

(2)「暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた(斎藤史「魚歌」)」(穂村弘「現代短歌ノート二冊目」『群像・2023・09・P.628』講談社 二〇二三年)

 

穂村弘は最初、どう読むかあまり自信がなかったようだ。差し当たり次の読みを取ることで自分で自分を納得させていたらしい。

 

「一九三六年の二.二六事件に、史の父である斎藤瀏が連座し、幼馴染みの軍人たちが処刑された。このような時代の激動の中から生まれた女歌の新風として、『暴力のかくうつくしき世』では、対比的に置かれた『子守うた』に、国家的な暴力に加担し得ない女としての<私>の矜持が示されている」(穂村弘「現代短歌ノート二冊目」『群像・2023・09・P.629』講談社 二〇二三年)

 

「自分の受けた戦後教育の枠組の中では、あり得ない歌」としてそう解釈していたと述べる。戦後教育を受けていようがいまいが、穂村弘の読みはまったく「優等生的」な読みであり従って危険な読みでもあったのだろう。というのはもし仮に戦前戦中教育を受けていれば稀にみる模範的な軍国少年になっていたに違いないからだ。そしてそういう人々は大量にいた。

 

穂村弘はどこか引っかかりを覚えながら採用していた読みについて、ある時、花山多佳子から指摘を受けたという。

 

「或る時、歌人の花山多佳子さんと話していて、『その読みは変というか、逆なんじゃないの』との指摘を受けた。『ほむらさんの解釈では<暴力のかくうつくしき世>がアイロニーみたいだけど、作者としてはたぶん、そのまんまの意味で書いてるんじゃないかな』。衝撃を受けた。それはつまり、二.二六事件という男たちの革命の礼賛ということになる。でも、作者のスタンスとしては、当然そうなのかもしれない。私も心の奥ではそのほうが自然だと思っていた」(穂村弘「現代短歌ノート二冊目」『群像・2023・09・P.629』講談社 二〇二三年)

 

敗戦以前の日本では、憎たらしいほど生々しくうごめく肉体をどうむさぼり尽くすか、まだ何らかの方法が残されていた。二.二六事件がその後軍部に利用されたこととはまた別に、肉体そのものから湧き起こってやまない暴力性を存分に解放させるためのきっかけ、自分で自分の死をわざわざ招き込み急速に早めることがわかっているがゆえにそれに賭ける方法がまだ残されていた。その種の暴力の炸裂へやすらうことさえできる日常。もしアイロニーがあるとすれば、そんな時代はもはや消え失せどこにもないということになるだろう。

 

(1)(2)いずれにしても誤読に気づかせてくれたのが女性だという点は面白いかもしれない。しかし穂村弘が強調したいように思われるのはもう一つ、「思い込み」の怖さについてである。