白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ85

2023年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月八日(火)。

 

深夜(午前三時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)その他の混合適量。

 

もう一つ呼び名がある。初代タマが子猫の時も用いた。「おチビ」。生き延びていければ「タマ/黒べ」は生涯用いることになるだろう。「おチビ」は子猫時代限り。特権的だがおそろしく一般的な呼び名。

 

動物はそれぞれ環世界を形成していることからして世界(人間含む)はそもそも多層状で複数次元存在すると言われているようだ。一匹の猫が他の動物の環世界を何気なく横ぎるということもあるかもしれない。しょっちゅう横ぎっているかもしれない。ある表層から別の表層へ身軽に移動しときどきアンニュイを決めこんでいるのかもしれない。測りがたい味わいを見せてくれる。


Blog21・探偵の退屈

2023年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム

パサージュの「遊歩者の姿の中には探偵の姿があらかじめ潜んでいる」。

 

「遊歩者の姿の中には探偵の姿があらかじめ潜んでいる。遊歩者にとっては、その自らの行動スタイルが社会的に正当化されることが重要とならざるをえなかった。自分の無関心な様子をうわべだけのものに見せるのが、彼にはきわめて好都合なことであった。実際、そうした無関心さの背後には、何も気づかずにいる犯罪者から目を離さない監視者の張り詰めた注意力が隠されている」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.158~159」岩波文庫 二〇二一年)

 

パサージュは百貨店へ模様替えしさらに百年以上を経てそれはさらにもろもろの断片ばかり寄せ集め組み換えられていくばかりのタブロー状を呈しているかのようだ。マス-コミ、雑誌、ネットなど。さらに「監視者」はもはや「張り詰めた注意力」を要せず退屈を好む。あるいは「監視」の「監視」の「監視」の「監視」のーーーとどこまでも果てしなく続いていく光景を誰もがうすうす知ってはいる。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて506

2023年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。二分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。あらかじめ長さ6センチ程度に切り分けたもの。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個を粥と一緒に食する。

 

早朝から雨が降ったり止んだり。その都度窓を開けて網戸だけにしてみたり窓を閉めてみたりするのは介護する側の役目。換気は母の部屋だけのことではないので介護者は体を動かす。といってもほんのわずか。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・シャルリュス的

2023年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム

戦時中に連呼されがちな大文字のステレオタイプ。「ドイツは、フランスと寸分たがわぬ表現を使うので、まるでフランスの口真似をしているのかと思われるほど」。

 

<生きるために戦う>

 

<われわれはわが国の勇敢な兵士たちの流した血が無駄にならぬよう、あらゆる侵略からわれわれの未来を守ってくれる平和を獲得するまで、執拗かつ残忍な敵と戦う>

 

<われわれの味方でない者はわれわれの敵だ>

 

一度公言してしまうと戦争中に撤回することはほとんど不可能かつ取り返しのつかないスローガンばかり。ところがドイツでもありフランスでもある場に身を置く言説機械シャルリュスの観点からみるとまるで違って見える。ドイツにしてもフランスにしても「多少の文言の違いはあれ」、「ヴィルヘルム皇帝の発言なのか、ポワンカレ氏の発言なのか、わからなくなる」。

 

「『それにしてもドイツは、フランスと寸分たがわぬ表現を使うので、まるでフランスの口真似をしているのかと思われるほどですな。ドイツは<生きるために戦う>なんて、飽きもせず抜かしておる。<われわれはわが国の勇敢な兵士たちの流した血が無駄にならぬよう、あらゆる侵略からわれわれの未来を守ってくれる平和を獲得するまで、執拗かつ残忍な敵と戦う>とか、<われわれの味方でない者はわれわれの敵だ>とかの発言を読むと、それがヴィルヘルム皇帝の発言なのか、ポワンカレ氏の発言なのか、わからなくなる。ふたりとも、多少の文言の違いはあれ、同じことを何度も口にしてきたんだから。正直に申せば、じつはこの場合、皇帝のほうが共和国大統領の真似をしたのだろうと私は踏んでいるがね。フランスは、もし以前のように弱体であったならこれほど戦争を長引かせようとはしなかっただろうし、とりわけドイツは、もし以前と同じほど強国であったならこれほど急いで戦争を終わらせようとはしなかっただろう』」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.284」岩波文庫 二〇一八年)

 

どちらが先に発言しどちらが後に口真似をしたか突き詰めていけばいくほど「わからなくなる」のはどうしてだろう。シャルリュス的なものがそれを語らせる。ドイツでなければフランスでありフランスでなければドイツであるに違いないという単純な二元的対立構造をいつも無効化してしまい、ともすればそそくさと戦争を終わらせてしまう。フランスとドイツとにまたがり両者を貫通したまま語り始めひとしきり語らねば気が済まない。戦争中のどちらの国家にとってもありがたくない超越論的なパロディ化を推し進めて止まない一つの言語系列。