戦時中に連呼されがちな大文字のステレオタイプ。「ドイツは、フランスと寸分たがわぬ表現を使うので、まるでフランスの口真似をしているのかと思われるほど」。
<生きるために戦う>
<われわれはわが国の勇敢な兵士たちの流した血が無駄にならぬよう、あらゆる侵略からわれわれの未来を守ってくれる平和を獲得するまで、執拗かつ残忍な敵と戦う>
<われわれの味方でない者はわれわれの敵だ>
一度公言してしまうと戦争中に撤回することはほとんど不可能かつ取り返しのつかないスローガンばかり。ところがドイツでもありフランスでもある場に身を置く言説機械シャルリュスの観点からみるとまるで違って見える。ドイツにしてもフランスにしても「多少の文言の違いはあれ」、「ヴィルヘルム皇帝の発言なのか、ポワンカレ氏の発言なのか、わからなくなる」。
「『それにしてもドイツは、フランスと寸分たがわぬ表現を使うので、まるでフランスの口真似をしているのかと思われるほどですな。ドイツは<生きるために戦う>なんて、飽きもせず抜かしておる。<われわれはわが国の勇敢な兵士たちの流した血が無駄にならぬよう、あらゆる侵略からわれわれの未来を守ってくれる平和を獲得するまで、執拗かつ残忍な敵と戦う>とか、<われわれの味方でない者はわれわれの敵だ>とかの発言を読むと、それがヴィルヘルム皇帝の発言なのか、ポワンカレ氏の発言なのか、わからなくなる。ふたりとも、多少の文言の違いはあれ、同じことを何度も口にしてきたんだから。正直に申せば、じつはこの場合、皇帝のほうが共和国大統領の真似をしたのだろうと私は踏んでいるがね。フランスは、もし以前のように弱体であったならこれほど戦争を長引かせようとはしなかっただろうし、とりわけドイツは、もし以前と同じほど強国であったならこれほど急いで戦争を終わらせようとはしなかっただろう』」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.284」岩波文庫 二〇一八年)
どちらが先に発言しどちらが後に口真似をしたか突き詰めていけばいくほど「わからなくなる」のはどうしてだろう。シャルリュス的なものがそれを語らせる。ドイツでなければフランスでありフランスでなければドイツであるに違いないという単純な二元的対立構造をいつも無効化してしまい、ともすればそそくさと戦争を終わらせてしまう。フランスとドイツとにまたがり両者を貫通したまま語り始めひとしきり語らねば気が済まない。戦争中のどちらの国家にとってもありがたくない超越論的なパロディ化を推し進めて止まない一つの言語系列。