白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ99

2023年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月二十二日(火)。

 

深夜(午前三時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

買い物から戻り自転車を止める。と、窓のカーテンの端からタマが半分だけ顔を覗かせてこちらをちらちら見ている。外から見るタマの顔立ちは思いのほかまだ子猫。室内ではずいぶん大きく成長し性格も固まってきたように見えるのだが。

 

窓辺からちょこっと顔を覗かせているといかにもけなげで可愛いい子猫のイメージ。しかし部屋の中ではかなりのいたずら者。内と外とで隔たりが激しいのは猫に限った話ではないなあとふと思った。

 

今年もユリが咲く。

 

今年もカエルくん登場。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて520

2023年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は相模屋「とろける生とうふ」。1カップを椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはナスの糠漬け。

 

(1)タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたナスの漬物を二片取り出す。(2)水洗いして手でよく絞り塩分を落とす。(3)皮を剥く。(4)俎板の上に置き包丁で六等分。十二片に切り分ける。(5)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。(6)温めた粥の下に置き入れて粥の熱で少し温める。今朝は十二個とも完食。

 

一昨日の夕食はカラスカレイ、昨日の夕食はエテカレイ。どちらも焼いたもの。ここしばらくは食べてもせいぜい半身だったがようやく小ぶりとはいえ一尾ずつ食べることができた。衰弱の激しかった頃の体重より1キロほど回復。

 

今朝の音楽はショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲第二番」。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・過去が蘇生する

2023年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム

現在において過去が蘇生する、とも言う。「私」がいるゲルマントの館へ過去が侵入する。

 

「バルベックの海辺のダイニングルームは、夕日を迎え入れるために祭壇布のように整えられたダマスク織りのテーブルクロスとともに、堅牢なゲルマントの館を揺るがせ、館のドアを押し破ろうとし、いつの日かパリのさるレストランのテーブルを残らずぐらつかせたように、いっとき私のまわりのソファーを残らずぐらつかせ」る。

 

「水道管の音が今しがた私に感じさせたのは、そもそも過去の感覚の反響であり写しであるというにとどまらず、当の感覚そのものであった。この場合も、これに先立つすべての場合と同じく、共通する感覚はその周囲に昔の場所を再創造しようとしたのにたいして、昔の場所にとって替わられる現在の場所は、ノルマンディー地方の浜辺なり鉄道の線路脇の土手なりがパリの館のなかへ移動してくることに全力を傾けて抵抗した。バルベックの海辺のダイニングルームは、夕日を迎え入れるために祭壇布のように整えられたダマスク織りのテーブルクロスとともに、堅牢なゲルマントの館を揺るがせ、館のドアを押し破ろうとし、いつの日かパリのさるレストランのテーブルを残らずぐらつかせたように、いっとき私のまわりのソファーを残らずぐらつかせた。このような蘇生の際にはいつも、共通の感覚の周囲にあらわれた遠くの場所が、まるでレスラーのように、しばし現在の場所と取っ組みあいをするが、勝利を収めるのはつねに現在の場所であった。ところが私に美しく見えたのは、つねに敗れた場所のほうであった。それがきわめて美しかったので、私はティーカップを前にしたときと同じように不揃いな敷石のうえで陶然とし、あのコンブレーが、あのヴェネツィアが、あのバルベックがあらわれた瞬間のままにそれを維持しようと努め、それが私から消えていったとたん、ふたたびあらわれるよう努めたが、そうした場所は、侵入してきても撃退され、立ちあがっても、やがて新しい場所、とはいえ過去を浸透させる新しい場所のただなかに、私を見捨てるのだった。もしも現在の場所がただちに勝利を収めなかったら、私は意識を失っていただろうと思う。というのもこうした過去の蘇生は、それがつづいているあいだはきわめて全体的なものであるから、われわれの目は、すぐそばにある部屋を見るのをやめて、線路に沿った木々や上げ潮の海を眺めざるをえないばかりか、われわれの鼻孔は、遠くにある場所の空気を吸わざるをえず、われわれの意志は、その遠くの場所が提案するさまざまな計画のどれかを選ばざるをえず、われわれの全身は、その遠くの場所にとり囲まれていると想いこまざるをえず、すくなくともその遠くの場所と現在の場所とのあいだでよろめかざるをえず、その目まいがするほどのためらいは、眠りにはいる際の言うに言われぬ幻影を前にしてときに覚えるためらいとそっくりなのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.446~448」岩波文庫 二〇一八年)

 

「私」は過去が現在に割り込んでくる光景に目まいを覚える。割り込めるということにまず驚く。

 

「過去の蘇生は、それがつづいているあいだはきわめて全体的なものであるから、われわれの目は、すぐそばにある部屋を見るのをやめて、線路に沿った木々や上げ潮の海を眺めざるをえないばかりか、われわれの鼻孔は、遠くにある場所の空気を吸わざるをえず、われわれの意志は、その遠くの場所が提案するさまざまな計画のどれかを選ばざるをえず、われわれの全身は、その遠くの場所にとり囲まれていると想いこまざるをえず、すくなくともその遠くの場所と現在の場所とのあいだでよろめかざるをえ」ない。

 

現在なのか過去なのか。「すくなくともその遠くの場所と現在の場所とのあいだでよろめかざるをえ」ない。言い換えれば、「遠くの場所」と「現在の場所」とを横断しておりどちらがどちらとも決定不能な宙吊り状態を生きていることは確かだ。それは「眠りにはいる際の言うに言われぬ幻影を前にしてときに覚えるためらいとそっくり」でもある。「私」は睡眠しているのだろうかそれとも睡眠していないのだろうかあるいは両者の間の分裂を悦楽しているのだろうか。

 

しかしそもそもこのように三つに分割して考えられるということはどういうことだろう。ひょとして「私」は確固たる一人の人間というより遥かにばらばらな複数性としてしかもはや存在していないのではなかろうか。おそらくそうだ。そうでなければ怖いほど多くの他者と他者の土地とを吸収合併して行かないでは不安でならず、吸収合併した他者と他者の土地とをさらに細かく分割再編することなど到底不可能だからである。

 

そして何年か後、再び現在において過去が蘇生する。どんなおぞましい過去も蘇生の機会をうかがわずにはいられない。歴史というからには。