現在において過去が蘇生する、とも言う。「私」がいるゲルマントの館へ過去が侵入する。
「バルベックの海辺のダイニングルームは、夕日を迎え入れるために祭壇布のように整えられたダマスク織りのテーブルクロスとともに、堅牢なゲルマントの館を揺るがせ、館のドアを押し破ろうとし、いつの日かパリのさるレストランのテーブルを残らずぐらつかせたように、いっとき私のまわりのソファーを残らずぐらつかせ」る。
「水道管の音が今しがた私に感じさせたのは、そもそも過去の感覚の反響であり写しであるというにとどまらず、当の感覚そのものであった。この場合も、これに先立つすべての場合と同じく、共通する感覚はその周囲に昔の場所を再創造しようとしたのにたいして、昔の場所にとって替わられる現在の場所は、ノルマンディー地方の浜辺なり鉄道の線路脇の土手なりがパリの館のなかへ移動してくることに全力を傾けて抵抗した。バルベックの海辺のダイニングルームは、夕日を迎え入れるために祭壇布のように整えられたダマスク織りのテーブルクロスとともに、堅牢なゲルマントの館を揺るがせ、館のドアを押し破ろうとし、いつの日かパリのさるレストランのテーブルを残らずぐらつかせたように、いっとき私のまわりのソファーを残らずぐらつかせた。このような蘇生の際にはいつも、共通の感覚の周囲にあらわれた遠くの場所が、まるでレスラーのように、しばし現在の場所と取っ組みあいをするが、勝利を収めるのはつねに現在の場所であった。ところが私に美しく見えたのは、つねに敗れた場所のほうであった。それがきわめて美しかったので、私はティーカップを前にしたときと同じように不揃いな敷石のうえで陶然とし、あのコンブレーが、あのヴェネツィアが、あのバルベックがあらわれた瞬間のままにそれを維持しようと努め、それが私から消えていったとたん、ふたたびあらわれるよう努めたが、そうした場所は、侵入してきても撃退され、立ちあがっても、やがて新しい場所、とはいえ過去を浸透させる新しい場所のただなかに、私を見捨てるのだった。もしも現在の場所がただちに勝利を収めなかったら、私は意識を失っていただろうと思う。というのもこうした過去の蘇生は、それがつづいているあいだはきわめて全体的なものであるから、われわれの目は、すぐそばにある部屋を見るのをやめて、線路に沿った木々や上げ潮の海を眺めざるをえないばかりか、われわれの鼻孔は、遠くにある場所の空気を吸わざるをえず、われわれの意志は、その遠くの場所が提案するさまざまな計画のどれかを選ばざるをえず、われわれの全身は、その遠くの場所にとり囲まれていると想いこまざるをえず、すくなくともその遠くの場所と現在の場所とのあいだでよろめかざるをえず、その目まいがするほどのためらいは、眠りにはいる際の言うに言われぬ幻影を前にしてときに覚えるためらいとそっくりなのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.446~448」岩波文庫 二〇一八年)
「私」は過去が現在に割り込んでくる光景に目まいを覚える。割り込めるということにまず驚く。
「過去の蘇生は、それがつづいているあいだはきわめて全体的なものであるから、われわれの目は、すぐそばにある部屋を見るのをやめて、線路に沿った木々や上げ潮の海を眺めざるをえないばかりか、われわれの鼻孔は、遠くにある場所の空気を吸わざるをえず、われわれの意志は、その遠くの場所が提案するさまざまな計画のどれかを選ばざるをえず、われわれの全身は、その遠くの場所にとり囲まれていると想いこまざるをえず、すくなくともその遠くの場所と現在の場所とのあいだでよろめかざるをえ」ない。
現在なのか過去なのか。「すくなくともその遠くの場所と現在の場所とのあいだでよろめかざるをえ」ない。言い換えれば、「遠くの場所」と「現在の場所」とを横断しておりどちらがどちらとも決定不能な宙吊り状態を生きていることは確かだ。それは「眠りにはいる際の言うに言われぬ幻影を前にしてときに覚えるためらいとそっくり」でもある。「私」は睡眠しているのだろうかそれとも睡眠していないのだろうかあるいは両者の間の分裂を悦楽しているのだろうか。
しかしそもそもこのように三つに分割して考えられるということはどういうことだろう。ひょとして「私」は確固たる一人の人間というより遥かにばらばらな複数性としてしかもはや存在していないのではなかろうか。おそらくそうだ。そうでなければ怖いほど多くの他者と他者の土地とを吸収合併して行かないでは不安でならず、吸収合併した他者と他者の土地とをさらに細かく分割再編することなど到底不可能だからである。
そして何年か後、再び現在において過去が蘇生する。どんなおぞましい過去も蘇生の機会をうかがわずにはいられない。歴史というからには。