白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・非常事態宣言と愛欲

2023年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

少し後に挿入されるエピソードでシャルリュスとその仲間たち(錚々たる豪華メンバー)理解のための伏線をなす箇所。空襲警報ひびき渡るパリで建前の結婚ではなく欲望に忠実な愛人と遭遇する方法。暗闇がその条件の一つ。

 

「とにかく新たな一元素のようにあらゆるものを浸している暗闇は、ある種の人たちには抗(あらが)いがたい誘惑となり、快楽の第一段階をとりのぞき、ふだんなら多少の時間をかけなければ到達できない愛撫の領域へいきなりはいらせてくれる。実際にものにしようとする対象が女であれ男であれ、たとえ近づきやすい相手であろうと、サロンでなら(すくなくとも真っ昼間なら)えんえんとつづく恋の駆け引きが必要になり、また夜でも(たとえ照明の暗い街路であろうと)、まだ手に入れていない相手をまずは目だけでむさぼり食う前段階があるもので、通行人や求める相手の反応が気にかかって眺めたり話したりする以上のことは憚られるものだ。ところが暗闇では、そんな古くさい演技は捨て去られ、手や唇や身体が真っ先に振る舞うことができる。もし相手にはねつけられても、暗闇でよく見えなかったとか暗闇のせいで人違いをしたとか、言い訳ができる。もし相手が歓迎するようなら、身体をひかずにすり寄ってくる相手の咄嗟の反応から、こちらが無言のまま言い寄る相手の女(あるいは男)が偏見のない悪癖まみれの人間であることがわかり、そうなると、もの欲しげに眺めたり許可を求めたりする必要がなく、じかに果物にかじりつくことのできる歓びは倍増する。そのあいだも暗闇はつづき、この新たな元素に浸りきったジュピアンの館の常連たちは、旅路の果てに海嘯とか日食や月食とかの自然現象に遭遇できたのだと思い、あらかじめお膳立てされた室内の快楽ではなく、未知の世界における偶然の出会いの快楽を味わう気分になり、そばで爆弾が火山の噴火のように轟くなか、ポンペイの悪所さながらのカタコンブの暗闇で秘密の儀式をとりおこなうのだった」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.361~363」岩波文庫 二〇一八年)

 

カタコンブはパリの地下墓地のこと。空襲の際に逃げ込む地下鉄(メトロ)などが適していた。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ91

2023年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月十四日(月)。

 

深夜(午前三時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

あまりの暑さにのたうつような寝苦しい夜。電力高騰のあおりでエアコンを切る日々が続いた七~八月前半。ところがタマはそんな部屋でも平気ですやすやよく眠る。国にとってはありがたくない電気を食わない猫なのかもしれない。

 

もっとも海外へ行くと黒猫は大昔から大変両義的な動物として取り扱われてきた。ラッキーでもありアンラッキーでもある。恐れられ同時に有り難がられたがゆえに象徴と化した。とはいえ妙に象徴化されてしまっても猫自身がよろこぶわけではまるでなく、むしろ身近な人間との楽しい暮らしを積極的に模索しようとする姿は全然ロマン主義に陥ったりしない。極めて受動的で優雅な怠惰をむさぼるに適した環境を手に入れようと働きかける。積極性と受動性とがころころ入れ換わる変幻自在のリアリストに見える。


Blog21・悪魔的微笑

2023年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

ボードレールの笑いについてベンヤミンはいう。

 

「『笑いの本質〔について〕』には悪魔的哄笑の理論が含まれている。ボードレールはこのエッセーで微笑でさえも本来悪魔的なものとみなすに至っている。同時代人たちは、ボードレール自身の笑い方に恐ろしいものがひそんでいると指摘していた」(ベンヤミン「パサージュ論2・P.362」岩波文庫 二〇二一年)

 

次の箇所。

 

「笑いは悪魔的である。ゆえにこれは深く人間的である。これは人間にあって、自らの優越性の観念の帰結である。そして事実、笑いは本質的に人間的なものであるから、本質的に矛盾したものだ、すなわち、笑いは無限な偉大さの徴(しるし)であると同時に無限な悲惨の徴であって、人間が頭で知っている<絶対存在者>との関連においてみれば無限の悲惨、動物たちとの関連においてみれば無限の偉大さということになる。この二つの無限の絶え間ない衝突からこそ、笑いが発する。滑稽というものは、笑いの原動力は、笑う者の裡に存するのであり、笑いの対象の裡にあるのでは断じてない。ころんだ当人が、自分自身のころんだことを笑ったりは決してしない、もっとも、これが哲人である場合、自分をすみやかに二重化し、自らの《自我》の諸現象に局外の傍観者として立ち会う力を、習慣によって身につけた人間である場合は、話は別だが」(ボードレール「笑いの本質について、および一般に造型芸術における滑稽について」『ボードレール批評1・P.227』ちくま学芸文庫 一九九九年)

 

もっともかもしれない。

 

しかしさらにボードレールのいう悪魔的微笑は「哲学者」にのみ限られた特権では全然なく芸術家にも当てはまる。この二十年ばかりでまったく割の合わなくなった職業。とりわけ小説家。

 

自分がその内部に商品として組み込まれていることを常に意識しつつ、半分以上しらけながら、なおかつ真面目に来る日も来る日も何千何万何十万もの書籍と日常生活とに向き合い取り組み続けていかねばならない。半分以上しらけつつ。諦観も無力感も引き受けながら。悪魔的微笑はある意味かくも難しい。しかし職業でなければさほど難しくはない。むしろしょっちゅう可能だ。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて512

2023年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は京禅庵「はんなり湯葉おぼろ」。三分二のを椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはナスの糠漬け。

 

(1)タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたナスの漬物を二片取り出す。(2)水洗いして手でよく絞り塩分を落とす。(3)皮を剥く。(4)俎板の上に置き包丁で六等分。十二片に切り分ける。(5)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。(6)温めた粥の下に置き入れて粥の熱で少し温める。今朝は十二個とも完食。

 

昨日の午後いっぱいをかけて母は両足をゆっくりもみほぐしていた。奇妙に変形した足首のむくみを取るため。やや改善したように見えなくもないがそもそも一日二日でどうなるものでもない。キッチンに立とうとするも無理。見ていられないので代わりにさっさと準備する。

 

食事の支度を済ませ自室へ引き上げ音楽。「ブーレーズ・コンダクツ・ヴェーベルン」(ドイツ・グラモフォン)。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・独仏両棲類の快楽

2023年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

シャルリュスは今なおこれまでの生涯で自分の身体へ取り込み身体を構成してきたあらゆる女性たちの身振りを垣間見せる。

 

「気後れを感じさせるほどの若者たちのハーレムを前にして、男爵は浮き浮きして快活なところを見せていたが、その男爵のうちに私は、ラ・ラスプリエールで出会った夜に印象に残った、あの身体と顔を揺すったりまなざしを細めたりする癖をふたたび見出した。それは男爵が私などの知るよしもない自分の祖母から受け継いだ優雅な科(しな)であり、日常生活ではもっと男性的な表情によって男爵の顔から隠されているが、男爵が身分の低い者たちから気に入られようとするある種の状況では、大貴婦人らしく見せようとする欲望がその科をあだっぽく開花させるのだった」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.339~340」岩波文庫 二〇一八年)

 

ジュピアンの男娼館で「私」が目撃した光景に舞い戻らねばならない。シャルリュスはただ単なる男性同性愛者ではなく、密室で若くて身分の低い男性に鞭打たれることを愛する極端な快楽主義者でもある。

 

「と、不意に、廊下のはずれのひとつだけ離れた部屋から、押し殺したうめき声が聞こえてくるような気がした。そちらへ駆け寄った私は、ドアに耳を押しあてた。『お願いです、お赦しを、お赦しを、ご勘弁を。どうかほどいてください、そんなに強く打たないでください』と言う声が聞こえる、『両方のおみ足に接吻いたします、おっしゃるとおりにいたします、もう二度としません。どうかご勘弁を』。『ならん、極道者め』と、もうひとつの声が答える、『お前がそんなにわめいて這いずりまわるから、ベッドへ縛りつけられるんだ、勘弁ならん』という声のあと、ぴしりとバラ鞭の鳴る音が聞こえてきたが、おそらくその鞭には鋭い鋲(びょう)がついているのだろう、つづいて苦痛の叫びが響いた。そのとき私は、この部屋の横に小さな丸窓があり、そのカーテンが閉め忘れられているのに気づいた。暗がりを忍び足でその丸窓まで近寄った私が目の前に見たのは、岩に縛られたプロメテウスのようにベッドに縛られ、果たせるかな鋲のついたバラ鞭でモーリスに打ちすえられ、すでに血まみれになり、こんな拷問がはじめてではないことを証拠だてる皮下出血の痕に覆われた男、シャルリュス氏だった」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.319~320」岩波文庫 二〇一八年)

 

さらに百ページほどさかのぼる。血が出るほどの鞭打ちを求める欲望はどんな構造的根拠から養分を得ていたか。シャルリュスがドイツ系であり同時にフランスに長く住んでいる大貴族でもあるという二重性がフランス/ドイツいずれの側からの責苦もシャルリュスにとっては快楽へ接続・開花する。例えばフランスがドイツを爆撃する場合は次の通り。

 

「ところが氏の場合、快楽にはある種の残忍な想念がつきもので、当時の私はまだその想念がどれほど強力なものかを知らずにいたが、氏は自分の愛する男をえもいわれぬ拷問刑吏として見ていたのである。かりにドイツ人たちに敵対するとなれば、氏にとってそれは官能の快楽を味わうときにだけ出る振る舞い、つまり、自分の情け深い本性とは正反対の振る舞い、すなわち悪の魅力に惹かれて燃えあがり、美徳あふれる醜いものを踏みにじる振る舞いのような気がしたことだろう」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.229~230」岩波文庫 二〇一八年)

 

ドイツがフランスを爆撃する場合はただ単なる逆ではないだろう。それはおそらく、「超軍国主義の魅力に惹かれて燃えあがり、優雅で愚かなものを踏みにじる振る舞い」、ということでなくては無意味であろう。