不意打ちはいつやってくるかわからないからこそ不意打ちとしての意義を持つ。
例えば「ある感覚ーーーフォークやハンマーの音とか、本の同一のタイトルとかーーーを過去のなかにきらめかせて想像力にその感覚を味わわせると同時に、それを現在のなかにもきらめかせ、音を聞いたり布に触れたりすることによって私の感覚を実際に震わせたことで、想像力の夢に、ふだんは欠けている存在感が付与された」というような場合。
「それは過去の一瞬、というだけのものであろうか?はるかにそれ以上のものかもしれない。むしろ過去にも現在にも共通し、この両者よりもはるかに本質的なものであろう。これまでの人生において、現実があれほど何度も私を失望させたのは、私が現実を知覚したとき、美を享受しうる唯一の器官である私の想像力が、人は不在のものしか想像できないという避けがたい法則ゆえに、現実にたいしては働かなかったからである。ところが突然、自然のすばらしい便法のおかげで、この厳格な法則が無効とされ、停止され、自然がある感覚ーーーフォークやハンマーの音とか、本の同一のタイトルとかーーーを過去のなかにきらめかせて想像力にその感覚を味わわせると同時に、それを現在のなかにもきらめかせ、音を聞いたり布に触れたりすることによって私の感覚を実際に震わせたことで、想像力の夢に、ふだんは欠けている存在感が付与されたのだ。そしてこの巧妙なからくりのおかげで、わが存在は、ふだんはけっして把握されることのできないもの、すなわち純粋状態にある若干の時間をーーーほんの一瞬の持続にすぎないがーーー手に入れ、それだけを切り離し、不動のものにすることができたのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.442~443」岩波文庫 二〇一八年)
ところで現在と過去とが共鳴し合うのはどうしてか。
「わが存在は、ふだんはけっして把握されることのできないもの、すなわち純粋状態にある若干の時間をーーーほんの一瞬の持続にすぎないがーーー手に入れ、それだけを切り離し、不動のものにすることができ」るがゆえにである。
切り離し組み換えることができる。言い換えれば、時系列的にも空間的にも絶対的唯一性は無効化されている。
「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)
無数に継起する愛も無数に相異なる嫉妬も、あっけなく単一のものとして錯覚するというお目出たいステレオタイプ。大勢の人々が事物を単一化しようとすればするほど世界の複数性を駆逐してしまい、世界の複数性が駆逐されればされるほどかえって自分で自分自身の首を絞めることになるという必然性に気づかないお粗末。
ここ二十年以上隆盛を誇り続けている様々なネット記事にしても、いつもお花畑ばかりだったりとか、いつも料理ばかりだったりとか、いつも旅行ばかりだったりとか、いつもネットゲームばかりだったりとか。もっとも、それ自体は何一つ問題ない。だが世間に軍事的な臭いが漂い広がってくるに従って多くの人々は徐々に、お花畑ならお花畑だけ、料理なら料理だけ、旅行なら旅行だけ、ネットゲームならネットゲームだけ、という比較的狭い枠組みに偏りがちになる。この傾向はいずれ料理も旅行もネットゲームも駆逐し、気づけばただ単なる花だけしか許されず、ほかの話題は厳重な監視管理の対象にされるという危険きわまりない全体主義の成立に貢献することになるのはまず間違いない。少なくともその方向へ打ってつけの条件の提供へ意味のすり換えを行うための道具として利用されるだろう。
一方で政治・軍事にかかわる話題を述べることへの恫喝めいたマス-コミの陰湿な動きがある。もう一方で政治・軍事にかかわる話題を述べることへの恫喝めいたマス-コミの動きの陰湿さに巻き込まれまいとして自閉的な趣味にばかり陥りがちなネット利用者の増殖がある。国家はそこに付け込む。
単一性への意志は現実の差異性と切断性とを無視したところで空転する宗教にほかならず、その限りで唯一絶対的物語を作り上げようと妄想にふける権力意志でしかない。近代以後どの国家も多大な犠牲を払ってそれに失敗してきたしむしろ逆のことばかり証明してきた。なおかつ単一民族国家神話を振り回した敗戦国の場合はまだ見渡せぬ戦後賠償問題が不気味に横たわっていて第二次世界大戦終結百周年に向けて足元からにじり寄ってくるけれども、その対応に当たるのは約十五年後政府の中枢にいる人々。対応できうるとすればだが。一方プルースト作品の語り手はしごく穏当な態度で、単一性とか絶対的な基準とか、そんなものは二十世紀初頭すでに一つもないと繰り返すことをやめない。