印象。それを言葉へ「翻訳」しようとするや、「最初の印象から直截に出てくるはずの発言と合致するよう矯正するのは容易ではな」くなる。
さらに二つ。
(1)「愛する相手にわれわれが装う無関心」。
(2)「われわれ自身のつく嘘となんら変わらぬ相手のごく自然な嘘」。
そこでどうするのか。
「心にほんとうに感じたことからかけ離れたこれらすべてのことばを真実へとひき戻すには、われわれ自身がいちばん執着していたものを破壊すること、つまり、われわれが自分自身と差し向かいで、どんな手紙を書いたりどんな手立てを講じたりすべきかと熱に浮かされたように計画を立てつつ熱心に自身と交わしていた対話を破壊するしかない」。
破壊してしまえるということ。なかったことにできるということ。一度捏造したものを今度はなかったことへ捏造する。
「ところで、われわれがたとえば自尊心ゆえに不正確なことばを口にした場合、そうした内心の歪んだ発言を(それは最初の核心的な印象からどんどん離れてゆく)、最初の印象から直截に出てくるはずの発言と合致するよう矯正するのは容易ではなく、われわれは怠慢ゆえにそのような矯正には不満顔をするが、たとえば恋心が原因となる場合のように、同様の矯正が辛いものとなる例はほかにも存在する。愛する相手にわれわれが装う無関心といい、われわれ自身のつく嘘となんら変わらぬ相手のごく自然な嘘にたいする憤慨といい、要するにわれわれが不幸であったり裏切られたりするたびに、愛する相手に向かって言うだけでなく、その相手に会うまでのあいだ自分自身に向かってさえ、ときには自室の静寂を乱すほどの大声でたえず『冗談じゃない、まったく赦しがたい仕打ちだ』とか『最後に一度だけ会いたかったんだ、会えば辛い想いをするとしても』」とか言いつづけたことばといい、心にほんとうに感じたことからかけ離れたこれらすべてのことばを真実へとひき戻すには、われわれ自身がいちばん執着していたものを破壊すること、つまり、われわれが自分自身と差し向かいで、どんな手紙を書いたりどんな手立てを講じたりすべきかと熱に浮かされたように計画を立てつつ熱心に自身と交わしていた対話を破壊するしかない。芸術的な歓びを求めるのは、その歓びが与えてくれる印象のためであるにもかかわらず、われわれはその正体を言いあらわしえないものとして当の印象そのものについてはできるだけ早々に考えないようにし、その印象の楽しみを深く突きつめずとも味わうことができるもの、つまりその楽しみをほかの愛好家にも会って伝えることができると思わせてくれるものに執着する。なぜそうなるかというと、われわれが愛好家たちに話すことは、愛好家にとってもわれわれにとっても同じことがらだからであり、われわれ自身がいだいた印象の個人的根源は抹消されているからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.480~481」岩波文庫 二〇一八年)
印象。「われわれはその正体を言いあらわしえない」。それは不断に推移更新することしかしらない。ゆえに、「われわれは」実にしばしばあらぬことをしでかす。
「その印象の楽しみを深く突きつめずとも味わうことができるもの、つまりその楽しみをほかの愛好家にも会って伝えることができると思わせてくれるものに執着する」。
ただ単なる一般論へ還元して安心する。「もっともらしさ」あるいは「錯覚」への意志。懲りもせず再びステレオタイプ(紋切型)と同一化しようとする。言い換えれば、「われわれ自身がいだいた印象」の「抹消」へ大急ぎで駆け込む。