ただ単なる「刊本」なら世の中にありあまるほどある。ところが「私の意味する初版本(エディション・オリジナル)とは、私がその書物から最初(オリジナル)の印象をえた刊本である」。「フランソワ・ル・シャンピ」の刊本なら世間に溢れかえっているかもしれない。しかしそれが「私」の身体に最初の刻印を刻み与えたものでないなら、その本を「初版本(エディション・オリジナル)」と呼ぶことは決してできない。
「私がしばしば歴史的美点を付与するのは、物としての刊本にたいしてではなく、この『フランソワ・ル・シャンピ』のような書物にたいしてである。つまり、コンブレーの私の小さな部屋で、もしかするとわが生涯で最も甘美でまた最も悲しい夜にはじめて見つめた書物であると同時にーーーその夜、残念なことに私は(それは神秘につつまれたゲルマント家の人たちが私にはとうてい近づきえない存在に思われた時期である)、両親からはじめて諦めをひき出し、その日から私の健康と意志は衰え、困難な責務を放棄する私の気持は日ごとに募るばかりだったーーー、私の昔日のさまざまな思考上の模索ばかりか、私の生涯の目的までが、もしかすると芸術の目的までが突然このうえなく美しい光に照らし出されたこの日、まさにこのゲルマント家の書斎で再発見された書物にたいしてである。もっとも私は、書物の刊本それ自体にも、それが生きた意義を持つのであれば関心をいだくことができただろう。ある書物の初版は、もちろん私にとってもほかの刊本よりも貴重なものになったであろうが、しかし私にとっての初版とは、私がその書物をはじめて読んだ刊本という意味である。私も初版本を探し求めるだろうが、私の意味する初版本(エディション・オリジナル)とは、私がその書物から最初(オリジナル)の印象をえた刊本である。というのもその後の印象は、もはや最初(オリジナル)のものではないからだ」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.471~472」岩波文庫 二〇一八年)
「私」にとって「初演」というものがまだ有効性を持っていた時期。アルベルチーヌとの最初の出会いがそうだ。その後アルベルチーヌは次々と変身を繰り返し無限に引き続く再演の系列として出現した。それに連れて「私」もまた変化した。アルベルチーヌが無限に再演を演じ続けたように「私」も無限に再演を演じ続けた。今となっては生涯で最も豊穣であり同じほど辛く苦い日々の記憶だ。
オリジナルかコピーかという二元的対立がどれほど不毛か。どれほど無益か。有効性を失効してもう何十年を経ているか。最初のバルベック滞在で目にした初演としてのアルベルチーヌはもういない。アルベルチーヌとアンドレとジゼルとの違いがどこにあるのかももはやわからなくなることさえある。彼らは実にしばしば望遠鏡を用いて始めて見ることができる「星雲」のように渾然一体となってしまうからだ。
ところがしかし、むしろそれゆえにアルベルチーヌとの最初の出会いが、ただそれだけが、「初版本(エディション・オリジナル)」との出会いとして唯一無二の輝きを放つ。世に流布している「フランソワ・ル・シャンピ」は数あれど、「私」にとってその「初版本(エディション・オリジナル)」と呼ぶに値するのはただ一つ、子供時代の「私」に母が読んできかせてくれた「あの<フランソワ・ル・シャンピ>」のみであり、その限りで、あの遠い過去の記憶はいついかなる時にでも現在と共鳴しつつ不意に立ち現われる。
例えば現在進行形の「ウクライナ戦争」。マス-コミ(特にテレビ)がそれを取り上げる瞬間、読者視聴者は反射的に「太平洋戦争」、「朝鮮戦争」、「ベトナム戦争」、「パレスチナ問題」、「バルカン空爆」などの記憶と共鳴し始める。オリジナルかコピーかという二元的対立があまりにも不毛で空虚に思える理由の一つは、このように過去の記憶の無限の系列が延々引き延ばされていくことを横目に、常に効果的演出を心がける軍事行動を通して何億何兆もの戦争依存経済が自動的かつ時事刻々と延長更新させられていくことにもある。人々はますます鬱状態を悪化させるかそうでなければますます躁状態を悪化させていくばかりだ。
ひるがえって政治/軍事とは直接関係のない話題ばかり立て続けにマス-コミ(特にテレビ)が取り上げるとしよう。その瞬間、読者視聴者はなぜ今日は政治/軍事とは直接関係のない話題ばかりなのかと不信に陥ると同時に、国内の「地域間南北問題」、「少子高齢化問題」、「安定的就労ならびにメンタルヘルス問題」など様々な懸案事項に襲いかかられずにはいられない。