白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ106

2023年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月二十九日(火)。

 

深夜(午前三時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

二十七日(日)の大掃除の折、消えた玩具が思いも寄らぬところから幾つか出てきた。すべて玩具置き場に集め直した。今日のタマはかつて遊んだ玩具を見つけて取っ替え引っ替え大いに一人遊びを満喫。

 

ヤマキ「白だし」のキャップ。

 

ミステリ本の帯。

シリンジ。

シリンジはしっかり管理していたつもり。が、二代目タマを迎えてしばらくした頃なぜか数が合わなくなっていた。治療薬投与に用いるものなので三度も使えば新品に変える。なのでもう、てっきり捨てたと思っていた。

 


Blog21(ささやかな読書)・「池の中の」/「ハンチバック」

2023年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は少し時間をつくって読書。

 

井戸川射子「池の中の」(『群像・2023・09・P.146~153』講談社 二〇二三年)

 

短編。

 

しかし芥川賞受賞作「この世の喜びよ」より好ましく読めた。なぜだろう。

 

市川沙央「ハンチバック」(『文藝春秋・2023・09・P.224~260』文藝春秋 二〇二三年)

 

第百六十九回芥川賞受賞作。

 

読み手に向けて露悪的あるいは挑発的という前評判があちこちに流通しているため、ひとまずそれらを忘れることから始めなくてはならない。

 

読者としては、ともすれば安易な露悪/挑発と受け取られることの「ない」書き込みができるスペースがあれば、その部分をこそもっと見たい気がした。一方、矢継ぎ早に繰り出される露悪的あるいは挑発的な箇所について、もっと盛り込むか盛り込まないかという量的な課題は別として、もしこの方向を取るとすれば、露悪的かつ挑発的レベルにおける倫理的一貫性とでも言うべきものを持たせて欲しいと思う。例えばジュネ「泥棒日記」に世俗的「善」は一つもないが、ジュネ自身にしか成し得ない倫理的一貫性ならどこを見てもすぐに見つかるように。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて528

2023年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。1パックの三分の二を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはナスの糠漬け。

 

(1)タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたナスの漬物を二片取り出す。(2)水洗いして手でよく絞り塩分を落とす。(3)皮を剥く。(4)俎板の上に置き包丁で六等分。十二片に切り分ける。(5)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。(6)温めた粥の下に置き入れて粥の熱で少し温める。今朝は十二個とも完食。

 

昨日の夕食はエテカレイの焼いたの。小ぶりだが一尾丸ごと食べることができた。カレイなら煮付けでも焼き物でもまあまあ食べられるようだ。もっとレパートリーも増やしたいと思うけれども本人の体が受け付けないのではどうしようもない。

 

また「にがり充てん」豆腐について、二日前、ただ単に柔らかいだけでなく「つるん」とした感触がいいと漏らしている。これまでひたすら摂取することにのみ専念してきた食事だが、その「味わい」について感じることができたのはささやかではあるものの収穫だといえるだろう。

 

今朝の音楽はショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲第九番」。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・現在が延々呼び出しつづける諸問題

2023年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

ただ単なる「刊本」なら世の中にありあまるほどある。ところが「私の意味する初版本(エディション・オリジナル)とは、私がその書物から最初(オリジナル)の印象をえた刊本である」。「フランソワ・ル・シャンピ」の刊本なら世間に溢れかえっているかもしれない。しかしそれが「私」の身体に最初の刻印を刻み与えたものでないなら、その本を「初版本(エディション・オリジナル)」と呼ぶことは決してできない。

 

「私がしばしば歴史的美点を付与するのは、物としての刊本にたいしてではなく、この『フランソワ・ル・シャンピ』のような書物にたいしてである。つまり、コンブレーの私の小さな部屋で、もしかするとわが生涯で最も甘美でまた最も悲しい夜にはじめて見つめた書物であると同時にーーーその夜、残念なことに私は(それは神秘につつまれたゲルマント家の人たちが私にはとうてい近づきえない存在に思われた時期である)、両親からはじめて諦めをひき出し、その日から私の健康と意志は衰え、困難な責務を放棄する私の気持は日ごとに募るばかりだったーーー、私の昔日のさまざまな思考上の模索ばかりか、私の生涯の目的までが、もしかすると芸術の目的までが突然このうえなく美しい光に照らし出されたこの日、まさにこのゲルマント家の書斎で再発見された書物にたいしてである。もっとも私は、書物の刊本それ自体にも、それが生きた意義を持つのであれば関心をいだくことができただろう。ある書物の初版は、もちろん私にとってもほかの刊本よりも貴重なものになったであろうが、しかし私にとっての初版とは、私がその書物をはじめて読んだ刊本という意味である。私も初版本を探し求めるだろうが、私の意味する初版本(エディション・オリジナル)とは、私がその書物から最初(オリジナル)の印象をえた刊本である。というのもその後の印象は、もはや最初(オリジナル)のものではないからだ」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.471~472」岩波文庫 二〇一八年)

 

「私」にとって「初演」というものがまだ有効性を持っていた時期。アルベルチーヌとの最初の出会いがそうだ。その後アルベルチーヌは次々と変身を繰り返し無限に引き続く再演の系列として出現した。それに連れて「私」もまた変化した。アルベルチーヌが無限に再演を演じ続けたように「私」も無限に再演を演じ続けた。今となっては生涯で最も豊穣であり同じほど辛く苦い日々の記憶だ。

 

オリジナルかコピーかという二元的対立がどれほど不毛か。どれほど無益か。有効性を失効してもう何十年を経ているか。最初のバルベック滞在で目にした初演としてのアルベルチーヌはもういない。アルベルチーヌとアンドレとジゼルとの違いがどこにあるのかももはやわからなくなることさえある。彼らは実にしばしば望遠鏡を用いて始めて見ることができる「星雲」のように渾然一体となってしまうからだ。

 

ところがしかし、むしろそれゆえにアルベルチーヌとの最初の出会いが、ただそれだけが、「初版本(エディション・オリジナル)」との出会いとして唯一無二の輝きを放つ。世に流布している「フランソワ・ル・シャンピ」は数あれど、「私」にとってその「初版本(エディション・オリジナル)」と呼ぶに値するのはただ一つ、子供時代の「私」に母が読んできかせてくれた「あの<フランソワ・ル・シャンピ>」のみであり、その限りで、あの遠い過去の記憶はいついかなる時にでも現在と共鳴しつつ不意に立ち現われる。

 

例えば現在進行形の「ウクライナ戦争」。マス-コミ(特にテレビ)がそれを取り上げる瞬間、読者視聴者は反射的に「太平洋戦争」、「朝鮮戦争」、「ベトナム戦争」、「パレスチナ問題」、「バルカン空爆」などの記憶と共鳴し始める。オリジナルかコピーかという二元的対立があまりにも不毛で空虚に思える理由の一つは、このように過去の記憶の無限の系列が延々引き延ばされていくことを横目に、常に効果的演出を心がける軍事行動を通して何億何兆もの戦争依存経済が自動的かつ時事刻々と延長更新させられていくことにもある。人々はますます鬱状態を悪化させるかそうでなければますます躁状態を悪化させていくばかりだ。

 

ひるがえって政治/軍事とは直接関係のない話題ばかり立て続けにマス-コミ(特にテレビ)が取り上げるとしよう。その瞬間、読者視聴者はなぜ今日は政治/軍事とは直接関係のない話題ばかりなのかと不信に陥ると同時に、国内の「地域間南北問題」、「少子高齢化問題」、「安定的就労ならびにメンタルヘルス問題」など様々な懸案事項に襲いかかられずにはいられない。