白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ83

2023年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月六日(日)。

 

深夜(午前三時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)その他の混合適量。

 

夕食後静かなのでどこにいるのかと思えばすぐ手前の椅子のクッションでちゅぱちゅぱしている。二代目タマはこれが長い。四十分くらい続けていることもある。初代タマは生後二ヶ月でちゅぱちゅぱがほとんどなく目に付いた時はもう成猫でふみふみに変わっていた。いつまで続くかわからないがいずれ変わるだろう。

 

それからタマという呼びかけには尻尾ですぐ反応するようになってくれたので今度はもう一つ、「黒べ」、で応えることができるかどうか始めてみようとおもう。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて504

2023年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は豆光「にがり絹とうふ」。三分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはナスの漬物。あらかじめ長さ6センチ程度に切り分けたもの。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個を粥と一緒に食する。

 

入院以前からあった食欲不振と全身倦怠感に加えて抗癌剤治療開始に伴う幾つかの副作用が打ち重なり疲弊が激しい。声の張りは消えた。トイレまで何メートルかなら立って歩けるとはいえもし歩けなくなればその時点で寝たきりになるわけでそんな資金は当然ない。もしあったとしても、母の場合、それを使い切るまで使う必要はない。何年か前すでに相続や死後の手続きは決めてあるので緩和ケアへ話を進めたいようだ。

 

しばしば言われていることだが癌治療は医学/食料品/介護福祉/スポーツ・趣味など多岐にわたる業界がグローバルなネットワークで繋がれた巨大産業を形成していて、それに関わるすべての従事者が癌治療に依存しつつ食べている。だがもしそれに代わりうる巨大産業が準備できたとして、少なくとも今と同水準の雇用形態・消費形態を維持できることが可能になり、癌治療のさらなる特効薬が出現してきてもよさそうだと見込みがつけば、現時点での癌治療はすみやかに姿を変えていくのだろうとおもうけれども。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・ブリショの利用価値

2023年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム

社交界で成り上がったヴェルデュラン夫人にとってもはやブリショは利用価値がない。衒学趣味に満ちたブリショの無意味で退屈な文章につき合うのは沽券に関わる。だがヴェルデュラン夫人ほどには成り上がっていないほかのサロンではブリショの利用価値を求めて招待する。

 

「フォーブール・サン=ジェルマンの人士は、ヴェルデュラン夫人に叱責され、最初は夫人邸でブリショをあざ笑ったが、ひとたび小派閥を出ると相変わらずブリショを賞賛しつづけた。やがてブリショを嘲笑することが、かつて賞賛することがそうであったように流行となり、その文章を読んでいた時期にはブリショを密かに賛美していた婦人でさえ、仲間といっしょになったとたん、ほかの婦人たちほど利口ではないと思われぬように、賛美するのをやめてあざ笑った。この時期ほどブリショの話題が小派閥を席巻したことはなかったが、それは愚弄の対象とされただけである。ブリショの文章をどう評価するかということが新入りの聡明さを測る指標とされ、新入りが最初にヘマな答えをすると、人びとはなにをもって人が聡明とされるかを教えこまずにはいなかった」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.266」岩波文庫 二〇一八年)

 

ヴェルデュラン夫人のサロンの流行。「ブリショを嘲笑することが、かつて賞賛することがそうであったように流行となり、その文章を読んでいた時期にはブリショを密かに賛美していた婦人でさえ、仲間といっしょになったとたん、ほかの婦人たちほど利口ではないと思われぬように、賛美するのをやめてあざ笑った」。今やブリショは「愚弄の対象」。しかしそもそも衒学趣味横溢するブリショがステレオタイプな文章を書くと両者が入り混じりあう。どんな文章になるのだろう。

 

「ドイツ人はもはやベートーヴェンの彫像を正視することはできないだろう」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.260」岩波文庫 二〇一八年)

 

「シラーは墓のなかで身を震わせたにちがいない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.260」岩波文庫 二〇一八年)

 

「レーニンは語るが、その声はステップの風とともに去るだろう」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.260」岩波文庫 二〇一八年)

 

もっとありふれた文章も出てくる。学者でなくても書ける気取ったもの。

 

「二万の捕虜、これはなかなかの数字である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.260~261」岩波文庫 二〇一八年)

 

「われらが司令部は怠りなく監視するであろう」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.261」岩波文庫 二〇一八年)

 

「われわれは勝利を欲する、ただそれだけだ」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.261」岩波文庫 二〇一八年)

 

さらに予言者ぶった鼻持ちならないもの。ヴェルデュラン夫人が辛辣な口調で叱責した「私は」の連発。

 

「私は早くも一八九七年から糾弾していた」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.264」岩波文庫 二〇一八年)

 

「私は一九〇一年に指摘していた」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.264」岩波文庫 二〇一八年)

 

「私は今や稀覯本(きこうぼん)となった小冊子(書物ニハソノ運命アリ)において警告していた」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.264」岩波文庫 二〇一八年)

 

ブリショの文章の特徴をことごとく知っているヴェルデュラン夫人はその一つ一つをサロンの信者たちの前で嘲笑する。信者たちはすぐさま一緒に嘲笑する。ヴェルデュラン夫人から見てブリショの文章がどこからの引用なのかよくわからない時はよくわからないくらい衒学趣味をひけらかしているという点でさらに嘲笑の的になる。そんなわけでヴェルデュラン夫人のサロンではこんな事態が発生していた。

 

(1)「ブリショの文章をどう評価するかということが新入りの聡明さを測る指標」

 

(2)「新入りが最初にヘマな答えをすると、人びとはなにをもって人が聡明とされるかを教えこまずにはいなかった」

 

ブリショの発表する文章が役割を終えたということではまるでなく逆に(1)「ブリショの文章をどう評価するかということが新入りの聡明さを測る指標」の位置を占めることになった。同時に(2)「新入りが最初にヘマな答えをすると、人びとはなにをもって人が聡明とされるかを教えこまずにはいなかった」。

 

戦時中にブリショが発表するあらゆる文章はサロンの新入りの資質を見抜くための試験問題へ化けて流通した。戦争前の十五年間とはまったく違う価値を持つ文章へがらりと変化したし嘲笑の対象へ変化することができてしまう。また「人びとはなにをもって人が聡明とされるかを教えこまずにはいな」い。そうできるのは人々の聡明さを示唆する絶対的な基準というものがもはや消え失せてどこにも見あたらないからである。ブリショの社会的利用価値は無に等しい。けれどもその文章は新入り向けの試験問題として利用価値を持つことになった。