白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ105

2023年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月二十八日(月)。

 

深夜(午前三時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

部屋に掃除機をかける時など巻き込まれないようケージの中に入れるわけだが、猫にとってケージは狭くて窮屈。長時間に及ぶと精神的変調を起こすこともままある。なので、できる限り安心できる場所にしておかないといけない。ちなみにタマの場合、タマ自身の匂いの染み付いているタオルを入れておくことにしている。そのためか時々ケージの中でもすやすや居眠っていることがある。そこそこ安心できる場所になってはいるというわけだ。

 

ところが一方、同じタオルばかりずっと放置していると今度はタオルがどんどん不潔になってくる。人間の場合、あまりにも度を越して清潔過ぎる環境というのは人体にとって必要な物質まで化学的に破壊して死期を早めてしまう問題があるように動物にとってはなおさら危険なのだが、逆に不潔過ぎる時期が長引くと悪質な物質繁殖の温床となるのでこれまた気を付けることにしている。そこで今朝はケージに入れてあるタオルの洗濯。

 

タマのために使っているタオルはいつも三枚。三枚一度にバケツで洗濯。面倒ではあるものの化学物質まみれにしてしまわないよう石鹸でもみ洗い。今日はとても天気がよくしっかり乾いた。午後にケージ内の汚れを拭き取り洗い立てのタオルをあらためてケージに入れてやる。様子を見ているとすぐ匂いの違いに気づいたようだがしばらくするともう何ごともなかったかのようにゆるゆる横になってくつろいでいる。


Blog21・「人生マニュアル」の作成と更新

2023年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

岩川ありさは自分の命綱になるような「人生マニュアル」を十年前からつくっている。鬱の時期や躁の時期の対処法をまとめて手元に置き、すぐ取り出せるようにしているらしい。十年間、試行錯誤を重ねながら更新してきたという。なるほどと思いながらページをくっていると今の日本でもすでに有名になっている言葉が出てくる。

 

「『共感共苦』という言葉は、ハンナ・アレント、ジャン=F・フォルジュ、下河辺美知子、岡真里らの著作でとりあげられ、文学や文化の研究のなかで『コンパッション(compassion)』の訳語として知られている。同情したり、感情移入するという意味での共感ではなく、他者の痛みを自らも痛みをもって受けとめて、共に苦しみ、そこからその誰かを思いやり、何か行動に移すような言葉だと私は受けとめている」(岩川ありさ「養生する言葉(第3回)」『群像・2023・09・P.445~446』講談社 二〇二三年)

 

思い出した。つい先日訪れた病院でのことだ。母の癌治療について抗癌剤治療も放射線治療も断り緩和ケアへ移行することになった。方針転換に当たって別室へ移りあらためて緩和ケア相談担当者との話を持った。そこで患者本人が訊ねられたのはもう本当に「積極的治療(抗癌剤治療・放射線治療)」を受けるつもりはないのかどうかということ。四度も五度も繰り返し訊ねられる。

 

万一を期した訴訟対策のために念を押して確認したいのだろうということは付き添っていてすぐわかるわけだが、それならもっと具体的に、本当に「抗癌剤治療・放射線治療」を受けるつもりはないのかどうかと訊ねればいいと思う。しかしなぜ「積極的!積極的!積極的!」と何度も繰り返し連呼しなければならないのかさっぱりわからない。

 

母の友人女性の一人にナガサキの被爆者がいて二十年ほど前に癌で亡くなった。放射線治療を受けていたが短期間でげっそり痩せこけ食欲不振のためほとんど何一つ口にできず、全身倦怠感も激しく、苦しい苦しいと繰り返しながら退院後三ヶ月ばかりで死んだ。原爆の被曝と放射線治療とはまた別々なのはわかる。それでも子供の頃からの友人を放射線治療の末の苦しみも相まって亡くした記憶は強烈であって、診察室では思わず涙をぼろぼろこぼして泣き出してしまっていた。

 

その一時間後くらい。今度は別室で「抗癌剤治療・放射線治療」を受けるつもりはもうないのかどうかの確認のために何度も何度も「積極的治療!積極的治療!積極的治療!」と連呼されてしまえば患者はいうまでもなく付き添って介護している人間までがまいってしまう。「積極的治療」を選ばないなら生きていても無意味だと宣告されているかのようだ。たとえまだカウンセリングを学んでいる途中の若い学生たちであってももっと言い方というものがあるのではと考え込んでしまった。しかし立場上そのような仕事を任されることになれば他の言葉を選択することはできなくなってしまうのだろうか。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて527

2023年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。1パックの三分の二を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはナスの糠漬け。

 

(1)タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたナスの漬物を二片取り出す。(2)水洗いして手でよく絞り塩分を落とす。(3)皮を剥く。(4)俎板の上に置き包丁で六等分。十二片に切り分ける。(5)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。(6)温めた粥の下に置き入れて粥の熱で少し温める。今朝は十二個とも完食。

 

昨日の夕食はぎょれん道東食品「ぱくぱくさんま」。たいへん小ぶりだということもあり一尾だけだが食べることができた。

 

視力の急変。新聞記事ほどもある大きな活字を見るのも距離がまるで合わない。早いうちに新しい眼鏡を探してこないといけない。

 

今朝の音楽はショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲第八番」。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・複数の少年時代

2023年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

「私」が生涯の「ある時期に目にした事物、たとえばわれわれが読んだ本は」、ただ単に「私」の周囲とだけ共鳴するわけでは何らない。「その本は、そのときのわれわれ自身にも忠実に結びついている」。だから例えば「私が書斎で『フランソワ・ル・シャンピ』を手にとると、たちまち私のなかにひとりの少年が立ちあがり、現在の私にとって替わる」。現在の「私」は瞬時に過去の「私」と共鳴しつつ入れ換わることができる。

 

「おまけに、われわれがある時期に目にした事物、たとえばわれわれが読んだ本は、そのときわれわれの周囲に存在したものにだけ永久に結びついているわけではない。その本は、そのときのわれわれ自身にも忠実に結びついている。その本をふたたび感じたり考えたりできるのは、その当時のわれわれ自身の感受性や思考だけである。私が書斎で『フランソワ・ル・シャンピ』を手にとると、たちまち私のなかにひとりの少年が立ちあがり、現在の私にとって替わる。この少年のみが『フランソワ・ル・シャンピ』というタイトルを読む権利を持つのだ。この少年が当時と同じようにこのタイトルを読むときには、そのときの庭の天気と同じ印象が、そのとき少年が人生やさまざまな土地にいだいていたのと同じ夢が、近い将来にたいしていだいていたのと同じ不安がつきまとう。私が当時のある事物をふたたび目にするとき、立ちあがるのはひとりの若者なのだ。そして現在の私自身は、見捨てられた石切場にすぎず、その石切場に残されているのは似たり寄ったりの単調なものにすぎないと想いこんでいるが、しかしそこからひとつひとつの回想が、まるで天才彫刻家のように、無数の彫像をとり出すのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.468~469」岩波文庫 二〇一八年)

 

現在において過去のある時期を取り出してくることができるのは、前提として、歴史というものがどんな裂け目もない単線では決してなく逆に無限に微分化可能であるという事情による。そこで「現在の私自身は、見捨てられた石切場にすぎず、その石切場に残されているのは似たり寄ったりの単調なものにすぎないと想いこんでいるが、しかしそこからひとつひとつの回想が、まるで天才彫刻家のように、無数の彫像をとり出す」。

 

現在と過去との共鳴共振。日本の近代だけに絞り込んでみても「オキナワ」、「ヒロシマ」、「ナガサキ」、「第五福竜丸」など有名なものは幾つもある。それらは漫画、映画、文学、写真、絵画、音楽、語り部などを通して長く保存されてきた。共通する部分をあわせ持つ種々の歴史を日本近代に限ってみてもなお、それらに触れるや否や瞬時に現在と過去との共鳴を引き起こしてなお飽き足りることがないほど大量に見つかる。

 

例えば子供の頃に漫画「はだしのゲン」を読んだ世代はまだ元気だった語り部から聞いた話を今なお生き生きと記憶に宿しているだろう。聞く機会がなかったとしても読後感は比類なく生々しい。そしてもし「はだしのゲン」が何らかの事情で手に入らなくなればなるほど日本が第二のソ連へ加速していることを素早く察するに違いない。

 

もっとも一方、いま一つ「ぴんとこない」という若い人々が増えているのも事実である。ところがいま一つ「ぴんとこない」という若い人々にしても、「チェルノブイリ」、「フクシマ」、「ウクライナ」、「人種差別」、「障害者差別」、「性差別」、「カルト」、「自殺」、「いじめ」、「虐待」、「メンタルヘルス」、「経営」、「運営」、「労働」、「賃金」、「居場所消滅」、「人間関係崩壊」となると、ぐっと身近な問題として記憶に焼き付く。日常生活の中で、学校で、仕事場で、趣味の集まりで、自分自身の人格そのものが不意に疑われてしまうほど身近な問題と化してきた。近い将来、さらに新しい漫画、映画、文学、写真、絵画、音楽、語り部たちの出現とともにそれらはいつでも現在と過去とを生々しく共鳴させ合わずにはおかないだろう。

 

漫画形式でフィクション化されているとはいえ、たった一つ取り上げてみるとして。例えば「ゴルゴ13」。「ベトナム」、「アフガン」、「香港」、「難民」など、そろそろグローバルな次元で、現在において避けて通れない過去へあからさまに誘惑してやまない衝撃が今後どんどん待ち構えている。そのとき、日本と日本人は用意ができているのかいないのか。

 

その意味で日本はいまだ「未成年」である。

 

(1)「《啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである》」(カント「啓蒙とは何か・P.7」岩波文庫 一九五〇年)

 

(2)「さまざまな制度や形式は、人間の自然的素質を理性的に使用せしめるーーー或いは、むしろ誤用せしめる機械的な道具である、そしてこれらの道具こそ、実は未成年状態をいつまでも存続させる足枷(あしかせ)なのである」(カント「啓蒙とは何か・P.9」岩波文庫 一九五〇年)

 

そうカントは問いかける。