「私」が生涯の「ある時期に目にした事物、たとえばわれわれが読んだ本は」、ただ単に「私」の周囲とだけ共鳴するわけでは何らない。「その本は、そのときのわれわれ自身にも忠実に結びついている」。だから例えば「私が書斎で『フランソワ・ル・シャンピ』を手にとると、たちまち私のなかにひとりの少年が立ちあがり、現在の私にとって替わる」。現在の「私」は瞬時に過去の「私」と共鳴しつつ入れ換わることができる。
「おまけに、われわれがある時期に目にした事物、たとえばわれわれが読んだ本は、そのときわれわれの周囲に存在したものにだけ永久に結びついているわけではない。その本は、そのときのわれわれ自身にも忠実に結びついている。その本をふたたび感じたり考えたりできるのは、その当時のわれわれ自身の感受性や思考だけである。私が書斎で『フランソワ・ル・シャンピ』を手にとると、たちまち私のなかにひとりの少年が立ちあがり、現在の私にとって替わる。この少年のみが『フランソワ・ル・シャンピ』というタイトルを読む権利を持つのだ。この少年が当時と同じようにこのタイトルを読むときには、そのときの庭の天気と同じ印象が、そのとき少年が人生やさまざまな土地にいだいていたのと同じ夢が、近い将来にたいしていだいていたのと同じ不安がつきまとう。私が当時のある事物をふたたび目にするとき、立ちあがるのはひとりの若者なのだ。そして現在の私自身は、見捨てられた石切場にすぎず、その石切場に残されているのは似たり寄ったりの単調なものにすぎないと想いこんでいるが、しかしそこからひとつひとつの回想が、まるで天才彫刻家のように、無数の彫像をとり出すのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.468~469」岩波文庫 二〇一八年)
現在において過去のある時期を取り出してくることができるのは、前提として、歴史というものがどんな裂け目もない単線では決してなく逆に無限に微分化可能であるという事情による。そこで「現在の私自身は、見捨てられた石切場にすぎず、その石切場に残されているのは似たり寄ったりの単調なものにすぎないと想いこんでいるが、しかしそこからひとつひとつの回想が、まるで天才彫刻家のように、無数の彫像をとり出す」。
現在と過去との共鳴共振。日本の近代だけに絞り込んでみても「オキナワ」、「ヒロシマ」、「ナガサキ」、「第五福竜丸」など有名なものは幾つもある。それらは漫画、映画、文学、写真、絵画、音楽、語り部などを通して長く保存されてきた。共通する部分をあわせ持つ種々の歴史を日本近代に限ってみてもなお、それらに触れるや否や瞬時に現在と過去との共鳴を引き起こしてなお飽き足りることがないほど大量に見つかる。
例えば子供の頃に漫画「はだしのゲン」を読んだ世代はまだ元気だった語り部から聞いた話を今なお生き生きと記憶に宿しているだろう。聞く機会がなかったとしても読後感は比類なく生々しい。そしてもし「はだしのゲン」が何らかの事情で手に入らなくなればなるほど日本が第二のソ連へ加速していることを素早く察するに違いない。
もっとも一方、いま一つ「ぴんとこない」という若い人々が増えているのも事実である。ところがいま一つ「ぴんとこない」という若い人々にしても、「チェルノブイリ」、「フクシマ」、「ウクライナ」、「人種差別」、「障害者差別」、「性差別」、「カルト」、「自殺」、「いじめ」、「虐待」、「メンタルヘルス」、「経営」、「運営」、「労働」、「賃金」、「居場所消滅」、「人間関係崩壊」となると、ぐっと身近な問題として記憶に焼き付く。日常生活の中で、学校で、仕事場で、趣味の集まりで、自分自身の人格そのものが不意に疑われてしまうほど身近な問題と化してきた。近い将来、さらに新しい漫画、映画、文学、写真、絵画、音楽、語り部たちの出現とともにそれらはいつでも現在と過去とを生々しく共鳴させ合わずにはおかないだろう。
漫画形式でフィクション化されているとはいえ、たった一つ取り上げてみるとして。例えば「ゴルゴ13」。「ベトナム」、「アフガン」、「香港」、「難民」など、そろそろグローバルな次元で、現在において避けて通れない過去へあからさまに誘惑してやまない衝撃が今後どんどん待ち構えている。そのとき、日本と日本人は用意ができているのかいないのか。
その意味で日本はいまだ「未成年」である。
(1)「《啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである》」(カント「啓蒙とは何か・P.7」岩波文庫 一九五〇年)
(2)「さまざまな制度や形式は、人間の自然的素質を理性的に使用せしめるーーー或いは、むしろ誤用せしめる機械的な道具である、そしてこれらの道具こそ、実は未成年状態をいつまでも存続させる足枷(あしかせ)なのである」(カント「啓蒙とは何か・P.9」岩波文庫 一九五〇年)
そうカントは問いかける。