白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ90

2023年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月十三日(日)。

 

深夜(午前三時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

電力高騰のためわずかばかりしか使えないエアコン。昼寝はまったく怠惰に寝転がっているけれども遊び時間は楽しいらしくよく走り回ってくれる。ジャンプの高さは初代タマの全盛期にはまだ及ばないが前へ飛ぶときの距離はすでに成猫になった頃の初代タマに匹敵するかもしれない。この先が楽しみ。

 

黒猫は光の加減で写真映りがころころ変わると言われているようで、このタマも確かに写真映りはころころ変わる。さらに写真だけでなく実際に不思議と表情が変わる。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて511

2023年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は豆光「にがり絹とうふ」。三分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日昼過ぎから母の声の張りが再び衰える。今朝の食事の支度はできずおとなしく待つ。視力も急変。一昨日はまだ合っていた眼鏡が合わない。しかし国のおぼえが目出たい半死半生の平均寿命ではなく健康寿命の側へ方向転換するわけだからそれはそれで自然なことだろうとは思う。

 

食事の支度を済ませ自室へ引き上げ音楽。ベートーヴェン「ヴァイオリン・ソナタ」を順番に聴く。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・自爆の条件

2023年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム

ドイツ語風に発音するとかえってオリエント風な出自を思わせてしまい逆効果な事例。「ブロック」が「ブロッホ」になる。

 

「べつのとき、ずっと後のことだが、一家の父となったブロックが娘のひとりをカトリック教徒に嫁がせた直後、礼儀をわきまえぬある紳士が、新婦に、お父さまはユダヤ人だと聞いたような気がしますがご実家はなんという姓ですか、と訊ねた。新婦は、生まれてこのかたブロック嬢であったが、ゲルマント公爵ならそうしたように、それをドイツ語ふうに発音して(語尾のchを《ク》ではなくドイツ語ふうに《ホ》と発音して)『ブロッホ』と答えてしまった」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.336~337」岩波文庫 二〇一八年)

 

イスラエル系の出自が「露わに」なる。それこそ「新婦」が避けようとして逆に陥った結果だ。「ブロッホ」でなくて「要するにどうなってもいいじゃないか」でも実は問題ない。「まるっきりべつのことば」を到来させ迂路へ迂路へ「回避」することが重要だからだ。「口から出たことばは、考えていることとはなんの関係がないにもかかわらず、だからこそ考えていることを露わにする」もう一つの事例である。これで合わせて三つの事例が取り上げられた。しかし。

 

語り手はある種の言葉遣いが思いがけずもたらす逆説についてだけ語っているわけではない。「考えていることとはなんの関係がない」切断性へ注意を差し向けつづける。天と地ほどにもかけ離れているためその間には一切の必然性が欠けている。神の死を言い換えればそういうことだ。ゆえに可能になった記号が記号を寄せ集め組み換えていくことでその都度瞬間的に出現し消滅する断続的なものの飽くなき繰り返しが延々反復され続ける近代という事情。

 

それはいつも「きり」のない計算問題を発生させて止まない脱節性について語ることでもある。脱節性というのは絶対的中心がないということ、中心はいつも可変的だということ、どんな文脈であれ幾重にも取り巻かれた「約束事」から解き放たれるやたちまち解体の危機にさらされずにはいられないという世界へすっかり変わった近代の条件として常にすでに偏在する。この事情はマス-コミをはじめとした情報装置の運用によって極限まで押し進められることになった。語り手が今横切りつつある第一次世界大戦はその結果の一つにほかならない。