ドイツ語風に発音するとかえってオリエント風な出自を思わせてしまい逆効果な事例。「ブロック」が「ブロッホ」になる。
「べつのとき、ずっと後のことだが、一家の父となったブロックが娘のひとりをカトリック教徒に嫁がせた直後、礼儀をわきまえぬある紳士が、新婦に、お父さまはユダヤ人だと聞いたような気がしますがご実家はなんという姓ですか、と訊ねた。新婦は、生まれてこのかたブロック嬢であったが、ゲルマント公爵ならそうしたように、それをドイツ語ふうに発音して(語尾のchを《ク》ではなくドイツ語ふうに《ホ》と発音して)『ブロッホ』と答えてしまった」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.336~337」岩波文庫 二〇一八年)
イスラエル系の出自が「露わに」なる。それこそ「新婦」が避けようとして逆に陥った結果だ。「ブロッホ」でなくて「要するにどうなってもいいじゃないか」でも実は問題ない。「まるっきりべつのことば」を到来させ迂路へ迂路へ「回避」することが重要だからだ。「口から出たことばは、考えていることとはなんの関係がないにもかかわらず、だからこそ考えていることを露わにする」もう一つの事例である。これで合わせて三つの事例が取り上げられた。しかし。
語り手はある種の言葉遣いが思いがけずもたらす逆説についてだけ語っているわけではない。「考えていることとはなんの関係がない」切断性へ注意を差し向けつづける。天と地ほどにもかけ離れているためその間には一切の必然性が欠けている。神の死を言い換えればそういうことだ。ゆえに可能になった記号が記号を寄せ集め組み換えていくことでその都度瞬間的に出現し消滅する断続的なものの飽くなき繰り返しが延々反復され続ける近代という事情。
それはいつも「きり」のない計算問題を発生させて止まない脱節性について語ることでもある。脱節性というのは絶対的中心がないということ、中心はいつも可変的だということ、どんな文脈であれ幾重にも取り巻かれた「約束事」から解き放たれるやたちまち解体の危機にさらされずにはいられないという世界へすっかり変わった近代の条件として常にすでに偏在する。この事情はマス-コミをはじめとした情報装置の運用によって極限まで押し進められることになった。語り手が今横切りつつある第一次世界大戦はその結果の一つにほかならない。