白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・モードとセックス・アピール

2023年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

モードの動力としてのフェティシズム。

 

「モードこそは物神としての商品をどのように崇拝すべきかという儀礼の方法を指定する。グランヴィルは、このモードの要請をごく普通の日常用品にまで拡大し、また他方で宇宙にまで押し広げる。彼はその究極のはてまでモードのあり方を追求し、それによってモードの本性をあばき出す。モードはどれも有機的なものと相対立しながらも、生ける肉体を無機物の世界と交わらせる。生ける存在のうちに、屍の権利を認めているのである。無機物的なものにセックス・アピールを感じるフェティシズムこそが、モードの生命の核である」(ベンヤミン「パサージュ論1・P.38」岩波文庫 二〇二〇年)

 

物神崇拝(フェティシズム)の奇怪さの一つに「セックス・アピール」があることは誰にでもわかる。ところがそれが商品として流通し貨幣交換できるのはなぜかという点になると、人々はたちまち商品以上に奇怪な妄想に取り憑かれて自分を見失ってしまう。


Blog21・代理品サン=ルー

2023年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

「私」がサン=ルーと充実した友情を育むことができた二つの時期。いずれの時期もサン=ルーが「私」に接する際の公平を期した態度とは関係がなく、一方的に「私」の側の欲望の質的変化に顕著な特徴が見られる。

 

「とはいえ私のサン=ルーとのつき合いの歴史は、私がいっときアルベルチーヌを愛さなくなったことをも示していた。なぜなら私がドンシエールのロベールのところにしばらく滞在したのは、ゲルマント夫人にたいする愛情が報われないのを目の当たりにする悲しみに打ちひしがれていたさなかだったからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.390~391」岩波文庫 二〇一八年)

 

(1)「私がいっときアルベルチーヌを愛さなくなった」時期。

 

(2)「ゲルマント夫人にたいする愛情が報われないのを目の当たりにする悲しみに打ちひしがれていたさなか」。

 

(1)ではアルベルチーヌを愛さなくなった何度かの時期に起こった動きで(2)はゲルマント夫人から愛人としては相手にされないことがわかってしまった時期に起こった動きである。アルベルチーヌへ接続していた欲望が切断された時期とゲルマント夫人へ接続していた欲望が切断された時期に、それらに代わって出現したサン=ルーへの同性愛的志向について「私」は隠そうとしない。

 

「私」の欲望はアルベルチーヌから切り離されるとサン=ルーへ置き換えられ、ゲルマント夫人から切り離されると今度もまたサン=ルーへ置き換えられる。欲望はただ単に対象だけを置き換えるわけではなく欲望自体の質的変化をも伴う。サン=ルーは「私」の欲望にとって都合のいい代理として機能するだけに留まらない。二人の関係は男性同士の愛国主義的友情へ偽装されることで両者を奥底から繋ぎとめる同性愛的志向を覆い隠す。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ93

2023年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月十六日(水)。

 

深夜(午前三時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

遊んでやっていると思うことがある。よく言われることの一つで初代タマが子猫の時も思った。何のことかというと猫の攻撃性と捕食行動との分かちがたさについて。一方の攻撃性をすっかり抑制してもう一方の捕食行動だけを残そうとしても上手くいかない。遊び時間に学び覚えることが多いのは人間社会のみならず猫との暮らしの中でもしばしば。

 

今日は思いのほか天気がよかった。室内にできるだけ陽を入れて猫に日向ぼっこさせてやる。ころころ転がってとてもうれしそうだ。飽きてくると窓辺のカーテンに隠れてくうくう寝ている。病気療養中の母はいう。「いたずら黒べえ、今度は何してんのや?」。いつの間にか「いたずら黒べえ」ということらしい。早朝のリビングを覗くたびに物が散らかっていたからなのだが猫がいたずらできるような小物は本棚や食器棚にしまい込むようにして以後そう簡単に散らかせるものはなくなった。しかし「いたずら」という形容詞は残ってしまうのである。


Blog21・盆/マス-コミ/暴力装置

2023年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

柳田國男の「先祖の話」は「先祖/盆」から書き起こされている。「霊/魂」が主たるテーマ。執筆は一九四五年四月上旬から五月にかけて。次に引く文章の小見出しは「七生報国」。

 

「人生は時あって四苦八苦の衢(ちまた)であるけれども、それを畏(おそ)れて我々が皆他の世界に往ってしまっては、次の明朗なる社会を期するの途はないのである。我々がこれを乗り越えていつまでも、生まれ直して来ようと念ずるのは正しいと思う。しかも先祖代々くりかえして、同じ一つの国に奉仕し得られるものと、信ずることのできたというのは、特に我々にとっては幸福なことであった」(柳田國男「先祖の話」『柳田國男全集13・P.206』ちくま文庫 一九九〇年)

 

ところが序文が付された日付は同じ年の十月二十二日。戦争は終わっていた。

 

盆休みは姿形を置き換えながら今なお年中行事の中に組み込まれて残っている。その意味はずいぶん変わってきた。今後も変わっていくだろう。先祖の「英霊の前にひれ伏す」という軍国主義的復古主義的な「同一の意味」を与え続けることに対する注意深い態度があればあるほど、今後やって来るかもしれないしすでにやって来ているかもしれない全体主義を回避するためのいい機会を間違いなく提供してくれる。

 

しかしマス-コミは相変わらずだ。「みんなで移動」し「みんなで先祖供養」する「みんなの姿」ばかり大々的に捕獲し取り上げ読者視聴者の目の前へぶちまけ突きつけ、同じことをやらない連中はどうなっても知らないと言いたげな恫喝まがいの態度一つ崩そうとはしない。

 

世界はもはや複数であって不用意にまとめるべきではなくまとめようにもまとめようがないのが実状ではと思われるにもかかわらず。もしまとめることができるというのならなぜやらないで放置・棚上げしたままの諸問題があれこれあるのか不思議でならなくなってくる。

 

なぜ「祈り」なのか。「祈り」とはなんなのか。霊的なものを前提している。「宗教」だろう。下手をすればカルトにほかならなくなる。かつて「祈り」が「七生報国」へ変わるのはいとも簡単だったのではなかったか。だがしかし、「祈り」とは?


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて514

2023年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は京禅庵「はんなり湯葉おぼろ」。三分二のを椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはナスの糠漬け。

 

(1)タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたナスの漬物を二片取り出す。(2)水洗いして手でよく絞り塩分を落とす。(3)皮を剥く。(4)俎板の上に置き包丁で六等分。十二片に切り分ける。(5)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。(6)温めた粥の下に置き入れて粥の熱で少し温める。今朝は十二個とも完食。

 

用意して食べることができた。少量ずつだが朝はまあまあ食べれらる。

 

食欲の落ちる夕食だが昨日はエテカレイを焼いたものを食べることができた。また味噌汁に麩を入れてみたところまそこそこおいしく食べられるようだ。

 

参考になれば幸いです。