処理水海洋放出について。多少なりとも反対意見があるにせよ、ともかく「なるようになった」印象を持つのはなぜだろう。戦前に小林秀雄が述べた文章を上げた後、柄谷行人は「日本の組織体のなかでは、決定や命令は、上位から一方的に作為されたものとしてではなく、『自然に成った』もののごとくなされる」と書いた。
「{国民は黙つて事変に処した。黙って処したといふ事が事変の特色である、と僕は嘗て書いた事がある。今でもさう思つてゐる。事に当つて適確有効に処してゐるこの国民の智慧は、未だ新しい思想表現をとるに至つてゐないのである。何故かといふと、さういふ智慧は、事変の新しさ、困難さに全身を以て即してゐて、思ひ附きの表現など取る暇がないからだ。この智慧を現代の諸風景のうちに嗅ぎ分ける仕事が、批評家としての僕には快い。あとは皆んな詰まらぬ。(小林秀雄「疑惑Ⅱ」昭和十四年)}
ここでは、日本の帝国主義的侵略に対して論評することはさかしげな漢意であり、成るように成った『事実』にこそ真の道(思想)があるというわけである。『本居宣長』について書くはるか前から、小林秀雄は宣長的であり、宣長が見出したような『自然』をくりかえし語ってきたのである。
だが、このような自然=生成は、作為や構築から自由だろうか。たとえば、国民が『黙って事変に処した』のは、それ以前からの構造的強制力の前になすすべがなかったからであり、しかもこの強制が作為としてではなく『成る』というかたちでなされたからである。
一般的にいえば、日本の組織体のなかでは、決定や命令は、上位から一方的に作為されたものとしてではなく、『自然に成った』もののごとくなされる。最上位者がすべてを計画し強制するというような組織体は、たとえあっても長続きしない。最上位者がいわばゼロ記号であり、決定や強制はいつのまにかそう成ったというかたちをとる組織体が、結局長続きするのだ。事実上は、《誰か》が決定したのだが、誰もそれを決定せず且つ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような『生成』が、明らさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力をもっていることを忘れてはならない」(柄谷行人「差異としての場所・P.168~169」講談社学術文庫 一九九六年)
侵略戦争とはまた異なる形でしごく「日本的」な成り行きが反復されたように見えた人々は少なくなかったと思われる。しかしそれとは別に奇々怪々だったのは処理水海洋放出に当たって日本政府が持ち出した論理。
(1)福島第一原発廃炉プロセスの前提として処理水処分の不可避性。(2)廃炉プロセスの不可欠なステップとして処理水を海洋放出する。(1)は理論。(2)は実践。
理論ばかりこねくりまわしていてはいけない。実践に移して理論の《真理性》を証明しなければならない。そういうことなのだろう。しかしこの場合の実践(海洋放出)は極めて目的論的なものだ。ともすればマルクスを読み違えた人々にありがちなケース。
「人間の思考にーーー対象的真理が到来するかどうかーーーという問題は、<ただ>理論の問題ではなく、《実践的な》問題である。実践において人間は自らの思考の真理性を、すなわち思考の現実性と力を、思考がこの世のものであることを、証明しなければならない。思考の現実性と非現実性をめぐる争いはーーー思考が実践から遊離されているならーーー純粋に《スコラ的な》問題である」(マルクス「フォイエルバッハに関するテーゼ」マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー・P.233』岩波文庫 二〇〇二年)
マルクスのいう《実践》は目的論的なものを想定していない。生きること(衣食住、日常活動)と実践とは乖離していない。目的論的《理想》の樹立でもなんでもなくただひたすら縦横無尽に交通し合う現実的な諸運動にほかならない。
付け加えておくと、一度放出した処理水はある共同体と他の共同体とが交わるところで、限度を忘れ、一挙に拡大再生産されてしまう恐れがある。
「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.161」国民文庫 一九七二年)
自分のやっていることがマルクスを読み違えたあげくの失敗策だとなかなか気付かない人々がかつて大量にいた。さらにアジアでは左右どんな政治的立場であれ、たちまちスターリニズムに陥ってしまったというおぞましい歴史がある。今の日本が第二のソ連にならならないかと憂国せずにはいられない。