新聞記事が情報伝達の主流だった頃。「そんな文章が世間の熱狂をかき立てるとは、いったいどういうことか?」とシャルリュスは疑問を呈して見せる。
「 『いやはや』とシャルリュス氏は私に言った、『コタールやカンブルメールのことはあなたもご存じでしょう。あのふたりは、会うたびに、ドイツ人には人の気持がわからんなどと言う始末。ここだけの話、あのふたりがこれまで人の気持を思いやったことがあるなんて、あるいは今なら思いやることができるなんて、信じられますかな?いや、私はなにも大げさに言ってるんじゃありませんぞ。どれほど偉大なドイツ人についても、たとえニーチェやゲーテについてさえ、コタールが<チュートン族の特徴たる人の気持への無理解ゆえ>などとほざくのが聞こえてくる。もちろん戦争にはもっと辛いことがいくらでもあるが、だがこれだけは癇(かん)にさわる。ノルポワはもう少し利口で、それは私も認めるにやぶさかではないが、しかし言ってることは最初から間違ったことばかり。そんな文章が世間の熱狂をかき立てるとは、いったいどういうことか?』」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.233~234」岩波文庫 二〇一八年)
第一次第二次世界大戦とも戦地・銃後へ国家総動員するのに新聞は最大限役立った。どこの国でもやっていることはさほど違わない。二〇二三年の世界ではマス-コミ(特にテレビ)だけでなく各種雑誌やネット記事、さらには溢れかえる広告がいろいろな人々の発言を取り上げることで精神主義的軍事利用へ煽り立てて止まない。「強い気持ち」や「強いメンタル」という言葉で美談化され戦地へ持ち込まれる自己犠牲の精神などはその典型例。戦争している同盟国も相手国もそれをほいほい利用する。
美談で食っている人々は無数にいる。美談に励まされた人々も無数にいる。ところがどこまでも付いていくのではなく今や切り換える動作が大事だと感じた人々は、段階的に舞台から降りるだけでなく、別の生活様式へすみやかに移動しつつ生き延びる技術を手探りしていく。
シャルリュスはヴェルデュラン夫人のサロンから排除された。むしろそれゆえヴェルデュラン夫人のような人々とは無縁の、暮らしを味わう余裕がある。しかしヴェルデュラン夫人とその信者たちは大金持ちであるにもかかわらず暮らしを味わう余裕がない。プルーストが取り上げて見せる事例は百年以上も前すでに見境いなく流通していた。
「どれほど偉大なドイツ人についても、たとえニーチェやゲーテについてさえ、コタールが<チュートン族の特徴たる人の気持への無理解ゆえ>などとほざくのが聞こえてくる」
チュートン族。古代ゲルマン民族の古称。研究者しか用いないような恐ろしく古い名称を掘り返してきて誹謗中傷し悦に入る。性差別や人種差別や国籍差別に没入してうっとりする。戦争の始まる少し前から顕著に見られる光景をプルーストは丹念に書き込んでいる。戦時中は言わずもがな。
ヴェルデュラン夫人のサロンは熱狂的愛国者の巣窟と化していた。しかしシャルリュスのようなドイツにもフランスにもまたがるトランス(横断的)系列の人々は「ニーチェやゲーテについてさえ、コタールが<チュートン族の特徴たる人の気持への無理解ゆえ>などとほざく」ことなく逆に揶揄してわらうほかない。戦争終結と同時に今度は誹謗中傷した人々の居場所が一挙になくなるのは目に見えている。勝利したとしても傍若無人に連発された無数の活字や発言のすべてを消し去ることはできない。戦後もなお利用価値があればまた話は違ってくるとはいえ。