話題のブリエール・アセロ「動画」。一週間経ってなお賛否入り乱れ収拾が付いていない。ますます混乱していく様相すら呈している。さらに当初の予想通り「甘えているだけなのでは?」という主に中高年層の意見が目立ってきた。なかには「責任回避のパフォーマンス」だとか「過度の甘え」だとか「叱ってくれる大人がいないのでは?」という恐ろしく筋違いこの上ない無責任発言まで飛び出す始末。だが議論の余地があるという点で救いもまたある。
前提としてアメリカの「Z世代」がどうしたこうしたという黴臭い「世代論」の枠組みを解除しない限り問題の焦点は一向に見えてこない。そして今のところ世間一般の手が届きそうなレベルまで十分解除されたとはとてもではないが言えない。解除されていないし専門家らの間でもまだ拾い上げるべき問題を急いで整理整頓中といった状況。アメリカの中からも外からもまだ焦点化されきっていない。見えたとは言い難い。にもかかわらずなぜ発言できるのか。できてしまうのか。見えてもいないものをまるで見えているかのような訳知り顔で小首を傾げつつ不用意な発言を口にして平気でいられる人々がいないだろうか。もしいるとしたらその無神経を疑う。
この件はそもそもの始まりから十分焦点化できる課題である。にもかかわらず焦点化されない。なぜか。ほぼ全米の「大人」(主に中高年)が、目の前に突きつけられて宙吊りになっている<諸刃の刃>に直面しなければならない事態に立ち至っている事情について恐怖するあまり、責任を持って「政治課題」として引き受ける作業から身をかわそうと逃げ回ってばかりだからに他ならない。まさかとは思うが無責任な「大人」(主に中高年)は別として、日本で、ブリエール・アセロ「動画」問題に何か口の一つでも差しはさんだりSNSですでに中傷発言を上げたりしている人間はいないと思いたいところではある。ところが日本でもよほど長く複数の労働に従事してきた上でさらに何らかの研究機関で広い知見を得た人々の意見を注意深く拾い上げて試行錯誤してみもしないうちに、「あ、言っちまった」とでもいうような発言を見かけはしないだろうか。それがネット上のうっかりミスであってもほんわか優しく見逃され許しを与えられてあっさり済まされる世界ではもはやなくなっている。とりわけ日本の風土にありがちな「甘ったれた」人々、アセロ「動画」について「しつけ」や「教育方針」といったまったく場違いなレベルで批判を浴びせる無神経かつ凡庸無知な「優等生めいた」主に中高年がいないだろうか。
目下、本国アメリカで集中的に検討中。問題の複合ぶりがあまりにも混み入っているだけでなく、実際のところ、アメリカ精神医学界(様々な立場をいったん認めるとしてもなお)にしてからが、これまで直面したことのない大きな変化をこうむっているという事情がある。数年前から急浮上してきた。日本でも医学系出版社数社から何冊かの期待できそうな内容の著書がようやく日本語訳で出版されつつある。驚くべきことにもう三十年くらい前に消えてなくなっていたはずだったメラニー・クラインやウィニコットといった対象関係論に立ち返った上で新しく練り上げられた現場で使える理論と実践についての書籍だというところにアメリカ社会の病巣の多重複合性あるいは複雑骨折ぶりを見ることができると思われるからである。
そんな作業が急がれるなかイスラエル主導による史上空前のパレスチナ戦争がのしかかってきた。三年前はこうではなかった。前夜についてジジェクから引用しておきたい。
「シャクドとネタニヤフは実際にはファシストなのだと主張するのは安易にすぎるーーー真相はもうすこし複雑だ。この二人はあくまで民主主義的な議会の規則を尊重しながらポピュリズムのゲームを行なっているのであり、今日のポピュリズムの論理は民主主義的ファシズムだと規定することもできる。この場合民主主義は『われわれの側』に、われわれの民族集団に限定されており、他の人々は人民の敵である(トランプはこの古いスターリニズムの用語を復活させ好んで使っている。彼はこれを四大友人の一人から学んだのだろうーーー金正恩でもムハンマド・ビン・サルマーンでもジャイール・ボルソナーロでもなく、プーチンから)。このことによって今日の人種差別的なポピュリズムはとても危険なものになっている。自分たちは普通の人々が現実に抱える不安を代表しているのだと言い張るにとどまらず、民主主義的な正当化まで得てしまうからだ。今日『民主主義の香りがするファシズム』はこのように機能するのである」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・4・P.66~67」青土社 二〇二二年)
さらに。全米で大ヒットを記録した「ロード・オブ・スローンズ」読解。以前に引用したので要所のみ再録させてほしい。
(1)「圧政への反乱は、階級秩序は変えずにより思いやり深かった昔のありようを取り戻すことを目指して戦うべきなのか、それとも、必要とされる新たな秩序の探究へと発展するべきなのか。不満を感じた視聴者は、この最後の戦いが気にいらなかった。当然のことだ。なぜなら最後の戦いは、ラディカルな変化の拒否と、ヘーゲル、シェリング、ワーグナーに見られるおなじみの反フェミニズムのモチーフとを結び合わせたものだからだ。『精神現象学』においてヘーゲルは、『共同体にとっての永遠のイロニー』としての女性性という悪名高い概念を導入する。女性は『そのたくらみをつうじて、統治にぞくする普遍的な目的を私的な目的に変化させ、統治の普遍的な活動をこの特定の個体がおこなう仕事に転換し、国家の普遍的な所有を顛倒させて、家族に帰する占有と装飾品としてしまうのだ』。この一節はワーグナーの『ローエングリン』に出てくるオートルートという人物に完璧に当てはまる。ワーグナーにとって、権力欲に駆られ政治生活に介入してくる女ほど恐ろしく不快な存在はない。女が権力を求めるのは、男の野望とちがい、偏狭な家族の利益を増進するためだったり、ひどいときには、国家政治の普遍的な次元は理解できないのに個人的な気まぐれで動いたりする。F.W.L.シェリングの『それが活動し出すと、われわれを焼き尽くし破壊し去るであろうこと、しかしその同じ原理が、活動していないときには、われわれを担い支えているということ』という言葉を思い出さないわけにはいかないだろうーーー適切な位置にいれば害がなく平和をもたらすはずの権力が、一段高次のレベル、自らの領分でないレベルに介入した瞬間に、真逆のものに、ほかの何よりも破壊的な狂騒に反転してしまう。家庭生活の閉じた輪の中では庇護の愛の力だった女性性が、公の国事のレベルで発揮されると卑しい狂乱に転じてしまうのだ。登場人物間のやりとりがもっとも下劣になるのは、デナーリスがジョンにこう告げるときである。あなたが女王としてのわたしを愛してくれないのなら、恐怖が支配することになるだろう、とーーーこれは性的に満たされない女が破壊的な怒りを爆発させるという、目も当てられないほど下卑たモチーフである」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.117~118」青土社 二〇二二年)
(2)「しかしーーーここで酸っぱいりんごをかじろうではないかーーーデナーリスの大殺戮はどうなのだろう。キングズランディングで何千人という一般人を無慈悲に殺したことは、普遍的な自由にむけた必要不可欠な一歩として、本当に正当化されうるのだろうか。もちろんそれは許されないーーーしかしここで、シナリオを書いたのが二人の男性だったことを思い出す必要がある。マッド・クイーンとしてのデナーリスはまったくもって男の幻想であり、彼女が狂気に囚われたことは心理的に妥当とはいえないという批判者たちの指摘は正しかったのだ。怒り狂った表情でドラゴンに乗って飛び回り家や人々を焼き尽くすというデナーリスのイメージは、ただ単に強い政治的な女を恐れる父権主義イデオロギーのあらわれなのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.119」青土社 二〇二二年)
(3)「『ゲーム・オブ・スローンズ』で指導的立場にある女性たちの最終的な運命は、この枠組みにきれいに当てはまる。中心に位置するのは力をもつ二人の女サーセイとデナーリスの対立であり、この対立のメッセージは明確である。かりに善良な側が勝ったとしても、権力は女を堕落させるというわけだ。アリア(単独で夜の王を殺し、二人を救った)も(アメリカを植民地化しに行くかのように)西へ西へと船出していなくなってしまう。(北の独立王国の女王として)残るのはサンサだが、彼女は今日の資本主義に愛されそうなタイプの女性だ。女性的なやわらかさと物分かりのよさに加え、いくらか人心操作の心得を兼ね備えることで、新時代の権力関係にぴったりの人物となっている。女をこのように周縁化することは、このエンディングにふくまれる一般的なリベラル保守の教えの鍵となる要素である。革命は道を踏みはずす運命にあり、かならず新たな圧政を生むことになるという教えだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.119」青土社 二〇二二年)
(4)「リベラル保守の教えは、デナーリスに対するジョンの以下の言葉がもっとも的確に表現している。『ドラゴンが存在するなんて考えたこともなかった。誰もそんなこと思わなかった。きみについていく人は、きみが不可能を実現したと知っている。だからみんな、きみなら他の不可能も実現できると信じるかもしれない。ずっと昔からの腐った世界とは違う世界を築けるはずだと。でもドラゴンをつかって城を溶かし街を燃やしてしまうなら同じことだ。やつらと変わらない』」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.120」青土社 二〇二二年)
(5)「結果として、ジョンは愛するがために殺す(昔からある男性優越主義の定式に則るなら、呪われた女を彼女自身から救いだす)。シリーズ中で唯一、いまだかつてない世界を、旧来の不正義に終止符を打つ新たな世界を求めて戦った社会的主体を。だから最終エピソードは好意的に受け止められたのも驚くに値しない。正義が勝ったのだーーーどんな正義が?すべての人物がそれぞれ適切な場所に配置され、既成の秩序を揺るがしたデナーリスは殺されて、最後に残ったドラゴンに永遠の世界へと運ばれていく。新たに王になるのはブランだ。不具で、なんでも知っており、何も望まないーーー最良の君主は権力を望まない者だというつまらない格言を思い出させる。この上なく政治的に正しいエンディングにおいては、障害を追った王が支配し、小人が補佐し、新しい賢明なエリートが王を選出するのだ(気の利いた細部がある。王の選出をより民主的に行ってはどうかという提案が出ると笑いが起こるのである)。しかし見逃せないのは、デナーリスに最後まで忠実だった者は民族的に多様であるのに対し、新たな統治者たちは明らかに白人の北部人であるということだ。社会的地位や人種にかかわらずすべての人により大きな自由を求めた革新的な女王は消され、物事はもとの状態にもどり、人々の悲惨な状況に諦観が漂う(あたらしい統治議会が計画している最初の立法が軍隊と売春宿の復活であることを思い出してみればいい)」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.121」青土社 二〇二二年)
デナーリスは「グレタ」を想定して書かれている。この章のタイトルは「われわれを救えるのは自閉症の子どもだけだ!」。そしてまた「ゲーム・オブ・スローンズ」が安物のテレビドラマに付きものの「音楽的効果」を最大限利用していることも大きなポイントである。日を追うごとにグローバル規模の大文字の「メディア」の多くがイスラエル主催音楽イベントを利用している点に注目しないと見えるものも見えてこない。
徹底的ヘイト、飽くなき罵倒、ジェノサイド(大量虐殺)への煽動、何度も繰り返し合唱されラベリングされるパレスチナ住民と世界中のパレスチナ出身者。音楽はいつだって政治的だったしその運用においてイスラエルは今や世界を丸ごと手に入れようとしている。イスラエルは遂に自身の信仰告白=「イスラエルのみが優生民族であるというカルト思想の実現と実証」を目に見える距離まで射程に詰め込み狂喜乱舞せずにはいられない。
少しページを戻り、もう一箇所。
「自由をもとめる戦いは結局のところコモンズの管理をめぐる戦いであり、今日これはわたしたちの生活を統制するデジタル空間を誰が管理するかという戦いを意味する。だから『中国対西洋』などではないーーーファーウェイと西洋のあいだで目下行われている闘争は二次的なものであり、わたしたちを支配しようとする者同士の党派間の争いにすぎない。真の闘争は、彼ら全員と、彼らに管理されているわたしたち普通の人々との間にあるのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・3・P.96」青土社 二〇二二年)
なおトランプ批判だけでなくなぜかイスラエルばかり支持しつづける民主党政権(ほとんどが富裕層ばかりなのはどうしてか?)に向けて、今や等価あるいはそれ以上の諸条件を妥当させて考えることができる。