前に斎藤幸平を参照しつつ述べたようにマルクスは二つの「富」を区別している。(1)は「ブルジョア的富」。(2)は「協働体的富」。
(1)「一見するところブルジョア的富は、ひとつの巨大な商品集積としてあらわれ、個々の商品はこの富の原基的定在としてあらわれる」(マルクス「経済学批判・P.21」岩波文庫 一九五六年)
(2)「共産主義社会のより高度の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのちーーーそのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.38~39」岩波文庫 一九七五年)
「ゴータ綱領批判」のこの箇所は長い間、生産力主義として捉えられてきた。しかしマルクス自身が二つの「富」について明確に区別している以上、「ゴータ綱領批判」にある「協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでる」という部分はもはや生産力主義だと決めつけたまま押し通すわけにはいかない。けれども、もっともな批判として「経済学批判」のマルクスは中期の考え方であって晩期の「ゴータ綱領批判」と同一のテーブルで論じるわけにはいかないという主張もあるだろう。
だとしても、では晩期マルクスの主著「資本論」はどうだろう。冒頭すでにこうある。
「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの『巨大な商品の集まり』として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第一節・P.71」国民文庫 一九七二年)
「社会の富は、一つの『巨大な商品の集まり』として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われる」とあり、商品はすでに「形態」化された「ブルジョア的富」だと言っているのとまったく違わない。そこで斎藤幸平の議論を参照しつつ、生産力主義からの脱却を図ってみる。なお「協働体的富」が「コモンとしての富」を意味しているのはもはや自明である。
「『コモンとしての富』をより高次の形で再建することを目指すならば技術の発展は不可欠だ。けれどもそのような生産力の増大を浪費のために使う資本主義とは異なり、脱成長コミュニズムは無限の経済成長を目指すのを止め、贅沢な消費を促すような部門の生産を減少させるための社会計画と規制を導入する。その代わり、基本的なサービスの脱商品化や公共支出を通じて『コモンとしての富』を拡張していくことによって、人々は、長時間働いたり昇進したりすることで、より高収入を常に求めなくても、基本的な欲求を満たすことができるようになる。アトム化した際限のない競争へのプレッシャーを軽減していくことで、市場外での自由な選択の可能性を拡張していくのである」(斎藤幸平「マルクス解体ーーープロメテウスの夢とその先・P.351~352」講談社 二〇二三年)
さらに「ラディカルな潤沢さ」とはなんだろう。
「ジェイソン・ヒッケルは、『コモンとしての富』に内在する潤沢さの形態が、絶えざる技術革新と大量生産・浪費に基づいた『ブルジョア的富』の形態とは《ラディカルに》異なることから、それを『ラディカルな潤沢さ』と名付けた。『共同の贅沢』と『ラディカルな贅沢』は、消費主義的な仕方で、潤沢な財を私的所有として無制限に貯め込もうとする態度とは一線を画す。これこそマルクスの考える『協同的富』の湧き出る豊かさのモデルなのだ。そうでなければ、コミュニズムは、単に、富のブルジョア的な形態を維持し、資源の浪費によって、自然環境のさらなる劣化に寄与するだけだろう」(斎藤幸平「マルクス解体ーーープロメテウスの夢とその先・P.349~350」講談社 二〇二三年)
「資本論」のマルクスがいう次の有名な箇所。
「社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余価値の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行われるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合〔アソシエート〕された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第四十八章・P.338~339」国民文庫 一九七二年)
これまでは生産力を無限増殖させることによって始めて「真の自由の国が始まる」と読まれ続けてきたけれども、斎藤幸平が論じる「ラディカルな潤沢さ」と「脱成長コミュニズム」の観点を導入すると決してそうとばかりは言えなくなる。むしろ「『必然性の領域』を大きく縮小することが可能」になる。斎藤はいう。
「『ラディカルな潤沢さ』と『脱成長コミュニズム』の観点からすると、『自由の国』の拡大は、生産力の絶えざる増大に依存する必要はない。むしろ、資本主義の人工的希少性が克服されれば、人々は、『コモンとしての富』の拡大のおかげで、お金を稼がなければならないという恒常的な圧力から解放され、生活の質の低下を心配することなしに働く量を減らすという魅力的な選択肢を手にすることができるだろう。具体的には、教育、医療、公共交通機関、インターネットなどを無償化し、水、電力、住居の公営化を進めていくことで、商品や貨幣への依存は下がり、自由な選択肢が増えるのだ。
ヒッケルもこの点を指摘している。『人工的な希少性の圧力から解放された時、増え続ける生産性を競うという人々の強迫観念は消え失せるだろう。私たちは、増え続ける生産、消費、環境破壊のジャガーノートに、自身の時間とエネルギーを費やす必要はなくなる』。市場競争と資本蓄積への果てしない圧力がなければ、自由にアソシエートした労働によって、一日の労働時間をわずか三~六時間にまで短縮できるかもしれない。そうなれば、人々は余暇やスポーツ、勉強や恋愛といった非消費主義的活動に十分な時間を割くことができるようになる。言い換えれば、賃労働に従属することなく、より安定した生活を送ることを可能にするような『共同の贅沢』を回復することによって『必然性の領域』を大きく縮小することが可能なのである」(斎藤幸平「マルクス解体ーーープロメテウスの夢とその先・P.353~354」講談社 二〇二三年)
意図的に細かく切り刻んでわざと作り出したつもりの無駄な仕事ばかりばんばん増やして見た目の失業率を下げて見せるだけでなく、あからさまにしらじらしいフェイクを本当にやらかして大自慢して見せるばかりのうぬぼれ日本政府の見え透いた手品。そこまで馬鹿げたことを延々いつまでもわざわざ信じ込んで低賃金過労すれすれ労働のカルト信者を演じてやっている必要はもはやないとおもうのである。