白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ193

2023年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十一月二十五日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

来客中にそろそろと顔を覗かせては椅子の影へ引っ込み、また顔を覗かせては椅子の影へ引っ込む。二度ほど繰り返したあとお客さんへすたすた近づきくんくん鼻先を持っていったのはコーヒーの香りに釣られてではない。二代目タマは初代と違ってぜんぜん人見知りしない。お客の手に鼻を持っていき、さらには相手の指に鼻先をくっつけた。

 

嗅覚で相手の身元を特定しようというのではなくすでに自分の匂いをせっせとこすり付けてテリトリー拡張にいそしみ始める。さいわい今日のお客は大の犬猫好きで自分も子どもの頃からずっと飼ってきた後期高齢者ということもあり、猫のテリトリー拡張行動へすっかり身をゆだね、その傘下へ編入されつつあることを重々承知でタマのやりたいようにやらせてくれた。「人↔︎猫」交通/交換にとってはとてもありがたい。

 

飼い主として厳密にいえば、「人↔︎人」コミュニケーションと混同するのは妥当でないと考えるからでもある。人間と動物の認識論では一致する部分とどこまで行っても異なる部分と両方あるため、ただ単なるコミュニケーションというより両者のあいだで常に不均衡かつ遂に重なり合うことのない残余をめぐる「交通/交換」が逆に可能性として有意義な距離を出現させてみせ、どちらにとっても素直に可視化されて話が早い。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ユール。その2。「XWX」。アルバムタイトルだけを見れば「SOFTSCARS」なのだがこの傷(楽曲)の痛々しさはかなり深々。もっともどの楽曲もPTSDレベルなのだろうと想いはすれど、それでも「SOFT」といえるのは「Don’t Mind」という詐欺にも等しい(マインドコントロール的)励ましではまるでなく、何も知らない大人が上手いとか下手とか理解しかねるとかいうおぞましい価値基準を安易に持ち込んでくる致命的勘違いほどには痛くないからなのかもしれない。


Blog21・繰り返し脅迫する年金「五年延長《報道》」

2023年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

難治性精神障害者とともに暮らす家族としては不用意に底知れぬ不安を煽り立てつづけ、まったく何の必要もないのに気づけばすでに戻ってこれない「あちら側の人」へ追い詰め追い込んでしまうことのないよう、来る日も来る日も慎重を期しているわけだが。

 

しかし逆に「必要がある」場合も時にはあるのかだろうか。そういうことはスターリニストやイスラエル極右政権支持者らに直接聞けばいい。答えてくれればの話だか。

 

国民年金「五年延長《報道》」。

 

日本政府の「飼い犬」と化して久しい巨大マス-コミ暴力機構が低所得者層をサンドバッグ代わりに背後からこっそり近づき一挙に叩き下ろす金属バットと頭蓋骨が壊れる聞き慣れない音。悲鳴一つ上げる間もない。だからといって、誰にも気づかれないで済まされるだろうか。もちろん済まされない。隈なく張り巡らされた監視カメラだらけの世の中だ。

 

誰かしら周囲の人々が目の前で見ている場合もまた多い。これまでじわじわ視聴者に向けて何度も繰り返し精神的リンチを加え続け、いったん止めてはまた始めてみて様子をうかがう陰湿この上ない「いじめの構造」。日本が世界に誇る「伝統」の一つ。「お家芸」の一つ。もうかなり追い詰められて苦悶している人間が増えてきていた昨今。しかし十一月二十一日放送のテレビ。あれは決定的だった。少なくとも難治性精神障害者の当事者たる妻にとって。

 

二十一日から二日あけてもう我慢の限界。昨日のことはすでに述べた。妻の心はすでに折れていた。

 

家に帰って一日ゆっくり休むしかない。とうぜんぐっすり眠り込んでくれた。翌朝起きた時、もう十年近くきまりきまった電話対応だけでしかないにせよ、五分ばかりなら口をきける程度には、少しは持ち直していたようだが、一度ああいう精神症状を引き起こしてしまうと回復の見込みはますます遠ざかってしまう。患者家族にとってはほとんど始めからやり直しだ。といってもその始めというのは発症当時の症状とはまるで異なる症状へ置き換えられた新しい始まりなのであって、これまでの妻の心とはまた違ってしまっている。

 

テレビ局というのはあれほど荒れ放題ですさみきった無神経この上ない人間の巣窟なのだろうか。これまでもずっとそうだったのだろうか。呆れ果てる。

 

今日は家にお客があった。短時間だったのでそのあいだ妻は同じ部屋で同席していて大丈夫だったのだが、お客を送り出すさい、なんと玄関で急にぺたりと座り込んでしまった。両手で顔を覆っている。たった三日ほどでここまで急変してしまうと現状維持だけでも患者家族はヘヴィ級のメンタルがなくては務まらない。これまでもそうだった。なので幾らかの方法は持っているつもりだ。しかし逆にテレビ局はどうなのだろう。できるのだろうか、たかがテレビ局に。何万人何十万人の視聴者の脳が壊れれば壊れるほど盛り上がり、身内だけのそらぞらしい場で喜び合い笑い合い、安給料を懐に入れるだけで何か一つでもやってみせたかのように思い込めてしまうさもしい人間に。何万人何十万人の視聴者に向けてできるのだろうか。できるとして、何を、いかに。知りもしない人間の切れ端が。

 

より深刻な問題がある。テレビは、そんな報道をしらじらしく流しておく一方、ほかにまったく馬鹿馬鹿しい、あってもなくてもどうでもいいような番組ばかりばんばん打ち出し、肝心なことは覆い隠してしまうのが常だ。ずっと昔からそうだったし今なおそうだ。おそらくこれからも。荒涼たる内面を丸見えにして何がそんなに面白いのだろうか。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて618

2023年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は藤野「温めて食べるおぼろ豆腐」。冷え込んだ朝にはちょうどいいらしい。三分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、付属のたれをかけ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずは白菜の漬物。

 

漬物は浅漬けよりさらに塩分をきった程度。タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたもの。

 

昨日夕食。

 

(1)ナスのお澄まし。これは自宅で調理。OK。

 

(2)よそで買ったご飯。どちらかといえば「寿司系」で一種の「かに寿司」を謳ってはいるものの、あまりに細かくかろうじて見えるかどうかの蟹の粉々をちらほらまぶしただけという珍品。にもかかわらずご飯に染み込んだ酸味が酸っぱ過ぎて食べられない。戻しそうになったため母は無言で箸を置く。失格。すみやかに息子のお腹で残飯処理。

 

(3)問題点。このような世帯は日本にわんさとあるわけだが、どうして厚労省は効果的かつ具体的対策一つ打とうとしないのか。鮮魚類の闇ルートもこれまたわんさとあるわけで、わざわざ見逃してやらざるを得ない事態を慢性化させてはばかるところを知らない所轄官庁は言うに及ばす。いつもふしぎな各地方自治体の「やったふり水際散歩」。さらにどこからどう見ても国家公安委員会がとしか思えない「カネ次第容認体質」という日本の根強い「お家芸」。

 

とはいえ知る限りでいうと、滋賀県から比較的近い岡山県や鳥取県の漁港のすぐそばに点在するほんの一部の良識的鮮魚店や寿司店はその限りでない。しかもこのような良識的個人事業者は小さな店舗で営業しているためネット検索してもほとんどヒットしない。地元地域に在住する皆さんのこつこつ根気ある応援のもとで始めて成立している希少価値ゆえかえって倒産することもない。いわんや京都・大阪・奈良・神戸などで大威張りの有名料亭・有名レストランとは何ら関係がない。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はスタン・ゲッツ「YOU STEPPED OUT OF A DREAM」。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ192

2023年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十一月二十四日(金)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

今日(二十四日)は何かとせわしない一日だった。これがもし三ヶ月前なら心配したに違いないが、子猫とはいえさすがに八ヶ月にもなると何かとおっちょこちょいな二代目タマでさえそこまで「幼稚」でない。おとなづらした「幼稚園児たち」のパレスチナ空爆になど関心ひとつ持たない。猫というのはふつうの「おとな」と単なる「おとなづら」とを瞬時に見分ける。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー。その2。最新作「Again」についてこう述べた。エレクトロニカ-サウンドコラージュ系作品を始めて聴く一般的リスナーには一体どこがYMO散開後の坂本龍一&カーステン・ニコライ作品とどこがどう違うのかさっぱりわからないに違いない。しかしそのことにこそサウンドコラージュとは何かを知るいいきっかけになると言えるのはどうしてか。ぜひ体感し自身の体で確かめてみてほしい。

 

と書いた。

 

にしても実を言うと「Again」単体では序の口あるいは宵の口に過ぎない。ところが音楽が日本へ入国するにあたりそんなことすらあまりにも知られていなさ過ぎるのはなぜか。日本の音楽業界四団体が笑い転げ泥酔し長々と居眠りを決め込んでいられる巨大既得権益に関するデジタル警察化を果たしたばかりか、アップデートされ不可視化した実質スターリニズムへの転倒を打ち重ね、一般市民視聴者層には考える暇(いとま)ひとつ与えず無制限この上ないデジタル公安活動へいつでもリンクできうる思いもよらぬフリーパスを手に入れてしまったから、である。音楽への不自由を自由と錯覚したまま平気でいられる国家風土もここまでくれば珍しい。独占禁止を目指しつつ過剰競争を抑止するアソシエーション(協同社会)へのイノベーションとはまるで異なる空理空転ばかりわざわざ繰り返す常に不可視なソ連型ホスピタリゼーション(政治的強制入院)が一般市民視聴者層には課されている。

 

とまあ言ってみることができたとしても「Again」単体では序の口あるいは宵の口に過ぎないことに変わりはない。さてそこで面白いことにこんな曲もある。「KRUMVILLE」。英国流トラッドというよりそこはかとなく米国流フォークな香り。なぜだろう。しかしそこにワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの「故郷」を見出したとするのは構造的筋違いの早とちりだということを見出さないと見えるものも見えてこない。そのキャリアの始まりは長く耐え難かった「故郷」での苦痛だからだ。