二〇二三年十一月十日(金)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。
昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。
夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。
今日は飼い主自身の診察日。飼い主のちょっとした間違い一つで飼い猫はあっけなく致命的生存環境へダイレクトに転落する。精神医療にかかってもう二十八年以上になるがいつも繰り返し思うことは言葉とその使い方。きわめて微妙な身体の動き一つでさえそれはすでに言語である。主治医との定期的な対話はひょんなことから予想もできなかった治療環境の新局面を切り開いてくれる。
かといって今の若年層の少なくない部分が色々言っているように精神科にかかったところでマニュアル通りか予想通りの答えしか返ってこないというのは事実である。事実だがそれは事実のほんの一面でしかない。通院一年半くらいの患者では若年層に限らずしばしばあるありふれた事実の一片に過ぎない。強制的措置入院ではなくあくまで対話を主軸に置いた精神医療というのは一朝一夕にどうこうなるものではてんでなく、まずはどこにでも転がっていそうな雑談ができるようになるまでゆっくりとした構えで待つことが大事だと言われているし実際にもそうとおもう。ほとんど言葉一つ発することができないままの状態が予想外に長引く自閉症者の場合などは少し言葉をかけられただけで逆にさらに自閉的になってしまうことは何ら珍しくない。
で、なぜ対話なのか。逆説的な言い方しかできないけれども、主治医と患者との間にあらかじめ同一価値を前提するわけではなく、対話を通して、主治医と患者との間にあるのは別々の価値体系であるということが通じ合ったとき、そのとき始めて出現する相互理解というものがあるからである。一致できないのなら一致できないという点で一度は一致し合ってみる。そこで医師の側も患者の側もだんだん話がずれていく。ずれていけば無理やり話を押し戻すことなくずれた日はずれるに任せる。次回の診察でまたずれから始まればまたずれるがままに任せる。プロの医師なら話がずれようがずれまいがそれもまた治療関係としてゆっくり捉える。とはいえ人間関係であることに変わりはない。医師と患者との相性というものは必ずある。どうしても合わない場合は無理に合わせる必要は全然ない。
また、話がどんどんずれていくほうがかえって面白いと考えている精神科医は案外多い。逆に初回から医師と患者との間で価値観がまるきり一致して盛り上がるようであればそれこそ精神科領域の患者ではないか医師も患者もともにどこかおかしいのである。ウィトゲンシュタインのいう家族主義的「言語ゲーム」を取り戻したいと切に願いつつ通院する人々もいるし、逆に強権的な家父長制度の中で生じてきたアルコール・薬物・ゲーム・スマホ依存者を家族の中心的位置に持つ人々のようにウィトゲンシュタインがもう一つ提示する非=家族主義的「言語ゲーム」へ移動可能な他者の世界とも価値観を分かち合える形で生きていきたいと切に願いつつ通院するケースもある。ゆえに対話なのであり、もっと言えば常にずれを含みながら少しずつ変化を模索し合う対話なのだとおもっている。
黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。オラクル・シスターズ。ノスタルジックでシンプルでどこか夢見心地のゆるいロックを聴かせる。その2。