白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ178

2023年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十一月十日(金)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

今日は飼い主自身の診察日。飼い主のちょっとした間違い一つで飼い猫はあっけなく致命的生存環境へダイレクトに転落する。精神医療にかかってもう二十八年以上になるがいつも繰り返し思うことは言葉とその使い方。きわめて微妙な身体の動き一つでさえそれはすでに言語である。主治医との定期的な対話はひょんなことから予想もできなかった治療環境の新局面を切り開いてくれる。

 

かといって今の若年層の少なくない部分が色々言っているように精神科にかかったところでマニュアル通りか予想通りの答えしか返ってこないというのは事実である。事実だがそれは事実のほんの一面でしかない。通院一年半くらいの患者では若年層に限らずしばしばあるありふれた事実の一片に過ぎない。強制的措置入院ではなくあくまで対話を主軸に置いた精神医療というのは一朝一夕にどうこうなるものではてんでなく、まずはどこにでも転がっていそうな雑談ができるようになるまでゆっくりとした構えで待つことが大事だと言われているし実際にもそうとおもう。ほとんど言葉一つ発することができないままの状態が予想外に長引く自閉症者の場合などは少し言葉をかけられただけで逆にさらに自閉的になってしまうことは何ら珍しくない。

 

で、なぜ対話なのか。逆説的な言い方しかできないけれども、主治医と患者との間にあらかじめ同一価値を前提するわけではなく、対話を通して、主治医と患者との間にあるのは別々の価値体系であるということが通じ合ったとき、そのとき始めて出現する相互理解というものがあるからである。一致できないのなら一致できないという点で一度は一致し合ってみる。そこで医師の側も患者の側もだんだん話がずれていく。ずれていけば無理やり話を押し戻すことなくずれた日はずれるに任せる。次回の診察でまたずれから始まればまたずれるがままに任せる。プロの医師なら話がずれようがずれまいがそれもまた治療関係としてゆっくり捉える。とはいえ人間関係であることに変わりはない。医師と患者との相性というものは必ずある。どうしても合わない場合は無理に合わせる必要は全然ない。

 

また、話がどんどんずれていくほうがかえって面白いと考えている精神科医は案外多い。逆に初回から医師と患者との間で価値観がまるきり一致して盛り上がるようであればそれこそ精神科領域の患者ではないか医師も患者もともにどこかおかしいのである。ウィトゲンシュタインのいう家族主義的「言語ゲーム」を取り戻したいと切に願いつつ通院する人々もいるし、逆に強権的な家父長制度の中で生じてきたアルコール・薬物・ゲーム・スマホ依存者を家族の中心的位置に持つ人々のようにウィトゲンシュタインがもう一つ提示する非=家族主義的「言語ゲーム」へ移動可能な他者の世界とも価値観を分かち合える形で生きていきたいと切に願いつつ通院するケースもある。ゆえに対話なのであり、もっと言えば常にずれを含みながら少しずつ変化を模索し合う対話なのだとおもっている。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。オラクル・シスターズ。ノスタルジックでシンプルでどこか夢見心地のゆるいロックを聴かせる。その2。


Blog21・労働と二つの自然

2023年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム

地球のどこでも「自然」が人間に対して優しいところだとは限らない。むしろ事情は逆である。ホッファーは厳しい肉体労働者生活の長さゆえ「自然」の冷酷さを骨身に沁みて知っていた。「私は自然の中で安らぐことはできなかった。足が舗装道路を踏みしめるまで、私の心は安らぎを覚えなかった」。

 

「私は渡り農夫、造材人夫、砂金鉱夫としてかなり長い間自然に密着した生活をしてきた。私は母なる自然から冷たいしうちをうけ、自分は目ざわりな存在なのだと感じさせられた。私はありとあらゆる虫に刺され、毬や棘にかき傷をつけられた。私の衣服は引き裂かれたり、からまったりした。横になって休もうとすると堅い土が身体をいためつけ、垢が毛穴の一つ一つにくいこんだ。周囲のものすべてが、起きて去れ、と絶え間なく命じていた。私は好ましからざる侵入者であった。木や花や鳥は人間の居住地で、都市でさえ、安住しているのに、私は自然の中で安らぐことはできなかった。足が舗装道路を踏みしめるまで、私の心は安らぎを覚えなかった。道路は都市に通じていた。人間にとっては都市という人口の世界がこの地球上で唯一の安住の場であり、冷酷な非人間的宇宙からの避難所であることを、私は身をもって知ったのである」(ホッファー「初めのこと今のこと・P.35」河出書房新社 一九七二年)

 

人間は「自然」という「冷酷な非人間的宇宙」を「加工する」ことで始めて安住の地を手に入れた。けれどもただ単なる技術礼賛ではない。逆に「自然に還れ」というわけでもない。「元に戻せる」という条件付きである限りで、技術の発展を否定しない。

 

ただ、高度テクノロジーによる「自然の征服」は人間の「内なる自然」の暴虐性を解き放ってしまう。解き放たれた人間の「内なる自然」の暴虐性はたちまち自分自身が暴君と化していることを見ようとしない別物に変えてしまう。ゆえに人間の「内なる自然」を「加工」することへの配慮をも論じるのである。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて603

2023年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は京とうふ藤野「鍋とうふ」。1パックの四分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食はエビ天うどんを八分くらい。エビ天は衣を剥がして中身のエビを食べる。お揚げは半分ほど。薬剤を新しいセットに切り換えてから徐々に慣れてきたようには思える。しかし何か食べて「おいしい」と感じることができる時期が来ることはおそらくないだろうとしか言えない。さらに末期癌では通例とされているように全身倦怠感はなかなか改善せず今のところこれといった決定的治療薬もない。

 

また患者家族に向けてだが、どのマス-コミを見ても「何か気分転換を」と繰り返しいう。聞いていて「何をいまさら」と感じる。癌治療に限ったケースではないので「いまさら感」はますます倍増してくる。癌治療だけでなく、特段に「気分転換」の必要性が強調される鬱病治療だけでもなく、外科内科精神科を問わず実際の医療現場では必要とされる「気分転換」の有効な方法が長年模索され実践されてもきた。しかし一定程度の効果が見られるケースというのはほんの僅か。ほとんどが重症化していない場合に限られてしまう。

 

患者家族がアルコール依存症と慢性うつ病の両方を患っており、家族が癌患者の場合、このブログがそうであるように、実際のところこの程度のお粗末なブログ作成とわざわざ時間を作ってできる楽器演奏だけでもう精一杯。しかし試しにマス-コミがいうように「気分転換」のためだけにどこかの劇場や映画館へ行くとしよう。どれくらいのお金がかかるか。マス-コミも政府も国民からお金を搾り上げることにばかりかまけている一方で、自分たち自身がどこでどんなふうに失敗を繰り返し演じてきたかの検証一つしようとしない。ある首相が「経済政策」に力を入れるという。たちまちマス-コミは今度は「経済政策に力を入れると言った」と大声で喚き立てる。政府もマス-コミも一緒になってこれまで何度失敗してきたことか。もっとも、いわゆる「Z世代」の若年層はその実態がどれほど偏った悲惨な失敗の繰り返しだったかほとんど知らされていないわけだが。

 

どんな人間であれ肝心の現在を見ようとしない場合、過去へも未来へも真面目に向き合うことは決してできない。にもかかわらず過去へも未来へも真面目に向き合う作業から逃亡し続けてきたし今なお逃亡している人々が「未来ある子どもたちのために」と平気で口にしている。かえってしらける。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「VERY EARLY」。