白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・宝塚歌劇団とイスラエル極右政権「排除の構造」

2023年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

宝塚歌劇団劇団員「急死」問題とイスラエル極右政権による「ガザ空爆」との共通点。「排除の構造」はこうして起こる。以下、再録。

イスラエルは絶滅対象の無限の系列を持っている。この構造は排除の構造と大変よく似ており基本的には同じものだ。イスラエルにとってはお馴染みの貨幣抽出の原理を妥当させるだけで事足りる。

 

(1)価値形態2。

 

「B 《全体的な、または展開された価値形態》

 

z量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

 

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)

 

(2)価値形態3。

 

「C《一般的価値形態》 

 

1着の上着      =

10ポンドの茶    =

40ポンドのコーヒー =

1クォーターの小麦  = 20エレのリンネル

2オンスの金     =

2分の1トンの鉄   =

x量の商品A      =               

等々の商品      =

 

このあとのほうの形態、すなわち形態3が最後に商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えるのであるが、それは、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から除外されているからであり、またそのかぎりでのことである。したがって、一商品、リンネルが他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的に社会的な形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態をとっていないからであり、またそのかぎりでのことなのである。反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。もしもリンネルが、すなわち一般的等価形態にあるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役立たなければならないだろう。その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネルとなり、それは価値も価値量も表わしていない同義反復になるであろう。一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態3を逆にしなければならないのである。一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。こうして、いまでは展開された相対的価値形態すなわち形態2が、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われるのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.123~130」国民文庫 一九七二年) 

 

(3)価値形態4。

 

「D《貨幣形態》

 

20エレのリンネル  =

1着の上着      =

10ポンドの茶    =

40ポンドのコーヒー = 2オンスの金

1クォーターの小麦  = 

2分の1トンの鉄   =

x量の商品A                      

 

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫 一九七二年) 

 

(4)社会的全体的排除。

 

「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫 一九七二年)

 

(5)有徴性による覆い隠し。

 

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫 一九七二年)

 

全体一致で排除された商品「金」は特権的な有徴性を打刻される。徴(しるし)付きとしてあるいは永遠に呪われた有罪者として世界市民の中で取り扱われていくほかない。ところが有徴性=徴(しるし)付きの特権性ゆえに、有徴性=徴(しるし)付きという特権性が、逆にこの排除過程を全面的に覆い隠してしまう。

 

排除の構造は古代社会には影も形もなかった。ユダヤ教やイスラム教やキリスト教発生の時代に見られる宗教闘争の産物では全然ない。ここ二五〇年ほどの間に出現したばかりの近代資本主義の産物にほかならない。最初に狙い撃ちにされたのがイスラエルの民。第二次世界大戦後はイスラエルが狙い撃ちする側へ転倒した。

 

もし今のパレスチナが仮に「日本」という名の土地だったとしよう。イスラエルの圧倒的軍事力によってたびたび軍事侵攻され追い詰められ、逆上した人々の中から幾つもの過激派が出現し「特攻隊」を編成し何度も繰り返し自爆テロを敢行し、大規模な反撃行動の場合は捕虜に獲ったイスラエル女性を脅迫して「従軍慰安婦」を編成し、終わりのない二元的軍事対立の泥沼へ突き進んでいた可能性は十分に考えられる。また、排除の構造で商品「金」の位置、有徴性=徴(しるし)付きの位置に入る人々はいつも同一とは必ずしも限らない。今の世界では大量の「移民」が世界中で排除対象として取り扱われていることは誰もが知っている通りである。

✻注 <宝塚歌劇団「急死」記者会見>で「お金を生むお金」と述べたのは、以上「排除の構造」を念頭に置いたもの。 


Blog21・ジェノサイド(大量虐殺)で儲ける人々

2023年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

軍事侵攻を止めようとしないばかりかハマスの軍事拠点などでは全然ない病院でジェノサイド(大量虐殺)。パレスチナを何度も繰り返し穴ボコだらけにして不動産業界、建設業界、道路工事、自動車産業等々、大喜びさせて恩を着せて回るイスラエル。それでもなおユダヤ系金融の信用手形が機能しているのはなぜだろう。というよりそういうことをやってくれるからますます手厚く保護され歓迎される信用とは一体なんなのか。資本主義を学ぶためのこの上なくわかりやすい教材ではある。しかし「旧約聖書」と近代以降の「シオニズム」とはまるで関係がない、後から捏造したでっち上げに過ぎないということを今さら改めて世界中に教えて回って何がしたいのだろう。

 

「《俳優の問題について》。ーーー俳優の問題は、きわめて永いこと私の心にかかっていたものだ。これを手がかりにしてこそ、『芸術家』という際どい概念ーーーこれまで赦せないほどの親切気をもって取り扱われてきた概念ーーーに近づけるのではないかどうかについて、私としては確信がもてなかった(いまだ時折は確信がなくなる)。良心の咎めもない虚偽とか、権力として奔出し、いわゆる『性格』を押しのけ、これを覆うて氾濫し、時としてはこれを払拭してしまうような、偽装への悦びとか、ある役割や仮面や《まやかし》といったものを切望する内的な要求とか、手近の目先だけの利益に仕えることにはもはや満足できないあらゆる種類の適応能力の過剰とか、こうしたことのすべては恐らく《ひとり》俳優《だけ》に限られたものではあるまい?ーーーそういった本能は、下層民衆の家庭のなかで、一番やすやすと造りあげられるものだろう。彼らは、つぎつぎに蒙る圧迫や強制の下にあって、どん底の隷属生活を送らなければならず、その境遇に従って臨機応変に身を処し、新しい事態にはつねに新しく順応し、くりかえし違った身振り素振りを見せなければならない。そこから次第に彼らは、風の《まにまに》マントを着流し、そのためマントそのものに化けてしまうほどにもなり、動物にあっては擬態と呼ばれるあの不断の隠れん坊遊びの化身そのものみたいな技術の名人とまでなれるようになる。こうしてついには、累代にわたって蓄積されたこの全能力が専横になり、やみくもなものになり、始末に負えないものにすらなって、それが本能と化して他の諸本能に命令を下すようになってしまう、かくして俳優を、『芸術家』というものを、生み出す次第だ(おどけ者、茶番役、おとぼけ野郎、阿呆者、道化役者を手はじめに、典型的な従僕、ジル・ブラースを生みだす。結局、こういうタイプの者のなかに、芸術家の前身が、のみならず実にしばしば『天才』の前身が、うかがわれるのだ)。もっと程度の高い社会的諸条件の下にあっても、以上のと似通った圧迫があるところには似通った種類の人間があらわれる。ただそういう場合には、たとえば『外交官』におけるように、大抵のところ俳優的本能が他の本能によってまだまだ抑制されている、ーーーさもあれ、有能な外交官ならば、もし事情がこれを『許す』となら、いつなんどきなりと意のままに立派な舞台俳優にもなれるだろう、と私には思われる。だがしかし、あの卓越した適応の技倆を身につけた民族である《ユダヤ人》に関して言えば、これまで述べた考え方に従うかぎりわれわれは、彼らのうちに前々から俳優訓育のための世界史的準備、本来の俳優孵化(ふか)場といったものを、見てとることができよう。のみならず次の問いこそはまことに時宜に適したものだーーー今日すぐれた俳優でユダヤ人ーーー《でない》ものなぞいるだろうか?さらにユダヤ人は生まれながらの文筆家として、ヨーロッパ新聞界の事実上の支配者として、この面での彼らの力を、その俳優的能力に基づいて発揮している」(ニーチェ「悦ばしき知識・三六一・P.415~417」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

無惨に空爆されたガザの病院はハマスの拠点にされている。そう伝えなかったマス-コミを見つけることのほうがはなはだ難しい。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ184

2023年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十一月十六日(木)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

今日で生後八ヶ月ほど。朝方コーヒーを淹れようとリビングを覗く。タマはソファで寝そべっている。近づけばお腹を見せて甘えたそうな感じでもある。構ってやりたいと思ってもスケジュールがあれこれ入れ換わり午後も時間を取れそうにない。遊んでやらないと最近は布団の上に乗っかってきて布団を爪でひっかく。一方、椅子の上で勝手に居眠っている時間が確実に増えた。なぜだろう。落ち着きが出てきたのかそれともただ単に怠惰になっただけなのか。どことなくアンニュイな雰囲気は身に付いてきたようだ。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。アイドリス・アカムーア。アフロ・フーチャリズムがじわじわ盛り返してきているらしい。その2。


Blog21(ささやかな読書)・脱成長コミュニズム4

2023年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

斎藤幸平が提示する「脱成長コミュニズム」のグランドデザインには旧来のマルクス理解とは異なる「相互扶助的」な色合いをこれまで以上に読み取ることができる。「相互扶助」。しかし、どんな?

 

クロポトキンの名を上げているがクロポトキンにこだわる必要はあまりなく、さらに「アナーキズム」というより「アナーキストたち」が考えてきた、というのがふさわしい「相互扶助」を意識しているようだ。引用したい。

 

「マルクスは、画一的な平等社会を求めているわけではない。むしろ、個人間の能力や才能の自然的・社会的な差異が、社会的・経済的不平等として現れるのではなく、相互に補完し合い、個人のユニークさとして現れるような社会を構想していた。ある人がうまくできないことーーー全面的な発展にもかかわらず個人の能力差は残るーーーは、他の人がうまくできることかもしれない。運動が苦手だが、プログラミングが得意な人もいれば、歌が苦手だけれど、農業が得意な人もいる。そして、自分が得意なことで、代わりに他の人を助けることができる」(斎藤幸平「マルクス解体ーーープロメテウスの夢とその先・P.351」講談社 二〇二三年)

 

というふうにである。

 

前に一度触れたが「個人的」とはどのような形を言っているのか。斎藤はマルクスから次の二点を参照している。

 

 

(1)「資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である。この否定は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有をつくりだす」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.438」国民文庫 一九七二年)

 

(2)「コミューンは、多数者の労働を少数者の富とするところの、あの階級的所有権を廃止しようとしたのである。それは、収奪者の収奪を目指したのである。それは、いまでは主として労働を奴隷化しこれを搾取する手段となっているところの生産手段、即ち土地と資本とを、単なる自由で且つ協力的な労働の要具に転化することによって、個人的所有権を一個の真実とすることを欲したのである」(マルクス「フランスの内乱・P.102~103」岩波文庫 一九五二年)

 

(2)で「自由で且つ協力的な労働」とあるのは「自由でアソシエートした労働」と述べても基本的意味は変わらない。アソシエートというのは「共同的」でも「協働的」でもどちらでも構わないとおもう。議論としてはまるで同じ。ただ、おそらく誰もが気にしないわけにはいかないことは「実践するとすれば」どのような形になるのかよくわからない、あるいは理解しかねるという点だろうとおもう。たまには真面目に読書しようとおもい、この前後は大事だろうと何度か読み返してみたわけだが実際のところどうなるのかまではよくわからない。かといって今の日本政府が矢継ぎ早に打ち出している新憲法草案のような文章と比較して抽象的かと言われればそうではないと思うし、むしろ相互扶助的な社会というのは幾多の有名なアナーキストたちの名前にもかかわらず滅茶苦茶でもなければ騒々しいわけでもない。斎藤はいう。

 

「ある人がうまくできないことーーー全面的な発展にもかかわらず個人の能力差は残るーーーは、他の人がうまくできることかもしれない。運動が苦手だが、プログラミングが得意な人もいれば、歌が苦手だけれど、農業が得意な人もいる。そして、自分が得意なことで、代わりに他の人を助けることができる」。

 

個人的な思い出を少しばかりしてみよう。実はほぼそっくりの共同生活を体験したことがある。いつどこでか。すでに二十五年前。専門病院のアルコール病棟で治療に入っていた際、一時的に鬱病が悪化した。発作的な鬱病の辛さは周囲があまりにも騒々しい時に二週間ほど(個人差あり)重症化する。そこで主治医に申し出ていったん静かな病棟へ移動させてほしいと希望したら統合失調症で長期入院している患者ばかりがほとんどを占める病棟へ転棟することになった。その時のことだ。滅茶苦茶でもなければ騒々しいわけでもない。世間一般の妄想とはまるで違う。静かだ。

 

統合失調者をアナーキストに見立てているわけでは全然ない。政治的なアナーキストのようでは全然ないということだ。そもそも薬物療法でおとなしくなっているだけではないかというのもこれまた間違い。日当たりのいい日などはふつうに外出して喫茶店でお茶して、ついでに買い物を済ませ、あたりまえに帰ってくる。それでも二十年の長期入院というケースはざらにあった。彼らに言わせると逆に外出するのが怖いという。

 

相互扶助的な印象というのはただ単に統合失調症を患う長期入院者がほとんどを占める病棟で二週間ほど一緒に暮らしたというだけでいっているわけでもさらさらない。病院というところは言うまでもなく患者だけがいるわけではなく看護する側の人間もいる。それぞれの主治医は当然いるけれどもほとんど干渉しない。たまに症状に変化が見られ、いつもの薬剤を別の薬剤へ置き換える必要が生じた時くらいのもの。患者は主治医だけでなく他の医師にも他の病棟の看護師にも他のまったく別の病棟の患者にも、気分が良好なときは声をかける。それも傍若無人とは正反対で相手の気持ちがどんなふうであるかを注意深く探ってみて、うん、今なら、と思える時に声をかける。多くの長期入院患者はそんなふうにかなりデリケートなものだ。少なくとも病院の外の世界、「言ったもの勝ち、やったもの勝ちの強姦主義」が平然とまかり通っている外の世界よりは遥かに健全であるようにおもう。

 

看護師のいない時間も場所もあるし、そんなときに何人かの患者の間で言い争いが起こることもたまにある。ところが今の日本社会のようにあちこちに監視カメラが設置されているわけではない。監視カメラというものがそもそもなかった。しかし人間関係というものはある。どこにでもあるように病院内でもある。患者どうしの間で、例えば「いじめ」に近いような言い争いが始まることもある。人間関係ゆえに。

 

面白いのは「いじめ」に近いような陰湿な声のやりとりが聞こえだすと、その件には直接関係のない患者らが自分の病室から出てきて声をあげる。「いじめんなよ!」。その声を聞きつけたさらに他の患者がベッドから一人二人と起きてきて様子を見に集まってくる。いわば「衆人環視」状態がたちまちできあがる。大勢が見ている。と、それ以上争いごとを続けることは誰にもできない。

 

なお、「自分が得意なことで、代わりに他の人を助ける」というのは説明するまでもなく、看護師と患者との相互関係を思い浮かべればわかりやすいとおもう。どちらが偉い偉くないなどというのはまったくの別問題である。そういう意味でなら相互扶助的な社会あるいは共同体というものが統合失調症を患う長期入院者がほとんどを占める病棟で、実際に営まれていた。今はもうあまり思い出すことがなくなったけれども、斎藤幸平のいう相互扶助的共同体をイメージしてみて、なんとなくあの頃の体験を思わせたのは単なる偶然だろうか。

 

彼らは外の世界が怖いという。しかしある程度回復の見込みが立ってくれば徐々に退院へ向けた作業へ気持ちを向け換えていく。最初はマニュアル通りに動くのがやっとだ。ところが徐々に、辛抱強く、帰宅あるいは作業所での仕事へ、新しく復帰していく。人間というのは不思議なもので、そこに希望を見ることができるのである。神格化する必要はない。わざとらしい神話を捏造する必要はもっとないだろう。遠い思い出ではあるけれども今なおそうおもう。


Blog21・不愉快だった記者会見

2023年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

不愉快な記者会見だった。おそらく多くの視聴者がそう思ったか少なくとも違和感をおぼえたのではと思う。宝塚歌劇団劇団員「急死」問題「記者会見」。

 

劇団側の発表に「驚いた」と発言する有名人・著名人。珍しく少しくらいはいるようにおもう。だが有名人・著名人はともかく、劇団側の発表を見た大量の国民の中にそこまで仰天して本気で腰を抜かすほどの「驚き」が果たしてあっただろうか。むしろ劇団側の発表というのは予想の範囲を決して越えない「そういうもの」であって想定外といえるほど踏み込んでいないと感じる。だからといって「そういうもの」として済ませてしまえばそれでいいという無邪気な話では全然ない。

 

劇団側はいう。

 

「強い心理的負荷がかかっていた可能性が否定できない」。

 

どれほど世界から周回遅れを繰り返してばかりの日本だとはいえ、二〇二三年にもなるとようやく国内で「自殺学」の専門研究が注目されるようになってきた。ここ数年の知見によれば「強い心理的負担」が自殺へ繋がるケースというのは案外誰にでも理解できるだろうけれども、その場合幾つかの条件があり(1)「責任感から周囲のお荷物になっているのではないか・あるいは周囲から浮いてしまっているのではないか」という「心理的負荷」、(2)「責任ある立場上、逆に周囲から孤立化する」という「所属感の衰弱」、(3)「孤独な状態が延々と続いていくこと」による「問題解消方法としての自殺」という選択肢の浮上、(4)「具体的行動」=「自殺」というパターンがおおむね当てはまるとされている。とすれば劇団側の主張「強い心理的負荷」の長期化による「具体的行動」=「自殺」ということは十分考えられる。というより想定できないほうがおかしい。

 

この場合、いわゆる「いじめ/暴言/誹謗中傷」が「一字一句まで」寸分違わず原告側の主張と必ずしも一致していなくても、そもそも自殺者を取り巻く「周囲の環境」ゆえ「強い心理的負荷がかかっていた可能性が否定できない」と認められた時点ですぐさま「加害者/被害者」関係は成立するか少なくともそう見なせる。欧米ではもっと以前からそうだ。それでも裁判が長期化してしまうのは政治的圧力や経済的負担に耐えられなくなった弱者の側が全滅するまで続く傾向があるからだと言われている。今回発覚した宝塚歌劇団不祥事の場合、政治的にも経済的にも劇団側が圧倒的優位に立っている。始めから不均衡この上ない。それでもなお被告原告ともに対等な立場であると無理にでも主張してしまえるような「環境」がぽつんと取り残されているは今どき「日本」や「北朝鮮」くらいのものだろう。

 

だがしかし、何も劇団側(あるいは阪急電鉄)ばかりを一方的に責めたいとおもうわけでもない。原告側が用いている用語は裁判で繰り返し用いられることの多いものばかり。「超過勤務」や「パワハラ」、場外からは「人を物扱いしている」など。裁判は永遠に続いていくかもしれない。そこで裁判とは距離を置いてまた別の価値体系の上で考えてみたい。

 

飛び降りて亡くなった故人の「身体」とは何だろうか。原告側からみればそれこそ家族であり人間である。ところが「労働」という言葉が出ている以上、劇団側からみれば飛び降りて亡くなった故人の「身体」とは何だったのだろうかと考えてみることは決して無益でない。人間であり労働力である事実は動かせないだろうが、それ以上に「お金を生み続けるお金」に見えていたということは十分あり得る。結果的にそうなったとしてもなお酷使したことに変わりはない以上、超過勤務時間があったことを認めている以上、そもそも人間であり労働力であるよりもまず先に「お金を生み続けるお金」に見えていたからこそとことん回転率ばかり上げて利益最大化へ加速し利潤のみを欲する傾向に拍車をかけることが可能になる。

 

歌劇団というより阪急電鉄そのものが今のところ新自由主義経済全面支持資本複合体である。人間であり労働力であるとすれば、「超過勤務」がどんな惨事を結果するかなどそこらへんをうろちょろしている中学生にでもわかるレベルの問題以前的前提だろう。ところが「芸事」というのは上達すればするほど「お金を生み続けるお金」へと限りなく近づく。もはやほとんど人間はいない。ますます加速すればするほど「人間不在」になってくる。「お金を生み続けるお金」と化しているがゆえに修復不可能なレベルを超えて壊れるまで何度も繰り返し回転率を上げていく。加速主義を導入して半壊状態に陥った大国アメリカがすでに世界的規模で実践・失敗してみせたではないか。全米で一挙に起きたあの惨劇を歌劇団はもとより阪急電鉄首脳陣が見ていないはずはない。目撃していなかったとは決して言えない立場でもある。

 

しかしもし「人間不在」だとすれば「労働力」はどこにもなく、したがって「超過勤務」もなかったことになりはしないだろうか。ならない。劇団側は「労働時間」の存在を承認した上でなおかつ「超過勤務」があったと認めている。とすれば、人間であり労働力でもあり「お金を生み続けるお金」と化した劇団員を「強い心理的負荷」が常に圧力としてかかり続けることがわかりきっている労働環境の中へ叩き込んだのみならず健康管理どころか逆に自殺しか残されておらず労使の信頼関係が破壊されてしまっている場所へ劇団側が追い込んだ事実を否定することは著しく困難だと言わざるを得ない。

 

さらに専門的研究の参照から見えてくることとして、このケースの場合、必ずしも「具体的行動」=「自殺」という見方しかできないわけではないのではという点について言及してみたいともおもう。自殺だけが「具体的行動」なのではない。「具体的行動」は自ら選んだ「安楽死」ということもできることに注目したいとおもう。一般的な用語として使われる「安楽死」や「尊厳死」とはかけらほども関係のない、追い詰められ、ほかに有効な選択肢を失った人々が壮絶な苦悶のうちに自ら選び取ってしまう「安楽死」でもあると言えそうにおもえる。