宝塚歌劇団劇団員「急死」問題とイスラエル極右政権による「ガザ空爆」との共通点。「排除の構造」はこうして起こる。以下、再録。
イスラエルは絶滅対象の無限の系列を持っている。この構造は排除の構造と大変よく似ており基本的には同じものだ。イスラエルにとってはお馴染みの貨幣抽出の原理を妥当させるだけで事足りる。
(1)価値形態2。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》
z量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)
(2)価値形態3。
「C《一般的価値形態》
1着の上着 =
10ポンドの茶 =
40ポンドのコーヒー =
1クォーターの小麦 = 20エレのリンネル
2オンスの金 =
2分の1トンの鉄 =
x量の商品A =
等々の商品 =
このあとのほうの形態、すなわち形態3が最後に商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えるのであるが、それは、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から除外されているからであり、またそのかぎりでのことである。したがって、一商品、リンネルが他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的に社会的な形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態をとっていないからであり、またそのかぎりでのことなのである。反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。もしもリンネルが、すなわち一般的等価形態にあるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役立たなければならないだろう。その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネルとなり、それは価値も価値量も表わしていない同義反復になるであろう。一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態3を逆にしなければならないのである。一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。こうして、いまでは展開された相対的価値形態すなわち形態2が、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われるのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.123~130」国民文庫 一九七二年)
(3)価値形態4。
「D《貨幣形態》
20エレのリンネル =
1着の上着 =
10ポンドの茶 =
40ポンドのコーヒー = 2オンスの金
1クォーターの小麦 =
2分の1トンの鉄 =
x量の商品A =
「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫 一九七二年)
(4)社会的全体的排除。
「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫 一九七二年)
(5)有徴性による覆い隠し。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫 一九七二年)
全体一致で排除された商品「金」は特権的な有徴性を打刻される。徴(しるし)付きとしてあるいは永遠に呪われた有罪者として世界市民の中で取り扱われていくほかない。ところが有徴性=徴(しるし)付きの特権性ゆえに、有徴性=徴(しるし)付きという特権性が、逆にこの排除過程を全面的に覆い隠してしまう。
排除の構造は古代社会には影も形もなかった。ユダヤ教やイスラム教やキリスト教発生の時代に見られる宗教闘争の産物では全然ない。ここ二五〇年ほどの間に出現したばかりの近代資本主義の産物にほかならない。最初に狙い撃ちにされたのがイスラエルの民。第二次世界大戦後はイスラエルが狙い撃ちする側へ転倒した。
もし今のパレスチナが仮に「日本」という名の土地だったとしよう。イスラエルの圧倒的軍事力によってたびたび軍事侵攻され追い詰められ、逆上した人々の中から幾つもの過激派が出現し「特攻隊」を編成し何度も繰り返し自爆テロを敢行し、大規模な反撃行動の場合は捕虜に獲ったイスラエル女性を脅迫して「従軍慰安婦」を編成し、終わりのない二元的軍事対立の泥沼へ突き進んでいた可能性は十分に考えられる。また、排除の構造で商品「金」の位置、有徴性=徴(しるし)付きの位置に入る人々はいつも同一とは必ずしも限らない。今の世界では大量の「移民」が世界中で排除対象として取り扱われていることは誰もが知っている通りである。
✻注 <宝塚歌劇団「急死」記者会見>で「お金を生むお金」と述べたのは、以上「排除の構造」を念頭に置いたもの。