書記は古代官僚制度の最重要部門の一つである。しかし書記たちにも「失業」があった。失業した書記たちはどうなったか。「ものを書きはじめた」。多かれ少なかれ「どの文明でもある時点で書記は『作家』として登場する」。ホッファーはいう。
「実際には、文字は発明されたのち何世紀ものあいだひたする財宝や倉庫の出入りをもらさず記録するのに用いられていた。文字は書物を書くためではなく、帳簿をつけるために発明されたのだ。われわれに残された最古の文字の使用例は、商品の送り状やリストなのである。文字の技術を生業とした書記者は文官ーーー事務官兼簿記係ーーーであった。文字は吟遊詩人や語り部の専門領域に属し、彼らは他の職人が職業の秘訣を書こうなどとは思いもよらぬのと同様、彼らのネタを書き記すことなど考えてもみなかった。何世紀ものあいだ、書記は記録をとりつづけた。彼は自分の官僚的活動範囲にきちんとおさまり、苦情ももたなければ無夢もしなかった。その後、どの文明でもある時点で書記は『作家』として登場するようになる。書記に著作をはじめさせた動機を問うなら、答えはどのばあいでも同じである。つまり、書記は失業したときからものを書きはじめたのだ」(ホッファー「オートメーション、余暇、大衆」『現代という時代の気質・P.37』ちくま学芸文庫 二〇一五年)
次に有名な事例として差し当たり、ヘシオドス、孔子、ツキュディデス、マキャベリについてこう述べる。
「ギリシアでは文字は高度に官僚化したミュケナイ文明の崩壊後に登場する。ここでもまた、フェニキアのアルファベットの導入が、社会を管理することを自分の生得権とみなしながら適当な職をみつけることのできない、素質ある書記の数をふやした。アモスの同時代人であるヘシオドスは文章技術を習得したものの、農場にとどまらねばならなかった。彼もまた自分の同胞に説教し、教授し、そしてものを書きはじめたいという衝動にかられたのだった。
中国では文字の歴史は紀元前六世紀、周の崩壊につづく『群雄割拠』の混沌期にさかのぼる。国は群をなして放浪する書記でみちあふれており、彼らは行く先々で議論し、哲学し、陰謀を企て、執筆した。孔子もそのひとりであった。多忙で目的のある生活への渇望は廃業した書記たちのエネルギーを創造的方面にふりむけたのである。
余儀なくされた無為と創造的エネルギーの発散とが結びついているという例は、古今を問わず他に幾つも浮かんでくる。ツキュディデスは情熱的な将軍であった。作家になりたいなどとは思っていなかった。戦さで兵士を指揮したかったのである。しかし戦さに敗れたあと彼は追放され、他の将軍たちが戦争をするのを眺めて切歯扼腕するほかはなかった。そこで彼はかつて書かれた中で最もみごとな歴史の一つ、『ペロポネソス戦争』を書いたのである。
マキャヴェリは生まれながらの策士だった。彼の宿望は黒幕になったり、折衝したり、策謀したり、巨頭会談をしたり、使節に立ったりすることだった。だが彼は二流の外交官としての職を失い、生まれ故郷の村に戻らねばならなくなり、村の宿屋で噂話やトランプ遊びにふけって日々をすごしていた。晩になると家に帰り、泥まみれの服を脱ぎ、礼服をまとうと、坐して『君主論』と『リウィウス論』の著作にかかったのである」(ホッファー「オートメーション、余暇、大衆」『現代という時代の気質・P.40~41』ちくま学芸文庫 二〇一五年)
かといってホッファーは、書籍や情報が溢れかえっている現代では誰もがヘシオドスやマキャベリになれると説教しているわけでは全然ない。ヘシオドス、孔子、ツキュディデス、マキャベリといった人々は「失業」によって創造的衝動が腹の底から湧き上がってきたとりわけ激烈かつ急進的な人間だった。ホッファーはまた異なる。ただ単純に、毎日仕事をし、そして読書していた。もともと読書好きだったようだが労働者仲間にもしばしば読書をすすめた。ひたすらそればかり繰り返していた。すると当時の共産主義国家ではなくアメリカで、マルクスのいうような生活様式が手に入ってきた。
「共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。共産主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、まさしくそのゆえに可能になることなのだが、私は今日はこれを、明日はあれをし、朝は《狩をし》、<そして昼>午後には《漁をし》、夕方には《家畜を追い》、《そして食後には批判をする》ーーー《猟師、漁夫、<あるいは>牧人あるいは批判家になることなく》、私の好きなようにそうすることができるようになるのである」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.66~67」岩波文庫 二〇〇二年)
一九五〇~一九六〇年代アメリカで未曾有の急激な変化に襲われた人間とは何なのか。「誰でもみな初心者」だとモンテーニュを引用する。
「死は一度しか経験できない。死に臨むときには、誰でもみな初心者なのである」(モンテーニュ「エセー2・P.291」岩波文庫 一九六五年)
ひさしぶりにモンテーニュを開いてみると、ふと目に止まった箇所がある。
「私が猫と戯れているとき、ひょっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか」(モンテーニュ「エセー3・P.35」岩波文庫 一九六六年)
実際に猫と暮らすようになって始めてそう思うようになった。