昨日、こう述べた。
(1)飼い猫の手術のため滋賀県から何度か大阪のネオベッツVRセンターまで往復した。手術当日は猫を病院へ預けて帰宅するのでその途中、一度JR大阪駅で下車し何十年ぶりになるか忘れたがジュンク堂へ寄ってみた。平積みになっている書籍の中から手に取って急いで目を通したのが小川公代「世界文学をケアで読み解く」(朝日新聞出版)。
「群像」(十二月号)で書評が載っている。
高柳聡子「答えなき問いの先へ」(『群像・2023・12・P.542』講談社 二〇二三年)
書評を読んで面白いと思った箇所がある。
「小川さん、ケアが破綻する物語はどう読まれますかと問いかけてみる。これは途方もない仕事ではないかと思う」(高柳聡子「答えなき問いの先へ」『群像・2023・12・P.543』講談社 二〇二三年)
ある残酷な笑いが腹の底から顔を覗かせるのをしばらく抑えることができなかった。アルコール依存症者を三十年もやっていると本人だけでなくいろいろな精神科医と話す機会が幾らもあるのだが、親や子や身近な人間をアルコール依存症で失い「ケア」があっけなく「破綻」してしまった「ケアする側」の人々は数知れない。この種の「破綻」は「破綻」の瞬間、家族崩壊や自他殺、カルト入信、ヤングケアラーのアルコール・薬物依存症者化といった悪循環をなして燎原の火のごとく一挙に広がる。
一方日本の精神医療の世界、特に依存症関連分野で国家規模の実績を上げている精神医療機関勤務医や開業医の医師のあいだで公然の秘密とされていることがある。アルコールに最も甘いマス-コミの「名」。巨大過ぎるマス-コミ圧力のためほとんどの医師が表立っては言わないし言えないけれども身振り(口ぱく)でほぼ一致しているのが「朝日」である。
高柳聡子のいう「小川さん、ケアが破綻する物語はどう読まれますか」。というよりその書籍の出版社がそもそも朝日新聞出版。何かといえば酒のCM、さらに今後大量増産が予定されているSUV車の絶え間ない電力確保を考えれば老朽原発再稼働を視野に入れないわけにはいかない流れをわざわざ作っているとしか見えないCM、それらを率先して流している「朝日」。絶望した若年層のカルト入信問題、福島原発「汚染水」問題、一見意味不明に見える「自他殺」問題ーーー。
もっとも、だからといって、書籍自体の価値が下落するわけではないと断っておく。
(1)では次のフレーズをあえて書き込んだ。
「ある残酷な笑いが腹の底から顔を覗かせるのをしばらく抑えることができなかった」。
さて。
この感覚は(2)で、羽鳥嘉郎が大江健三郎論の中で引用している文章にも似たような感覚に大変近いものだったといえる。
(2)「最後に、連合赤軍の一連の事件にある笑いの契機を、当時の大江健三郎が語る箇所を二つ引いておきたい。どちらの発言にも貧しさという語がみられ、後者の映像などほとんどそのまま『革命女性』へと書き込まれているように思える。
ドストエフスキイにもつねにユーモアがあって、それこそ苦渋の深みで読者を笑わすけれども、現実そのものにもそれがあります。あの事件のテレビ報道や新聞報道を見ていてそれは根本的に暗いもので、もちろん全体として笑うことはできなかった。しかし一回だけじつにみじめな笑いの穴ぼこのようなものに自分が吸い込まれるような感じがしたことがあるのです。それは軽井沢でつかまった青年に警察官が『おまえ、いまなにをしたいか』と訊ねると、『私はドストエフスキイの<カラマーゾフの兄弟>を読みたい。なぜならそこに私たちのことが書いてあるというから』といったというのでした。それは学生も、警官も、それを書いた記者もみんな『悪霊』を読んでいないことを示すものですが、学生がほんとうに獄中で<カラマーゾフの兄弟>を読みはじめることを思うと、ぼくは一瞬、陰惨な笑いが体の底から吹きあげてくるとともに、どうにもやりきれぬ彼らの具体的な貧しさ狭さに顔をつきつけたように思った。
あの事件のリンチで死んだ人たちの死体を警察が発掘し、おぜんだてしてもらった報道陣が映し出すのをテレビで見た日の夕刊に、長距離トラックの運転手と助手が衝突事故で死んだという小さな記事がありました。街道筋の食べもの屋でごはんを食べたあとで、すごい勢いで飛ばして死んだという、そのトラックの人たちは、テレビで赤軍事件の死体発掘を見ていて、それで予定の時間に遅れてすっ飛ばして死んでしまったのではないかと想像されている。そのトラック運転手たちは食堂のテレビを見ながら、あいつらは自分の思い込みでもって集団をつくって自分たち自身を隔離して、殺し、殺されて、なんという貧しい生き方をしたことか、惨めな話じゃないか、とかいって笑ったりしたと思うのですよ。それが三十分後には彼ら自身のトラックがぶつかって死んだとすると、彼らの死も、もしかしたらもっと異様に貧しくすらある死です。
しかしぼくがあらためてそれを笑えないのは、じつはぼくもこの種のトラック運転手の事故死のほうに属している人間だからですね。ですからトラック運転手の事故による死の貧しさから、自分達の死をひきだし、それになんとか豊かさを与える、いくばくかの意味を蘇らせる、そのような死に少なくとも人間らしい死というに値するだけの重さと広がりと豊かさを与えようとすることは、ぼくらに必要かと思います」(羽鳥嘉郎「大江健三郎と戯曲の体裁」『ユリイカ・大江健三郎・P.328~329』青土社 二〇二三年)
「テレビ朝日」と大手酒造メーカーと出版業界とのマッチポンプだと必ずしも断定しているわけではない。商業流通を通して互いがウィンウィンの立場を取ろうとする場合、えてして構造的にそうなる場合が少なくないにしてもである。
連合赤軍同士リンチ事件について。
連合赤軍結成前に赤軍派の旗揚組=赤軍派(大菩薩峠派)があり、リンチ事件発生以前すでに全員逮捕獄中にいた。実刑十年を終えた旗揚組は関西を拠点とした幾つかの大学で改めて学生組織化活動を始めていた。個人的にはちょうどその頃大学へ入学した際、「連合赤軍同士リンチ事件」について、実刑十年を終えた旗揚組(連合赤軍の先輩に当たる)の何人かに訊ねてみたことがある。主に関西で活動していた赤軍派と主に首都圏で活動していた京浜安保共闘とが合流してできたのが連合赤軍。先輩格に当たる大菩薩峠派より年齢は若く考え方の未熟さは隠しようもない。さらに日本全土の刑事警察機構から徹底的に追い詰められていたことも重なりとうとう山奥の山岳ベースで急速にカルト化していく。どんな政治的急進派にも共通しているが、例えば明治維新を武力闘争で獲得した薩長連合のように何十人とも何百人とも知れない内部粛清を行なっている。反薩長の新撰組の内部粛清もまた有名。カルト化しない急進主義などどこにもない。
その上で「連合赤軍同士リンチ事件」について実刑十年を終えて獄中から出てきた旗揚組に訊ねてみたわけである。答えが返ってきた。「あれは京共(京浜安保共闘)がやったんや」。思わずこけそうになった。なるほどリンチ殺害の実質的指導者は京共(京浜安保共闘)の永田洋子ではある。にしても永田一人だけではない。関西の赤軍派の後輩に当たる人間も何人かは指導部にいた。この時もまた、大江健三郎のいう「陰惨な笑いが体の底から吹きあげてくる」感覚をおぼえた。けれどもそれだけで済ませてならないのはたった今上げた次の点。
「しかしぼくがあらためてそれを笑えないのは、じつはぼくもこの種のトラック運転手の事故死のほうに属している人間だからですね。ですからトラック運転手の事故による死の貧しさから、自分達の死をひきだし、それになんとか豊かさを与える、いくばくかの意味を蘇らせる、そのような死に少なくとも人間らしい死というに値するだけの重さと広がりと豊かさを与えようとすることは、ぼくらに必要かと思います」。
ちなみに、もう何年も前から「反日」とか「親日」とかいう言葉がネット世界に氾濫している。「反日」とか「親日」とか「愛国」というのはなんなのか。
十年以上前の福島原発事故の際、日本のすべてのテレビ局は、現地で避難生活を送っている被災者を訪れた天皇と皇后とがひざまづくシーンを一斉に報じた。だが江藤淳は「天皇皇后両陛下はひざまずかなくていい」と言った。江藤淳の発言は、できる限り親しみの持てそうなソフトなイメージで日本国民の心を天皇制に繋ぎ止めておくのは何かと都合がいいと考えるアメリカ政府と日本政府とに対する告発である。さらにアメリカ政府と日本政府とが暗黙の了解のもとに舞台裏で着々と押し進めてきた「天皇の政治利用」は逆に天皇を小馬鹿にする不敬な行為ではないかという主張である。江藤淳は「天皇陛下」という映画まで作って日本政府の欺瞞的天皇利用を弾劾している。江藤淳は「親日」にも「愛国」にも見えるが政治利用反対という立場では「反日」にも見える。ことほどさように事情はずっと複合しているのだ。