白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・陰惨な笑いを露呈させる巨大マス-コミと日本政界

2023年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、こう述べた。

 

(1)飼い猫の手術のため滋賀県から何度か大阪のネオベッツVRセンターまで往復した。手術当日は猫を病院へ預けて帰宅するのでその途中、一度JR大阪駅で下車し何十年ぶりになるか忘れたがジュンク堂へ寄ってみた。平積みになっている書籍の中から手に取って急いで目を通したのが小川公代「世界文学をケアで読み解く」(朝日新聞出版)。

 

「群像」(十二月号)で書評が載っている。

 

高柳聡子「答えなき問いの先へ」(『群像・2023・12・P.542』講談社 二〇二三年)

 

書評を読んで面白いと思った箇所がある。

 

「小川さん、ケアが破綻する物語はどう読まれますかと問いかけてみる。これは途方もない仕事ではないかと思う」(高柳聡子「答えなき問いの先へ」『群像・2023・12・P.543』講談社 二〇二三年)

 

ある残酷な笑いが腹の底から顔を覗かせるのをしばらく抑えることができなかった。アルコール依存症者を三十年もやっていると本人だけでなくいろいろな精神科医と話す機会が幾らもあるのだが、親や子や身近な人間をアルコール依存症で失い「ケア」があっけなく「破綻」してしまった「ケアする側」の人々は数知れない。この種の「破綻」は「破綻」の瞬間、家族崩壊や自他殺、カルト入信、ヤングケアラーのアルコール・薬物依存症者化といった悪循環をなして燎原の火のごとく一挙に広がる。

 

一方日本の精神医療の世界、特に依存症関連分野で国家規模の実績を上げている精神医療機関勤務医や開業医の医師のあいだで公然の秘密とされていることがある。アルコールに最も甘いマス-コミの「名」。巨大過ぎるマス-コミ圧力のためほとんどの医師が表立っては言わないし言えないけれども身振り(口ぱく)でほぼ一致しているのが「朝日」である。

 

高柳聡子のいう「小川さん、ケアが破綻する物語はどう読まれますか」。というよりその書籍の出版社がそもそも朝日新聞出版。何かといえば酒のCM、さらに今後大量増産が予定されているSUV車の絶え間ない電力確保を考えれば老朽原発再稼働を視野に入れないわけにはいかない流れをわざわざ作っているとしか見えないCM、それらを率先して流している「朝日」。絶望した若年層のカルト入信問題、福島原発「汚染水」問題、一見意味不明に見える「自他殺」問題ーーー。

 

もっとも、だからといって、書籍自体の価値が下落するわけではないと断っておく。

 

(1)では次のフレーズをあえて書き込んだ。

 

「ある残酷な笑いが腹の底から顔を覗かせるのをしばらく抑えることができなかった」。

 

さて。

 

この感覚は(2)で、羽鳥嘉郎が大江健三郎論の中で引用している文章にも似たような感覚に大変近いものだったといえる。

 

(2)「最後に、連合赤軍の一連の事件にある笑いの契機を、当時の大江健三郎が語る箇所を二つ引いておきたい。どちらの発言にも貧しさという語がみられ、後者の映像などほとんどそのまま『革命女性』へと書き込まれているように思える。

 

ドストエフスキイにもつねにユーモアがあって、それこそ苦渋の深みで読者を笑わすけれども、現実そのものにもそれがあります。あの事件のテレビ報道や新聞報道を見ていてそれは根本的に暗いもので、もちろん全体として笑うことはできなかった。しかし一回だけじつにみじめな笑いの穴ぼこのようなものに自分が吸い込まれるような感じがしたことがあるのです。それは軽井沢でつかまった青年に警察官が『おまえ、いまなにをしたいか』と訊ねると、『私はドストエフスキイの<カラマーゾフの兄弟>を読みたい。なぜならそこに私たちのことが書いてあるというから』といったというのでした。それは学生も、警官も、それを書いた記者もみんな『悪霊』を読んでいないことを示すものですが、学生がほんとうに獄中で<カラマーゾフの兄弟>を読みはじめることを思うと、ぼくは一瞬、陰惨な笑いが体の底から吹きあげてくるとともに、どうにもやりきれぬ彼らの具体的な貧しさ狭さに顔をつきつけたように思った。

 

あの事件のリンチで死んだ人たちの死体を警察が発掘し、おぜんだてしてもらった報道陣が映し出すのをテレビで見た日の夕刊に、長距離トラックの運転手と助手が衝突事故で死んだという小さな記事がありました。街道筋の食べもの屋でごはんを食べたあとで、すごい勢いで飛ばして死んだという、そのトラックの人たちは、テレビで赤軍事件の死体発掘を見ていて、それで予定の時間に遅れてすっ飛ばして死んでしまったのではないかと想像されている。そのトラック運転手たちは食堂のテレビを見ながら、あいつらは自分の思い込みでもって集団をつくって自分たち自身を隔離して、殺し、殺されて、なんという貧しい生き方をしたことか、惨めな話じゃないか、とかいって笑ったりしたと思うのですよ。それが三十分後には彼ら自身のトラックがぶつかって死んだとすると、彼らの死も、もしかしたらもっと異様に貧しくすらある死です。

 

しかしぼくがあらためてそれを笑えないのは、じつはぼくもこの種のトラック運転手の事故死のほうに属している人間だからですね。ですからトラック運転手の事故による死の貧しさから、自分達の死をひきだし、それになんとか豊かさを与える、いくばくかの意味を蘇らせる、そのような死に少なくとも人間らしい死というに値するだけの重さと広がりと豊かさを与えようとすることは、ぼくらに必要かと思います」(羽鳥嘉郎「大江健三郎と戯曲の体裁」『ユリイカ・大江健三郎・P.328~329』青土社 二〇二三年)

 

「テレビ朝日」と大手酒造メーカーと出版業界とのマッチポンプだと必ずしも断定しているわけではない。商業流通を通して互いがウィンウィンの立場を取ろうとする場合、えてして構造的にそうなる場合が少なくないにしてもである。

 

連合赤軍同士リンチ事件について。

 

連合赤軍結成前に赤軍派の旗揚組=赤軍派(大菩薩峠派)があり、リンチ事件発生以前すでに全員逮捕獄中にいた。実刑十年を終えた旗揚組は関西を拠点とした幾つかの大学で改めて学生組織化活動を始めていた。個人的にはちょうどその頃大学へ入学した際、「連合赤軍同士リンチ事件」について、実刑十年を終えた旗揚組(連合赤軍の先輩に当たる)の何人かに訊ねてみたことがある。主に関西で活動していた赤軍派と主に首都圏で活動していた京浜安保共闘とが合流してできたのが連合赤軍。先輩格に当たる大菩薩峠派より年齢は若く考え方の未熟さは隠しようもない。さらに日本全土の刑事警察機構から徹底的に追い詰められていたことも重なりとうとう山奥の山岳ベースで急速にカルト化していく。どんな政治的急進派にも共通しているが、例えば明治維新を武力闘争で獲得した薩長連合のように何十人とも何百人とも知れない内部粛清を行なっている。反薩長の新撰組の内部粛清もまた有名。カルト化しない急進主義などどこにもない。

 

その上で「連合赤軍同士リンチ事件」について実刑十年を終えて獄中から出てきた旗揚組に訊ねてみたわけである。答えが返ってきた。「あれは京共(京浜安保共闘)がやったんや」。思わずこけそうになった。なるほどリンチ殺害の実質的指導者は京共(京浜安保共闘)の永田洋子ではある。にしても永田一人だけではない。関西の赤軍派の後輩に当たる人間も何人かは指導部にいた。この時もまた、大江健三郎のいう「陰惨な笑いが体の底から吹きあげてくる」感覚をおぼえた。けれどもそれだけで済ませてならないのはたった今上げた次の点。

 

「しかしぼくがあらためてそれを笑えないのは、じつはぼくもこの種のトラック運転手の事故死のほうに属している人間だからですね。ですからトラック運転手の事故による死の貧しさから、自分達の死をひきだし、それになんとか豊かさを与える、いくばくかの意味を蘇らせる、そのような死に少なくとも人間らしい死というに値するだけの重さと広がりと豊かさを与えようとすることは、ぼくらに必要かと思います」。

 

ちなみに、もう何年も前から「反日」とか「親日」とかいう言葉がネット世界に氾濫している。「反日」とか「親日」とか「愛国」というのはなんなのか。

 

十年以上前の福島原発事故の際、日本のすべてのテレビ局は、現地で避難生活を送っている被災者を訪れた天皇と皇后とがひざまづくシーンを一斉に報じた。だが江藤淳は「天皇皇后両陛下はひざまずかなくていい」と言った。江藤淳の発言は、できる限り親しみの持てそうなソフトなイメージで日本国民の心を天皇制に繋ぎ止めておくのは何かと都合がいいと考えるアメリカ政府と日本政府とに対する告発である。さらにアメリカ政府と日本政府とが暗黙の了解のもとに舞台裏で着々と押し進めてきた「天皇の政治利用」は逆に天皇を小馬鹿にする不敬な行為ではないかという主張である。江藤淳は「天皇陛下」という映画まで作って日本政府の欺瞞的天皇利用を弾劾している。江藤淳は「親日」にも「愛国」にも見えるが政治利用反対という立場では「反日」にも見える。ことほどさように事情はずっと複合しているのだ。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ177

2023年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十一月九日(木)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

窓辺をうろうろして時間を持て余している日がたまにある。今日もそんな一日。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。オラクル・シスターズ。ノスタルジックでシンプルでどこか夢見心地のゆるいロックを聴かせる。その1。


Blog21・人間(マン)から人間(ヒューマン)へ

2023年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム

現在与えられている状況を「自然」であるかのように錯覚し「畏怖する」態度はただ単なる退行でしかない。それは古代の呪術政治を現代に甦らせることにしかならない。諦めることばかり身につけた人間というのはいつどんな時でもいとも安易に思考停止へ陥る。そしてこの上なく理不尽な状況でさえ「自然の猛威」としてあっけなく従属するカルト的無思考へ着地してしまう。ついさっきまでの科学者が古代呪術政治時代の運命論者へ先祖返りしていることに気づかないという事態が起こってくる。ホッファーはいう。

 

「自然を畏怖する社会は、権力を自然と同一視してしまいがちであり、自然の猛威に逆らおうとはしないのと同じように、権力の暴虐にも反抗しようとしないものである」(ホッファー「初めのこと今のこと・P.42」河出書房新社 一九七二年)

 

近代の訪れとともに人間は人間自身の「内なる自然」がどれほど暴虐的かを知り、その取り扱い方を試行錯誤していかなくてはならなくなった。さらにこの作業は一度きりで済むような単純素朴なものではまるでなく逆に何度も繰り返し練り直されねばならない試練である。「人間(マン)」はあらかじめ「人間(ヒューマン)」なのではない。様々な他者との対話=交通を通して「人間(マン)」は初めて「人間(ヒューマン)」への過程を歩み出すのであり、常に切磋琢磨されていなければいつまで経っても破壊的な「内なる自然」の残忍さに隷属したまま、人に対しても社会に対しても暴虐の限りを尽くすことしか思いつかない。

 

「西洋においては、自治都市が、数世紀にわたり、人間精神の揺籃、異邦人を歓迎する安息所、壮観かつ強烈なドラマの舞台、自由、美術、文学、技術の苗床となっている。しかしまたこれらの都市は、悪魔の住み家、頽廃と非人間化をもたらす諸々の力の住み家ともなっている。西洋の都市は、最善の機会と最悪の影響、創造と衰退、自由と服従、富裕と貧困、華麗と悲惨、親睦と孤独の並存する場所ーーー才能、個性、悪徳、頽廃に好適な環境ーーーである。

 

この原因は自然は人間の外に存在するばかりでなく人間の内にも存在することにある。確かに都市は自然の暴虐から人間精神を解放する偉大な運動の本部である。しかし、また同時に、都市は人間が自己の内なる自然との闘いに敗北を喫する場所でもある。都市は、人間の内なる劇場、内なる原始的衝動、内なる残忍さ、つまり人間精神の暗い穴倉に巣くっている破壊的な力から、人間を解放してはいない。神とは人間(マン)を人間(ヒューマン)となす存在であるとするならば、神と悪魔が永遠の闘いを続けている場は、天国ではなく都市である」(ホッファー「初めのこと今のこと・P.43~44」河出書房新社 一九七二年)

 

ホッファーの愛読したモンテーニュにこうある。人間の思い上がりについて。

 

「そこで、今はただの人間を考察するとしよう。外からの助けを借りずに、自分の武器だけで武装した人間、その存在の名誉と力と土台のすべてである神の恩寵と認識を抜きにしたただの人間を考察することにしよう。その見事な装具の中に、どれほどの堅固さをもっているかを見てみよう。彼が他の被造物の上にもっているとするあの偉大な優越の基礎がいったいどこにあるかを、その理性の力でわかるように説明してもらいたいものである。あの蒼穹(そうきゅう)の驚嘆すべき運行、彼の頭上をかくも気高く回転する燃える天体の永遠の輝き、あの果てしない大海の恐ろしい運動が、人間の幸福と奉仕のためにつくられて、何世紀にもわたってつづいているなどと、いったい誰が彼に思い込ませたのだろうか。このみじめで、ちっぽけな被造物が、自分自身を支配することもできないばかりか、あらゆる事物の攻撃にさらされているくせに、宇宙全体の主人であり女王だなどと自称すること以上に滑稽なことが考えられるだろうか。宇宙のほんの小さな部分も知ることができないのに、これを支配するなどとはとんでもないことである。また、この世界という大きな建物の中で、自分だけがその美しさと個々の造作を認める能力をもち、自分だけでこれを建てた造物主に感謝することができ、この世界の収支決算の帳簿をつけることができるのだという特権は、いったい誰から授かったのだろうか。そんな立派な偉い役目の信任状があるなら見せてもらいたいものである」(モンテーニュ「エセー3・P.30」岩波文庫 一九六六年)

 

人間(マン)は人間(ヒューマン)へ変わることができる。なるほど「人間の内には原始的でどろどろとしたものが常に存在して」いる。だが人間は変化することができる。

 

「人間の極致が見られるのは、衝動や動機の純粋さや気高さにおいてではなく、卑劣さや野蛮さを、美的な聖的な思想および展望に転化させる人間精神の錬金術においてである。人間の内には原始的でどろどろとしたものが常に存在しており、それを加工することによって人間は特異な人間(ヒューマン)存在となる」(ホッファー「初めのこと今のこと・P.46~47」河出書房新社 一九七二年)

 

いつまでも弱者に対する破壊衝動に身をゆだねて「卑劣さや野蛮さ」を謳歌してばかりなのは少なくとも「おとな」の生き方ではまったくない。例えば今のイスラエルの軍事行動の場合、資本と不動産とをわざわざ動かす必要性が緊急に生じてきたのか、それとも再び直接欲しくなってきたのか、あるいはその両方なのかもしれないが、ジェノサイド(大量虐殺)する権利が自分たちにはあるなどというたわけたイデオロギーがそもそも思い上がり以外の何ものでもない。イスラエル自身の「原始的でどろどろとしたもの」を再び「加工」し、あらためて人間(マン)から人間(ヒューマン)へと変わってみせなくてはならない。

 

今なぜ人間(ヒューマン)からただ単なる人間(マン)へわざわざ逆行する必要があるのか。戦後七十年以上に渡り、世界の「病巣」を演じ続け、他者を「畏怖」させ続けなければならない必要性がどこにあるのか。理解に苦しむというほかない。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて602

2023年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は京とうふ藤野「鍋とうふ」。1パックの四分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食は小袋カキ鍋のカキを五個ほど。白菜の漬物。夕食前にカロナールとドンペリドンを服用。食後にヒドロモルフォン(ナルサス)服用。

 

夜間、痛みはほとんどない。午前三時頃に軽い吐き気。嘔吐なし。その後はまあまあ落ち着いている。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「IN LOVE IN VAIN」。