町田康「口訳太平記 ラブ&ピース」(3)。
連載も第三回。いわゆる「蒙古襲来」の書き方。
「文永五年正月、どえらいことが起きた。なにがあったかと言うと、蒙古が国書を送ってきて、『通好しよう』と言ってきたのである。といって対等の外交関係を結ぼうと言ってきたのではなく、そもそも冒頭に、『上天の眷命せる大蒙古国皇帝、日本国王に書を報ず』とあるのは、皇帝と王とあることから知れる通り、『属国になれ』と言ってきたのである。
これを読んで鎌倉の人たちは、『自分らは利権は欲しいから仕切らせて貰ってるけど、そんな国の根幹のことで責任、取りたくない』と思っていたから、国書をそのまま朝廷に転送して、『そっちで決めてください』とたらい回しにした。
で、朝廷はどうしたかと言うと、『自分らの代で属国になった』って教科書に載りたくないから、『とりあえず返事せんかったらええんちゃう』。『そやね。そしたら向こうもそのうち忘れるかも』みたいな感じで、変牒あるべからず、という決定を下した。だが、向こうの国書の末尾には、
聖人は四海を以て家と為す。相通好せざるは豈に一家の理ならんや。兵を用うるに至る、それ孰れか好む所ぞ。王、其れ之を図れ。不宣。(ま、言うたら儂ら家族みたいなもんや。仲良うすんのが当たり前とちゃうんけ。儂かて戦争はしとうない。それともなにけ、汝は戦争したいんけ。ま、そこら、よー、考えて返事したれや、な)」(町田康「口訳太平記 ラブ&ピース」『群像・2023・12・P.289』講談社 二〇二三年)
鎌倉と朝廷とのやりとりはありがちなのでここではおいておこう。見ておきたいのは元の恫喝文書の翻訳に関西弁を用いているところ。
「ま、言うたら儂ら家族みたいなもんや。仲良うすんのが当たり前とちゃうんけ。儂かて戦争はしとうない。それともなにけ、汝は戦争したいんけ。ま、そこら、よー、考えて返事したれや、な」。
ひとことで関西弁といってもこれはかなりこてこての濃い方言に属する。二十世紀の大阪でもここまで濃い関西弁を露骨に使う人間は稀だった。あかたも暴力団の出入りのようだ。しかし国家間の利権拡大・侵略を目指す戦争前提文書にはふさわしいと言うべきだろう。
一回目の戦いでたまたまやって来た暴風雨で元軍が壊滅的打撃を受けて引き上げ日本が喜んだことは有名。再襲来までの間の空気を町田はこう書く。
「これを知った多くの日本の武士や民衆が爆笑した。
『ははは、アホや』
だけど元の皇帝、フビライ・ハーンちゃんは諦めなかった。
『あんな奴らになめられる訳にはいかない。泣いて、<服属させてくださーい>と言うて来るまで絶対に諦めない』
と言い、建治元年、再び日本に使者を送って、服属を迫った。
『こないだの戦闘で懲りたやろ。あの時は嵐が来たんで帰ったったけど、次は本気出すで』」(町田康「口訳太平記 ラブ&ピース」『群像・2023・12・P.299』講談社 二〇二三年)
フビライ・ハーンの言葉の言い回しに注目。「懲りたやろ」でも「次は本気出すで」でもない。「あの時は嵐が来たんで帰ったったけど」。
「帰ったった」。
ほんのひと匙ほどの匙加減でしかないにもかかわらずどろどろした人間の上下関係への飽くなき執着をコミカルでありながら読者に向けて相当的確に伝達することに成功しているとともに笑いも取れていて面白い。
次に「大義」とは何か。今で言うとすれば日本政府やイスラエル極右政権がしばしば用いるイデオロギーの身勝手この上ない切り換え可能性との地続き感がよく醸し出されている。
「なぜかと言うと、当時の最先端の学問に於いては、頂点に立つ君は、徳、というものを身に備えておる必要があり、且つ又、それを輔弼する臣は、道理、を踏み外してはならず、君に徳がなく、臣が道を外せば、世が乱れ、民が困窮するので、これを排除しなければならない、という理論が確立されており、かしこいエリートはみなこれを学んでいたからである。彼らはみな口々にこう言っていた。
『高時、人間じゃねぇ』
『たたき斬ってやる』
と、これがこのように激越なのには理由があった。というのはこれが深遠な学問であり、高邁な理想であったという点で、というのは、もしそれが百パー自分の利権のためであれば、人はここまで凶悪になれず、心のどこかで、『いやー、なんか相手に悪いなー』と思ってしまうのだけれども、『俺は自分の為にやっているのではなく、高邁な理想を実現する為、いわば世の為、人の為にやっているのだ』と思うと、かなり無茶で残酷なこともできるということで、つまり、自分をそうさせているのは自分のエゴではなく、素晴らしい理念、と思うことができるのである。
もちろんその時、純粋に人を痛めつけることに快楽を感じたり、多量の利権がゲットできるというオマケもついてくるが、『そんなものは二の次、三の次、俺は必ずしもそれを目的としている訳ではない』という言い訳が立つのであり、つまり恰もハイブリッドエンジンの如くに、高邁な理想とわが利得を巧みに切り替えて、結果的に自分が気色ええ方向に驀進するのである」(町田康「口訳太平記 ラブ&ピース」『群像・2023・12・P.297~298』講談社 二〇二三年)
今回最も面白かったのは後醍醐帝と「俺」との会話。次の箇所。
「元亨二年の夏は不作で米価が高騰、銭三百文で米一斗がようよう買えるというキチガイ相場となり、富裕層はそれによって利益を得、一方、庶民は困窮した。その報告を受けた帝は、
『朕が不徳あらば天予一人を罪すべし。蒸民何の咎あつてかこの災にあへる』(責任はすべて私にある。私の一身はどうなろうとかまわない。国民が生活に困らぬようにするべきだ)と思し召し、それ以降、朝食を摂るのをやめられ、その分を飢民への施しとした。
『あー、腹、腹が減りました』
『そらそうでしょう。どうでふ、そろそろ朝餉、復活しなはらんか』
『うん、そうしょうかな。けど、どうです、庶民は。庶民の生活は』
『庶民がなんだんね』
『餓え、治ったのか』
『いえ、相変わらず餓えてます』
『なんで』
『なんでて、なんで』
『なんでて、なんでて、なんでです。なぜって朕、こうして朝餉やめて施してるのに』
『措きなはれ、あほらしもない。天下万民が餓えてまんね、あんさん一人の分を寄附したからちゅうて、どないもこないもなりますかいな』
『なるほど。わかった。ではこうしましょう』
『どないしまんね』
『市中の金持は倉に米を蓄えてるでしょう』
『へぇ。値は上がる一方だっさかいな。上がり切ったところで売って銭に替えよ思て山のように蓄えてますわ』
『それが一気に市中に出回ったらどうなる』
『そら値ぇはだだ下がりですわ』
『では、そのようにせよ』
『あっさり言いなはるけど、どなしてやりまんね』
『どうしてって、朕が誰だかわかってますよね』
『お上』
『ならば、朕が在庫出せ、と言ってるんですから出すでしょう』
『それでも嫌や言うたらどないしますねん』
『おまえ何の為に京に検非違使が居るか知ってますか』
『あ、なるほど、暴力でいきまんねんな』」(町田康「口訳太平記 ラブ&ピース」『群像・2023・12・P.299~300』講談社 二〇二三年)
一見漫才に見えるかもしれない。映画や漫画のワン・シーンとして見ることもできるだろう。しかし漫才でも漫画でも映画でもないと言えそうにおもう。おそらくこの箇所は漫画化も映画化も不可能だろう。無理やり漫画化したり映画化したり、ましてや大河ドラマ化しようと背伸びしたりしても、さらにどれほど視覚に訴えかけようとしてもたぶん失敗する。この会話の構造は「落語」だからである。ウィキペディアでは「影響があるとされる」とずいぶんぼやかして紹介されているが間違いなく「落語」である。人間椅子「品川心中」も落語の翻案としてかなりのレベルは達成されているとおもうが。
なお町田康は映画で阿部薫役を演じたことがある。関心のある読者は無理にとは言わないが気が向けば阿部薫の演奏も聴いてほしい。