白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(ささやかな読書)・方言の活用と映像化不可能な落語の応用

2023年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム

町田康「口訳太平記 ラブ&ピース」(3)。

 

連載も第三回。いわゆる「蒙古襲来」の書き方。

 

「文永五年正月、どえらいことが起きた。なにがあったかと言うと、蒙古が国書を送ってきて、『通好しよう』と言ってきたのである。といって対等の外交関係を結ぼうと言ってきたのではなく、そもそも冒頭に、『上天の眷命せる大蒙古国皇帝、日本国王に書を報ず』とあるのは、皇帝と王とあることから知れる通り、『属国になれ』と言ってきたのである。

 

これを読んで鎌倉の人たちは、『自分らは利権は欲しいから仕切らせて貰ってるけど、そんな国の根幹のことで責任、取りたくない』と思っていたから、国書をそのまま朝廷に転送して、『そっちで決めてください』とたらい回しにした。

 

で、朝廷はどうしたかと言うと、『自分らの代で属国になった』って教科書に載りたくないから、『とりあえず返事せんかったらええんちゃう』。『そやね。そしたら向こうもそのうち忘れるかも』みたいな感じで、変牒あるべからず、という決定を下した。だが、向こうの国書の末尾には、

 

聖人は四海を以て家と為す。相通好せざるは豈に一家の理ならんや。兵を用うるに至る、それ孰れか好む所ぞ。王、其れ之を図れ。不宣。(ま、言うたら儂ら家族みたいなもんや。仲良うすんのが当たり前とちゃうんけ。儂かて戦争はしとうない。それともなにけ、汝は戦争したいんけ。ま、そこら、よー、考えて返事したれや、な)」(町田康「口訳太平記 ラブ&ピース」『群像・2023・12・P.289』講談社 二〇二三年)

 

鎌倉と朝廷とのやりとりはありがちなのでここではおいておこう。見ておきたいのは元の恫喝文書の翻訳に関西弁を用いているところ。

 

「ま、言うたら儂ら家族みたいなもんや。仲良うすんのが当たり前とちゃうんけ。儂かて戦争はしとうない。それともなにけ、汝は戦争したいんけ。ま、そこら、よー、考えて返事したれや、な」。

 

ひとことで関西弁といってもこれはかなりこてこての濃い方言に属する。二十世紀の大阪でもここまで濃い関西弁を露骨に使う人間は稀だった。あかたも暴力団の出入りのようだ。しかし国家間の利権拡大・侵略を目指す戦争前提文書にはふさわしいと言うべきだろう。

 

一回目の戦いでたまたまやって来た暴風雨で元軍が壊滅的打撃を受けて引き上げ日本が喜んだことは有名。再襲来までの間の空気を町田はこう書く。

 

「これを知った多くの日本の武士や民衆が爆笑した。

『ははは、アホや』

 

だけど元の皇帝、フビライ・ハーンちゃんは諦めなかった。

『あんな奴らになめられる訳にはいかない。泣いて、<服属させてくださーい>と言うて来るまで絶対に諦めない』

と言い、建治元年、再び日本に使者を送って、服属を迫った。

『こないだの戦闘で懲りたやろ。あの時は嵐が来たんで帰ったったけど、次は本気出すで』」(町田康「口訳太平記 ラブ&ピース」『群像・2023・12・P.299』講談社 二〇二三年)

 

フビライ・ハーンの言葉の言い回しに注目。「懲りたやろ」でも「次は本気出すで」でもない。「あの時は嵐が来たんで帰ったったけど」。

 

「帰ったった」。

 

ほんのひと匙ほどの匙加減でしかないにもかかわらずどろどろした人間の上下関係への飽くなき執着をコミカルでありながら読者に向けて相当的確に伝達することに成功しているとともに笑いも取れていて面白い。

 

次に「大義」とは何か。今で言うとすれば日本政府やイスラエル極右政権がしばしば用いるイデオロギーの身勝手この上ない切り換え可能性との地続き感がよく醸し出されている。

 

「なぜかと言うと、当時の最先端の学問に於いては、頂点に立つ君は、徳、というものを身に備えておる必要があり、且つ又、それを輔弼する臣は、道理、を踏み外してはならず、君に徳がなく、臣が道を外せば、世が乱れ、民が困窮するので、これを排除しなければならない、という理論が確立されており、かしこいエリートはみなこれを学んでいたからである。彼らはみな口々にこう言っていた。

 

『高時、人間じゃねぇ』

『たたき斬ってやる』

 

と、これがこのように激越なのには理由があった。というのはこれが深遠な学問であり、高邁な理想であったという点で、というのは、もしそれが百パー自分の利権のためであれば、人はここまで凶悪になれず、心のどこかで、『いやー、なんか相手に悪いなー』と思ってしまうのだけれども、『俺は自分の為にやっているのではなく、高邁な理想を実現する為、いわば世の為、人の為にやっているのだ』と思うと、かなり無茶で残酷なこともできるということで、つまり、自分をそうさせているのは自分のエゴではなく、素晴らしい理念、と思うことができるのである。

 

もちろんその時、純粋に人を痛めつけることに快楽を感じたり、多量の利権がゲットできるというオマケもついてくるが、『そんなものは二の次、三の次、俺は必ずしもそれを目的としている訳ではない』という言い訳が立つのであり、つまり恰もハイブリッドエンジンの如くに、高邁な理想とわが利得を巧みに切り替えて、結果的に自分が気色ええ方向に驀進するのである」(町田康「口訳太平記 ラブ&ピース」『群像・2023・12・P.297~298』講談社 二〇二三年)

 

今回最も面白かったのは後醍醐帝と「俺」との会話。次の箇所。

 

「元亨二年の夏は不作で米価が高騰、銭三百文で米一斗がようよう買えるというキチガイ相場となり、富裕層はそれによって利益を得、一方、庶民は困窮した。その報告を受けた帝は、

 

『朕が不徳あらば天予一人を罪すべし。蒸民何の咎あつてかこの災にあへる』(責任はすべて私にある。私の一身はどうなろうとかまわない。国民が生活に困らぬようにするべきだ)と思し召し、それ以降、朝食を摂るのをやめられ、その分を飢民への施しとした。

 

『あー、腹、腹が減りました』

『そらそうでしょう。どうでふ、そろそろ朝餉、復活しなはらんか』

『うん、そうしょうかな。けど、どうです、庶民は。庶民の生活は』

『庶民がなんだんね』

『餓え、治ったのか』

『いえ、相変わらず餓えてます』

『なんで』

『なんでて、なんで』

『なんでて、なんでて、なんでです。なぜって朕、こうして朝餉やめて施してるのに』

『措きなはれ、あほらしもない。天下万民が餓えてまんね、あんさん一人の分を寄附したからちゅうて、どないもこないもなりますかいな』

『なるほど。わかった。ではこうしましょう』

『どないしまんね』

『市中の金持は倉に米を蓄えてるでしょう』

『へぇ。値は上がる一方だっさかいな。上がり切ったところで売って銭に替えよ思て山のように蓄えてますわ』

『それが一気に市中に出回ったらどうなる』

『そら値ぇはだだ下がりですわ』

『では、そのようにせよ』

『あっさり言いなはるけど、どなしてやりまんね』

『どうしてって、朕が誰だかわかってますよね』

『お上』

『ならば、朕が在庫出せ、と言ってるんですから出すでしょう』

『それでも嫌や言うたらどないしますねん』

『おまえ何の為に京に検非違使が居るか知ってますか』

『あ、なるほど、暴力でいきまんねんな』」(町田康「口訳太平記 ラブ&ピース」『群像・2023・12・P.299~300』講談社 二〇二三年)

 

一見漫才に見えるかもしれない。映画や漫画のワン・シーンとして見ることもできるだろう。しかし漫才でも漫画でも映画でもないと言えそうにおもう。おそらくこの箇所は漫画化も映画化も不可能だろう。無理やり漫画化したり映画化したり、ましてや大河ドラマ化しようと背伸びしたりしても、さらにどれほど視覚に訴えかけようとしてもたぶん失敗する。この会話の構造は「落語」だからである。ウィキペディアでは「影響があるとされる」とずいぶんぼやかして紹介されているが間違いなく「落語」である。人間椅子「品川心中」も落語の翻案としてかなりのレベルは達成されているとおもうが。

 

なお町田康は映画で阿部薫役を演じたことがある。関心のある読者は無理にとは言わないが気が向けば阿部薫の演奏も聴いてほしい。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ182

2023年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十一月十四日(火)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食後に目一杯遊んでやる。玩具は赤い犬のぬいぐるみ。付いている紐を噛み噛みする癖があって一週間くらい前にとうとう噛みちぎってしまった。ぬいぐるみ本体だけになったわけだがそれでも投げてやると部屋の隅から隅まで一生懸命走り回り一度ぱくりと口にくわえるとその場へ落とし次に投げてもらうのを健気に待っている。飽きるとソファでのびのび。手術の時に剃った箇所の毛もようやく目立たない程度に生え揃ってきた。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ガゼル・ツイン。elekingのインタビューで興味深いことを言っている。

 

(1)「幽霊や不吉なことに付きまとわれる性質には、ほとんど不安や憂鬱、そしてストレスがテンプレートのようにセットになっているのだと思う。物事には生理学的な繋がりがあって、幽霊のループでは、同じことを繰り返す幽霊と、同じ音を繰り返し出すことが繋がっているのではないかと感じる。このアルバムの製作時に、例えば何度もトラウマのような経験を思い返してしまうPTSDの仕組みと似ている部分が多くあることに気がついた。自分で助けを求めて行動を起こさなければ、そのサイクルを断ち切ることはできない。怪談も同じで、断ち切らなければならないループがあってーーー」。

 

(2)「次のアルバムは幽霊をテーマにして、自分はその霊媒になろうと思いついた(笑)。複数の声を通す道管になる」。

 

個人的なことを言えば、これまで重度統合失調症者の話を聞く機会が何度もあった。特徴の一つとしてどの幻覚幻聴にしてもいつも同じエピソードの繰り返し、反復ばかりだという点は一般的に割とよく知られていて最初の二、三年くらいは途轍もない恐怖と不安とを伴った逃げ場のなさを感じるということも知られている。けれども三年くらい経つと慣れてくるケースが少なくないし、基本的に同じことの繰り返しではあるものの発症の早い段階で幾つかのバリエーションがあるということに自覚的であるということなどはあまり知られていないようにおもう。

 

日本の男性患者の一例を上げてみたい。一九七〇年代に流行った玩具のミクロマンが目を光らせながらスーパーカーに乗って追いかけてくるというもの。アメリカの女性患者では定期的に吸血鬼に追いかけ回されるというもの。文化的違いは一目瞭然。

 

怪奇幻想ホラー系の音楽にせよ文学にせよ、それらを病気としての統合失調症と同じテーブルの上に載せ安易に繋ぎ合わせて語ることはもちろんできない。とはいえしかし重複する部分が多分にあることも否定できない。個人的には二十八年にわたるアルコール依存症治療とうつ病治療との間、いろいろな統合失調者と知り合うことになり、話を聞かせてもらうことができた。大いに研究欲をそそる分野だが大学の研究室ではないので資金難ゆえ諦めるほかない。その3。


Blog21・レンチン化するカルト

2023年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム

誰もが驚いた統一教会「百億円供託」問題。これまで発言してこなかったマス-コミ著名人らも珍しく参加して問題点の再整理を求める動きが活発化している。統一教会と日本政界とのただならぬ蜜月関係の一日も早い全容解明を願ってやまない。

 

一方、統一教会が追い詰められつつあるここ一年ほどの間で、その隙を突く形で、他のカルト団体の活動が水を得た魚のように活性化している。どこでか。例えば各都道府県に一つはある癌治療拠点病院。コロナの影響で面会時間制限措置が取られているうちに急伸した。

 

面会時間が十五分に設定されている場合、患者が家族や身近な人間と話をする時間を十分とすれば差し引き五分が残る。家族らが話し終えるやすぐさま違和感たっぷりの格式ばったスーツ姿で異様な数珠玉を首にぶら下げた女性が神妙な面持ちで歩み出て、残された五分間でおもむろに「手かざし」を始める。その様子を患者家族らがこれまた目を閉じ「手かざし」が終わるまで黙って突っ立っていかにも神妙そうな態度を崩そうとしない。

 

ところがかつての「手かざし」はこうではなかった。「五分でじゅうぶん」などあり得ない。大学キャンパスでよく見かけたが少なくとも「十五分」は取っていたとおもう。初回「十五分」、二回目も「十五分」と、だんだん積み重なっていくうちに入信してしまう学生は少なくなかった。そして当時の学生信者が今はかつて統一教会が採用していた「病院作戦」のような勧誘活動を真似て終末期医療で身も心も不安定な状態に陥っている無数の患者と患者家族らをどんどん勧誘して回っている。

 

あまりのもおかしいのは、残された面会時間がたとえ三分になっていたとしても今度は「三分間ぶん」の救いがあるという分割払い制度へいつの間にか変わっているだけでなく、逆に残り時間「九分」の場合、「九分ではとても足りないのですが」というようなことを患者家族へ囁きかけたりしている。これまた分割払い制。そして終末期病棟へ頻繁に出入りしているのは何も「手かざし」だけでないのは言うまでもない。患者家族は医療に何十万何百万円と要し、さらにカルト団体へ何十万何百万円と持っていかれる。

 

病院側としても「宗教」名目を盾に取られてしまえば介入できず介入する義務も権利もない。その場で突然ばったり患者が倒れて死んだという事態でも起こらない限り面会時間と財産いっぱい持って行かれていく患者と患者家族へ声一つ掛けることはできない。付け加えれば、病院内部に密通者がいないと仮定した上でさえ、なお最低でもそのような状況がまかり通っているとしか言えない点だ。現状を見るかぎり今後雨後の筍のようにまた始まりそうな他のカルト団体をめぐる幾多の訴訟についてぼうっと見ているだけにしか思われない日本政府はどう対応するのだろう。対応できるのだろうか。統一教会関連だけでもこれほど進捗の遅さを露呈しているというのに。

 

では何から手をつけるべきか。「統一教会関連訴訟と疑惑の全容解明から」。

 

なぜか。

 

(1)「先従隗始」(先づ隗より始めよ)。

 

(2)「千里之行、始於足下」(千里の行も足下より始まる/千里の道も一歩から)

 

隣国の古典一つ知らないのだろうか。知っているというのなら隣国に先駆けて自国の側が実践してみせて始めて説得力を持つ。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて607

2023年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は京とうふ藤野「鍋とうふ」。1パックの四分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずは白菜の漬物。

 

漬物は浅漬けよりさらに塩分をきった程度。タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたもの。

 

昨日夕食はスーパーのパック寿司のネタだけを五個ほど。ナスのおすまし。

 

昨日一昨日から始まった異様な浮腫(むくみ)の膨張と縮小との繰り返し。さらにモルヒネ製剤を用いてベッドで寝ている時間以外は体の奥底から常に湧き上がってくる全身倦怠感のため「もう早く楽にしてほしい」と一日三度は口にするようになった。

 

今日は午前中から母の容態が急変した場合の救急搬送先の見学と手続き並びに病室の予約に出かける。なお廉価で済む病室はどれも常に予約で一杯のため、仮に予約していたとしても必ず優先的に入室できるとは限らない。その際の一時待機のための救急搬送先がまったくないわけではないのだが、今のうちに決められることはさっさと手続きしておかないといけない。もっとも、母の場合は母自身の意向を尊重し、救急車の中であっても延命治療は断ることに決めてある。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「I’M GETTIN’ SENTIMENTAL OVER YOU 」。