白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ173

2023年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十一月五日(日)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

遊び足りない時。飼い主が布団に入ってしまうとすぐに付いてきて布団の上に乗りかかり、猫踊りとでもいうのかずいぶん適当に動き回って寝かせてくれない。さらに豆腐の空パックやぬいぐるみを布団の周りに並べ立てて盛んにアピール。仕方なくもう一度起きてシリンジを転がして遊ばせてやると嬉々として走り回る。そのうち膵臓癌闘病中の母が目を覚まして起きてくる。いま何時だとおもっているのだろう。飼い主の睡眠時間は果てしなくずれていく。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。スロウダイヴ。つい先日三曲取り上げた。もう一曲。

さらにイタリアのシューゲイズ・グループ、グレイジィヘイズから。

コルトレーンとエリック・ドルフィーが毎日のようにライブを行い切磋琢磨し合っていた頃の演奏から。

新しく登場してくる日本のアーティストも聴き逃せない。


Blog21・絶滅対象の無限の系列

2023年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

イスラエルは絶滅対象の無限の系列を持っている。この構造は排除の構造と大変よく似ており基本的には同じものだ。イスラエルにとってはお馴染みの貨幣抽出の原理を妥当させるだけで事足りる。

 

(1)価値形態2。

 

「B 《全体的な、または展開された価値形態》

 

z量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

 

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)

 

(2)価値形態3。

 

「C《一般的価値形態》 

 

1着の上着      =

10ポンドの茶    =

40ポンドのコーヒー =

1クォーターの小麦  = 20エレのリンネル

2オンスの金     =

2分の1トンの鉄   =

x量の商品A      =               

等々の商品      =

 

このあとのほうの形態、すなわち形態3が最後に商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えるのであるが、それは、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から除外されているからであり、またそのかぎりでのことである。したがって、一商品、リンネルが他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的に社会的な形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態をとっていないからであり、またそのかぎりでのことなのである。反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。もしもリンネルが、すなわち一般的等価形態にあるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役立たなければならないだろう。その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネルとなり、それは価値も価値量も表わしていない同義反復になるであろう。一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態3を逆にしなければならないのである。一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。こうして、いまでは展開された相対的価値形態すなわち形態2が、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われるのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.123~130」国民文庫 一九七二年) 

 

(3)価値形態4。

 

「D《貨幣形態》

 

20エレのリンネル  =

1着の上着      =

10ポンドの茶    =

40ポンドのコーヒー = 2オンスの金

1クォーターの小麦  = 

2分の1トンの鉄   =

x量の商品A                      

 

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫 一九七二年) 

 

(4)社会的全体的排除。

 

「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫 一九七二年)

 

(5)有徴性による覆い隠し。

 

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫 一九七二年)

 

全体一致で排除された商品「金」は特権的な有徴性を打刻される。徴(しるし)付きとしてあるいは永遠に呪われた有罪者として世界市民の中で取り扱われていくほかない。ところが有徴性=徴(しるし)付きの特権性ゆえに、有徴性=徴(しるし)付きという特権性が、逆にこの排除過程を全面的に覆い隠してしまう。

 

排除の構造は古代社会には影も形もなかった。ユダヤ教やイスラム教やキリスト教発生の時代に見られる宗教闘争の産物では全然ない。ここ二五〇年ほどの間に出現したばかりの近代資本主義の産物にほかならない。最初に狙い撃ちにされたのがイスラエルの民。第二次世界大戦後はイスラエルが狙い撃ちする側へ転倒した。

 

もし今のパレスチナが仮に「日本」という名の土地だったとしよう。イスラエルの圧倒的軍事力によってたびたび軍事侵攻され追い詰められ、逆上した人々の中から幾つもの過激派が出現し「特攻隊」を編成し何度も繰り返し自爆テロを敢行し、大規模な反撃行動の場合は捕虜に獲ったイスラエル女性を脅迫して「従軍慰安婦」を編成し、終わりのない二元的軍事対立の泥沼へ突き進んでいた可能性は十分に考えられる。また、排除の構造で商品「金」の位置、有徴性=徴(しるし)付きの位置に入る人々はいつも同一とは必ずしも限らない。今の世界では大量の「移民」が世界中で排除対象として取り扱われていることは誰もが知っている通りである。


Blog21・内閣支持率低迷に見る事務文書の「全体主義的自閉性」と「あふれる愛」

2023年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症で専門病院に入院していた頃。入院患者の大半は統合失調症者だった。といっても開放病棟なので急性期症状に陥っている患者を除き、他の入院患者とはいつでも話をすることができた。なかでも数は少ないものの薬物依存症者の話を聞いていると依存症になるまでの経過はほとんど似ている。言葉にできないような悲惨な家庭環境・教育環境・労働環境・賃金格差の悪循環を条件として出現してくるケースは今でも最も一般的。職場や学校でのトラブルよりも多い。昨今はそれらが重層的に複合し他の様々な精神疾患を併発している困難なケースが増殖している。

 

にもかかわらずそれらに関する相談窓口やケア態勢は依然として十分とは言えない。むしろ精神疾患を発症する頻度及び速度の高まりに比較して医療やケアへ繋ぐ体勢構築は逆に遅れていくばかりだ。地方都市では大病院からの紹介状を用意してもらっても地域の信頼できる個人医院を受診できるまでに三ヶ月待ちというのがざらにある。その三ヶ月のあいだに自殺、家庭崩壊、行方不明となる患者(未成年含む)は数知れず。そういう状況が日常化してしまっている。国はいったい何をどうしたいのだろう。

 

そこで考えてみたいのは「ここ十五年」に渡って与党サイドが打ち出してきた政治的スローガンに内在している「事務文書性」についてだ。それも大手マス-コミの社説や持ち出してくる論理とはまるで別のところで、内閣支持率の低迷にもかかわらず収まらない野党サイドの苛立ちや若年層の政治離れと、実は大いに関係があると考えられる。「ここ十五年」に渡る与党サイドの「人間の態度」が事務的だというわけではない。むしろその「事務文書性」が、野党サイドの苛立ちと敏感な若年層をしらけさせ政治から遠ざける「いやらしさ」を立ちのぼらせて止まないことに注意したい。それはあらかじめ「事務文書」に組み込まれ内在し構造化されている。阿部公彦は「事務文書」の「隠れた行為性」という。

 

「隠れた行為性は、多くの書き言葉から読み取られうる。とりわけ事務文書ではそうだ。事務文書には、潜在的な『行為性』がたっぷり詰まっている。なぜなら、そもそも事務文書はこちらの注意を喚起したり指示を述べたりするものだからである。繰り返しになるが、事務とは人間の現実をコントロールしようとするシステムなのである。当然、事務文書は働きかけの作用が大きくなる。しかも事をややこしくするのは、その働きかけの根にあるのが暴力ではなく愛の論理だということである。事務はつねに『これはあなたのためだ』『あなたはこれをした方がいい』(バートルビーの『しないほうがいいのですが』はこれを裏返したものに見える)、さらには『あなたに対して善意をもっている』という、主語のない呼びかけも含んでいる。事務文書は、一方では『統制された理想的な自閉』によって相手を遮断することで堅固に守られている。その特徴は揺るがぬ不動性である。冷たく硬く自閉することで、事務は安定する。『こんなことを言ってもいいですか?了解してもらえますか?』といった柔軟さは排除される。しかし、他方で事務的言語はつねに関係的になろうともする。しかも多くの人間関係と似て、愛や善意が規定のこととして前提される。そして読者に語りかけ、働きかけ、その反応を待っている。もしくは事務文書から語りかけの声が聞こえてこないような、つまりその文書に書かれている注意喚起や指示内容と無関係の人にとっては、事務文書は存在しないも同然である。事務文書を、それが示す内容とまったくかかわらない人が、徒然なるままにーーーまるで小説を読むようにーーー読むということはまずない。事務文書におけるこのような自閉性と関係性との併存は実に心地の悪いものだ。そしてこの心地の悪さこそが<である体>と<です・ます体>の使い分けに現れたような二重基準の背後にもある。事務は重い『絶対』を背負っている。事務文書は『絶対的』なもので、堅牢な自閉性に守られている。他方で、そこには必ず『漏れ』がある。そして、《まるで愛にあふれる人間のような声》を隠し持っているのだ」(阿部公彦「事務に狂う人々」『群像・2023・05・P.227~228』講談社 二〇二三年)

 

相手を苛立たせるだけでなく使い始めた本人でさえしばしば自己矛盾に陥るのにはれっきとしたわけがある。事務文書にありがちな厚かましい二重基準の同時使用がそういう事態を招く。

 

(1)「事務文書は、一方では『統制された理想的な自閉』によって相手を遮断することで堅固に守られている。その特徴は揺るがぬ不動性である。冷たく硬く自閉することで、事務は安定する。『こんなことを言ってもいいですか?了解してもらえますか?』といった柔軟さは排除される。しかし、他方で事務的言語はつねに関係的になろうともする。しかも多くの人間関係と似て、愛や善意が規定のこととして前提される。そして読者に語りかけ、働きかけ、その反応を待っている」。

 

(2)「事務文書は『絶対的』なもので、堅牢な自閉性に守られている。他方で、そこには必ず『漏れ』がある。そして、《まるで愛にあふれる人間のような声》を隠し持っている」。

 

内閣支持率を低迷させ野党を苛立たせ若年層を遠ざけるばかりの厚かましくねちっこい「いやらしさ」。日本語の「いろは」から学び直してみるのも悪くないかもしれない。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて598

2023年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は京とうふ藤野「鍋とうふ」。1パックの四分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、付属のたれを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食はカキフライの衣を剥いた中身だけを五個。カボチャの煮物を幾つか。

 

緩和ケアに用いる薬剤としてヒドロモルフォン(ナルサス)服用。初回服用後数時間で副作用の一つである嘔吐。二日間様子を見たが膵臓癌発覚以前から続いている吐き気と重なり食欲不振と全身倦怠感は収まらない。そこで十一月四日にかかりつけ医院に連絡し抗悪性腫瘍薬投与時の吐き気止め(ドンペリドン)を出してもらう。両方を服用後約三~五時間でずいぶん落ち着く。日付が変わり十一月五日午前一時頃、自分でトイレに行くことができた。懸案の吐き気は感じられず癌の疼痛も先日来のみぞおちから背中にずばっと突き刺さり突き抜けるような特に意識するほどのものは収まっている。ただヒドロモルフォンはモルヒネ製剤なので今後ほぼ確実に出てくる頑固な便秘に気をつけないといけない。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「I FALL IN LOVE TOO EASILY」。