パレスチナ、ウクライナ、ジャニーズ、宝塚、ホストクラブ、フリースクール。どれも大きな問題というよりそもそも問題なのがわかりきっていたにもかかわらず突如降って湧いたかのように演出されている点でますます問題にみえる。大手マス-コミが繰り広げる効果が絶大過ぎるため、語られていないし報道されてもいない問題、逆に覆い隠されている遥かに巨大な問題があるとおもわないだろうか。アメリカの幾つもの大都市がいま現在苦しみ抜き喘ぎ抜いている諸課題についてほんの少しばかり立ち寄ってみたいとおもわないだろうか。
毀誉褒貶いずれも受けている斎藤幸平「マルクス解体ーーープロメテウスの夢とその先」(講談社 二〇二三年)から。と言いたいところだがーーー。
その前に。
訳知りぶった老害的知識自慢腕自慢の論客(言ったもの勝ち、やったもの勝ちの強姦主義者)の言説の中にはジジェクやネグリ=ハートがもっと先に提出していた概念を勝手に取ってきたに過ぎないと言って鬼の首の一つも取ったかのように豪語している人々がいる。わざわざ喚き立てなくても読めばわかりそうなことを言い立てる高齢の論客たちは、しかし、赤軍派の登場以来、その主だったメンバーが獄中から出てきた後、面と向かって彼らと渡り合ったことがあるのか。密室に連れ込まれてなお、渡り合ったことが一度でもあるのか。中核派も革マル派も解放派も第四インターも日本共産党本部もここというところで逃げ回っていたではないか。「腕自慢、材料自慢に走りおって〜!」(雁屋哲/花咲アキラ「美味しんぼ」小学館)
まず(1)はほんの確認事項。
(1)「資本主義的生産は、利潤の最大化を果てしなく追求し、拡大し続けるが、資本が使用価値を考慮するのは、それが価値の担い手であり、価値を増殖するのに必要な範囲に限られる。使用価値が二次的なものにされてしまうことで、社会的再生産に不可欠ではない製品や、人間や環境を破壊する製品ーーー例えばSUVやファストファッション、工場畜産ーーーが、売れさえする限りで、いくらでも大量に生産される。それに対して、利潤を生みにくい財やサービスーーー教育、芸術、介護ーーーは、それがどんなに暮らしにとってエッセンシャルなものであっても過小生産される」(斎藤幸平「マルクス解体ーーープロメテウスの夢とその先・P.358」講談社 二〇二三年)
(2)もまた「資本論」からの引用。
(2)「マルクスは、『自由の国』を拡張するために『労働時間の短縮が基本的な前提条件』であると述べている。しかし、資本主義がいかに生産力を発展させても、二十世紀から二十一世紀にかけて労働時間が減少することはなかった。それどころか、近年では、不安定で低賃金の仕事が増えているため、人々はこれまで以上に長時間働くことを強いられている。また、資本の価値増殖のための大量生産は、広告、マーケティング、金融、コンサルティングなどの非エッセンシャルな仕事を増やす。マルクスは、資本主義の発展にとともに必然的に増加する、無駄な仕事について、次のように書いている」(斎藤幸平「マルクス解体ーーープロメテウスの夢とその先・P.359」講談社 二〇二三年)
どう書いているか。
「資本主義的生産様式は、各個の事業では節約を強制するが、この生産様式の無政府的な競争体制は、社会全体の生産手段と労働力との最も無限度な浪費を生みだし、それとともに、今日では欠くことのできないにしてもそれ自体としてはよけいな無数の機能を生みだすのである」(マルクス「資本論・第一部・第五篇・第十五章・P.43」国民文庫 一九七二年)
マルクスのいう「この生産様式の無政府的な競争体制」というフレーズを覚えておこう。そして「それ自体としてはよけいな無数の機能を生みだす」とあるわけだが具体的にどういうことか。斎藤はいう。
(3)「資本主義的生産のパラドクスは、労働力の再生産費に対応する『必要労働時間』が、実際には膨大な量の不必要な製品の生産に費やされているということである。言い換えれば、社会的・生態学的な視点からすれば『必要労働』の大部分はすでに『不必要労働』なのである。このことは、『ブルシット・ジョブ』、つまり労働者自身さえも社会にとって無意味だと自覚しているような仕事が蔓延していることからも明らかである。将来社会においてこうした無意味な仕事が除去されたとしても、それらは最初から無意味で使用価値を生まない非生産的な仕事であるため、社会の繁栄や人々のウェルビーイングに否定的な影響を与えることはない。むしろ、ウェルビーイングは上昇しさえするだろう。なぜなら、人生の大部分を無意味な仕事に費やすことはメンタル・ヘルスにとって極めて有害であり、これらの仕事はまた、過剰な広告、スラップ訴訟、株の高速取引といった無意味な営為を大量に生み出しているからである。さらに、この種の無意味な労働は、多くのエネルギーと資源だけでなく、彼らの活動を支えるためのケア労働をも浪費する」(斎藤幸平「マルクス解体ーーープロメテウスの夢とその先・P.360」講談社 二〇二三年)
いま現在のアメリカの大都市を覆い尽くしている「無政府状態」。さらに世界最大の「メンタルヘルス」大国アメリカ。「メンタルヘルス」問題については特に高齢老害的知識自慢腕自慢のマルクス主義論客(言ったもの勝ち、やったもの勝ちの強姦主義者)はほとんど何一つ知らないだろう。知っているというのならなぜ今なお無益に等しいような自殺行為=党派闘争に打ち込めるのかまるきり気が知れない。もっとも、まったくの無益ではないとしても休憩時間は必要だろう。休憩とは何か。労働、投機、睡眠などいずれもただ一人だけで動いているわけでは全然ない。どんな活動であれその「活動を支えるためのケア労働」なしに人間とその集団は何一つすることができない。
極右集団、極左集団、その他いろいろ、人間である以上何らかのメンタルヘルスなしに生きていくことは決してできない。例えば音楽を必要とする人の場合。労働歌であれ単なるポップスであれ。
斎藤はMEGAから引いている。
「真に自由な諸労働、例えば作曲は、途方もなく真剣な行い、全力をふりしぼった努力なのである。物質的な生産の労働がこのような性格をもつことができるのは、ただ、第一に、労働の社会的性格が措定されていること、第二に、労働が科学的な性格をもち、同時に一般的労働であること(「資本論草稿集」2、340頁)」(斎藤幸平「マルクス解体ーーープロメテウスの夢とその先・P.360」講談社 二〇二三年)
なお斎藤は「それ自体としてはよけいな無数の機能」として「広告、マーケティング、金融、コンサルティングなど」を上げる。だがそれらだけでなく頻繁に繰り返されるわりには無駄の多いIT関連の「モデルチェンジ」を付け加えたいとおもう。
アメリカでさらに深刻な「無政府状態」を出現させる「てこ」の役割を演じているのは言うまでもなく「マーケティング、コンサルティング」だ。「不可視の管理」と巨大プラットフォーマーによる世界支配。ドゥルーズはいう。
「市場の獲得は管理の確保によっておこなわれ、規律の形成はもはや有効ではなくなった。コストの低減というよりも相場の決定によって、生産の専門化よりも製品の加工によって、市場が獲得されるようになったのだ。そこでは汚職が新たな力を獲得する。販売部が企業の中枢ないしは企業の『魂』になったからである。私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す。規律が長期間持続し、無限で、非連続のものだったのにたいし、管理は短期の展望しかもたず、回転が速いと同時に、もう一方では連続的で際限のないものになっている。人間は監禁される人間であることをやめ、借金を背負う人間となった。しかし資本主義が、人類の四分の三は極度の貧困にあるという状態を、みずからの常数として保存しておいたということも、やはり否定しようのない事実なのである。借金させるには貧しすぎ、監禁するには人数が多すぎる貧民。管理が直面せざるをえない問題は、境界線の消散ばかりではない。スラム街のゲットーの人口爆発もまた、切迫した問題なのである」(ドゥルーズ「記号と事件・政治・追伸ー管理社会について・P.363~364」河出文庫 二〇〇七年)
アメリカはもはや単独では自分自身に耐えられなくなり半分壊れてしまっている。一九六〇年~七十年代のマルクスをめぐる党派闘争についてどれほどぴいちくぱあちく多弁に語って見せることができるおしゃべり老害半壊知識人であっても、一九八〇年代に急増したアメリカの多くのエリートたちが朝からアルコールとカフェイン入りのエナジードリンクで大量のビタミン剤をあおって出社し、なかには昼間に電話ボックスでコカインを飲み下しながら午後の仕事をばんばん片付け、ネイティヴそっくりの外国語を「自然」に披露する「不自然」さを無自覚なネイティヴから称賛される滑稽さについて何をどれくらい知っているというのか。そんな身勝手きわまる八十年代アメリカの華々しいエリートは自身で「彼らの活動を支えるためのケア労働をも浪費」しておきながら、今やその子どもたちが大人になって「彼らの活動を支えるためのケア労働」をさらなる危機に陥れている。
アメリカを覆い尽くしている「不可視の管理」と「無政府状態」。その「卑劣さや野蛮さ」。ホッファーはいう。
「人間の極致が見られるのは、衝動や動機の純粋さや気高さにおいてではなく、卑劣さや野蛮さを、美的な聖的な思想および展望に転化させる人間精神の錬金術においてである。人間の内には原始的でどろどろとしたものが常に存在しており、それを加工することによって人間は特異な人間(ヒューマン)存在となる」(ホッファー「初めのこと今のこと・P.46~47」河出書房新社 一九七二年)
日本は何の躊躇もなしにアメリカ政府に追従していくしか態度の取り方がないだろうか。むしろ日本人はアメリカ一辺倒主義からきっぱり「足を洗い」、人間の内面に巣食う「原始的でどろどろとしたもの」を「加工」し、ただ単なる人間(マン)から人間(ヒューマン)へ向かう道へ一歩ずつ踏み出す選択を準備することのほうがよほど大切なのではと思わずにはいられない。
なお「その3」はあるのかないのか未定。多忙ゆえ。