今度のガザ空爆と「旧約聖書」からの引用との間には天と地ほどの乖離・切断がある。宗教的側面に注目して言えば、両者はほとんどと言っていいほど繋がっていない。「創世記」第一章から二箇所引いてみよう。
(1)「『われわれは人をわれわれの像(かたち)の通り、われわれに似るように造ろう。彼らに海の魚と、天(そら)の鳥と、家畜と、すべての地の獣と、すべての地の上に這(は)うものとを支配させよう』」(「創世記・第一章・P.11」岩波文庫 一九五六年)
(2)「『ふえかつ増して地に満ちよ。また地を従えよ。海の魚と、天の鳥と、地に動くすべての生物を支配せよ』」(「創世記・第一章・P.11」岩波文庫 一九五六年)
ヤハヴェの神は厳命している。まず産むこと。次に産み増やすこと。そして天空から地と海に至るすべての生物を支配すること。そのために地上を隈なく従属させねばならないと。
しかしこれはあくまで古代宗教の「聖典」では多かれ少なかれどの宗教にも見られる全体主義的態度の典型例でしかない。自分たちこそ唯一の神に選ばれた絶対的「優等民族」であるという「優生思想」。他の宗教は「劣等民族」であり地上から一掃されるべき邪魔者かつ敵であって殲滅されなければならないというイデオロギー。また「出エジプト記」を見れば明らかなように他の様々な勢力・民族から差別され迫害されるに至ったこと自体が「神から与えられた試練であり神によって選ばれた何よりの証拠である」とする逆説的ロジックの駆使。
ところが問題は近代以降なのだ。天と地ほどの乖離・切断にもかかわらず、言語的ロジックの常で、いつでも再接続してしまえるというところを焦点化しない限り、今のパレスチナ戦争の内実というものはまるで見えてこない。
「まず産むこと。次に産み増やすこと。そして天空から地と海に至るすべての生物を支配すること。そのために地上を隈なく従属させねばならない」。
紀元前三世紀頃の「旧約聖書」から読み取れる恐ろしく古いこの言葉は近代に入るやいなやがらりと意味を置き換えた。明治維新以降の日本でいえば「産めよ、増やせよ、八紘一宇」。帝国主義的不動産拡張と資本増殖、さらには同一言語の強制によるすべての他者の支配従属とを目指す軍事経済へすり換えられた。
今の大手マス-コミは表立ってそれが言えない。量的多寡はあるにしてもどの産業部門も他の産業部門とありとあらゆる部分で繋がりあってしまっていて、テレビ画面に堂々と表示される大手スポンサー企業の商品一つ取ってみてもその製造過程で実際に用いられている数々の部品は下請け、二次下請け、三次下請けといった町工場レベルにまで裾野の広がりを持つ。武器供給企業は堂々と名前を出せるが痛くも痒くもない。もし地球からすべての戦争がなくなったとしたら食べていけなくなるのは下請け、二次下請け、三次下請けといった町工場レベルの従業員とその身近な人々であって、巨大ブランドとして君臨する武器供給企業は下請けが倒産すれば他から別の下請けを拾い上げればいいだけで自らのブランドは傷一つ付かない。そして大手マス-コミがそれらスポンサーに依存して生きている以上、長い年月をかけて身動きしようにも身動きできないような図太い人脈・金脈と相互依存関係を築き上げてきた。
ところが特にパレスチナ問題の場合、戦争を始めさせることができる人々は戦争を終わらせることができる人々でもある。少なくとも東西冷戦を知っている人々(知識人はもちろん)なら、この事情を知らないとは口が裂けても言えないに違いない。