アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。
末期癌の母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。
午前六時。
前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は藤野「温めて食べるおぼろ豆腐」。冷え込んだ朝にはちょうどいいらしい。三分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、付属のたれをかけ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずは白菜の漬物。
漬物は浅漬けよりさらに塩分をきった程度。タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたもの。
昨日夕食。再びスーパーのパック寿司に挑戦したいと母はいう。わがままというか結構気まぐれ。そこでやや慌てつつもさしあたり皿に並べたのは八個の寿司ネタ。酢飯は酸っぱすぎるのでいつも通り食べない。ところが今回もまた寿司ネタだけなら八個ともすべて平らげた。ご飯は家で炊いたものを少し。
終末期患者の場合「わがまま」は通させるのがいい。偏りはあるにせよ生きる意欲が残っている。
母のわがままと気まぐれは息子が子どもの頃からの癖で一九七〇年代の消費行動にも現われていた。だからといってお金持ちとはほど遠いどこにでもある一般家庭の「中の下」レベル。使えるお金はあらかじめ限られている。ほとんどは食材に消えていく。それでも二週に一度くらいは近くの百貨店の一つも訪れ、そこそこゆっくり衣料品フロアを見て回る余裕はあった。家から近い順にいうと「高島屋」、「藤井大丸」、「大丸烏丸店」。
そんなとき息子は「荷物持ち」と称してこそこそ付いていく。高島屋の中にレコード店があり、ここでシングルレコード一枚はまず確実にゲットできた。大丸烏丸店まで足をのばす場合、帰りに脇道にそれたり交差点を少し折れたりすればすぐ幾つかの書店を覗くことができた。そんな時は文庫本を一冊ゲット。
わがままや気まぐれでもただ単なる老人の「わがまま」とか「気まぐれ」ではなく、かつて繰り返し経験し身に染み込んだ消費形態と同じパターンが見えてくると案外会話に幅を持たせることができる。母はお金持ち生活を知らない。だからかどうかは別として、「かつて繰り返し経験し身に染み込んだ消費形態と同じパターン」の再出現は今の出費の限度を越えることがなく、むしろ好奇心まで失われていないことの証拠にも見える。すると介助する側の気持ちも少しは持ち直そうという気が湧いてくる。
参考になれば幸いです。
今朝の音楽はスタン・ゲッツ「YESTERDAYS」。