パレスチナ戦争報道の中で流れた「核攻撃の準備がある」という発言。それは決して言うべきではない。発言自体、許されるべきではない。そしてまた、どんな同盟国であれ一切支持してはならないと言わねばならないし逆に「核には核を」と口をすべらせてもいけない。
人間の「《意識を発達させたのは》、私たちと《『外界』との関係》である」とニーチェはいう。さらに「外界」との関係についてこうもいう。「意識は《伝達の手段》にすぎず、それは、交通において、また交通への関心に関して発達してきているーーーここで『交通』とは、外界の影響と私たちの側でそのさい必要な反作用のこととも、同じくまた、外界に《向かっての》私たちの働きかけのこととも解される」。
「『意識』の役割をとらえそこねないことが肝要である。すなわち、《意識を発達させたのは》、私たちと《『外界』との関係》である。これに反して、肉体的諸機能の協同に関する《指導》、ないしは監督や配慮は、私たちの意識にのぼることが《ない》。それは、精神の《貯蔵作用》がそうであるのと同様である。もっとも、これに対して一つの最高法廷が、すなわち、さまざまの《主要欲望》がその発言権や権力をふるう一種の指導委員会があるということは、疑いえない。『快』、『不快』はこのような領域からの合図である。《意思作用》も同様であり、《観念》も同様である。
《要約すれば》、意識されるものは因果的連関のもとにあるが、この連関は私たちには全然不明なのであるーーー思想、感情、観念が意識のうちで次々とあらわれる継起は、この継起が因果的継起であるということに関して、何ごとも言いあらわしてはいない。しかしそれは、最高度にそう《見える》のである。この《仮象性》をもととして私たちは、《精神、理性、論理など》という私たちの全表象を《根拠づけ》(ーーーこれらのものはすべて存在してはおらず、それらは虚構された綜合であり統一である)、これらのものをふたたび事物の《うちへと》、事物の《背後へと》投影してきた!
ふつうには《意識》自身が総体的感覚中枢であり最高法廷であるとみなされている。ところが、意識は《伝達の手段》にすぎず、それは、交通において、また交通への関心に関して発達してきているーーーここで『交通』とは、外界の影響と私たちの側でそのさい必要な反作用のこととも、同じくまた、外界に《向かっての》私たちの働きかけのこととも解される。意識は教導のはたらきでは《なく、教導の一機関》である」(ニーチェ「権力への意志・下・五二四・P.61~62」ちくま学芸文庫 一九九三年)
ニーチェとはまた異なるが、人間と自然との関係について、エリック・ホッファーはこういっている。
「人間は自然に助けられてではなく、自然にさからって今日のようになったのだ。人間化とは自然からの離反、自然を支配する厳しい必然性の下からの脱出を意味したのである。そうしてみると、非人間化とは自然による人間の馴致(じゅんち)ということになる。それは自然の回復を意味するのである。人間化が人間は未完成で欠陥のある動物だという事実からはじまったということは意味深長である。自然は最初から人間をけちくさく扱ったのであった。自然は人間を裸で無力の状態で、生まれつきの技倆もなく、武器や道具として人間に役だつ特殊化した器官もなしにこの世に生み出したのである。他の動物とは異なり、人間はつくりつけの道具一式をそなえた生まれながらの技術家(テクニシャン)ではなかったのだ。人間が数千年のもあいだ、動物、すなわち自然が人間よりも可愛がっている子供を拝していたのもさして驚くにたらない。しかし、この生まれそこないの生きものは自分を地球の王者にしてしまった。彼は自分に欠けている本能や特殊な器官のすぐれた代用品を進化させ、自分自身を世界に適応させるよりはむしろ世界を自分に合うように変えてきたのである」(ホッファー「自然の回復」『現代という時代の気質・P.107~108』ちくま学芸文庫 二〇一五年)
この「彼は自分に欠けている本能や特殊な器官のすぐれた代用品を進化させ、自分自身を世界に適応させるよりはむしろ世界を自分に合うように変えてきた」というフレーズ。マルクス=エンゲルスをおもわせる。
「ブルジョア階級は、すべての生産用具の急速な改良によって、無制限に容易になった交通によって、すべての民族を、どんなに未開な民族をも、文明のなかへ引きいれる。かれらの商品の安い価格は重砲隊であり、これを打ち出せば万里の長城も破壊され、未開人のどんなに頑固な異国人嫌いも降伏をよぎなくされる。かれらはすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、すなわちブルジョア階級になることを強制する。一言でいえば、ブルジョア階級は、かれら自身の姿に型どって世界を創造するのである」(マルクス=エンゲルス「共産党宣言・P.45」岩波文庫 一九五一年)
ところがホッファーはそこで思考停止してはいない。人間の思い上がりについて述べる。モンテーニュの次のフレーズが頭にあったのはほぼ間違いない。
「そこで、今はただの人間を考察するとしよう。外からの助けを借りずに、自分の武器だけで武装した人間、その存在の名誉と力と土台のすべてである神の恩寵と認識を抜きにしたただの人間を考察することにしよう。その見事な装具の中に、どれほどの堅固さをもっているかを見てみよう。彼が他の被造物の上にもっているとするあの偉大な優越の基礎がいったいどこにあるかを、その理性の力でわかるように説明してもらいたいものである。あの蒼穹(そうきゅう)の驚嘆すべき運行、彼の頭上をかくも気高く回転する燃える天体の永遠の輝き、あの果てしない大海の恐ろしい運動が、人間の幸福と奉仕のためにつくられて、何世紀にもわたってつづいているなどと、いったい誰が彼に思い込ませたのだろうか。このみじめで、ちっぽけな被造物が、自分自身を支配することもできないばかりか、あらゆる事物の攻撃にさらされているくせに、宇宙全体の主人であり女王だなどと自称すること以上に滑稽なことが考えられるだろうか。宇宙のほんの小さな部分も知ることができないのに、これを支配するなどとはとんでもないことである。また、この世界という大きな建物の中で、自分だけがその美しさと個々の造作を認める能力をもち、自分だけでこれを建てた造物主に感謝することができ、この世界の収支決算の帳簿をつけることができるのだという特権は、いったい誰から授かったのだろうか。そんな立派な偉い役目の信任状があるなら見せてもらいたいものである」(モンテーニュ「エセー3・P.30」岩波文庫 一九六六年)
ホッファーの言葉でいえば人間のはなはだしい思い上がりというのは、人間の外界の「自然」ではなく人間の内面というもう一つの「自然」である。この思い上がりは原爆投下をも思いつき実際に投下してみせるところまでいく。
「都市の誕生は人間の自然からの離反における決定的な一歩であった。都市は人間を非人間的な宇宙からばかりでなく、部族、種族その他原始的な組織形態から切り離したのである。多かれ少なかれ自律的な個人の住む自治的な都市は、これまで自由、芸術、文学、科学、技術の揺籃(ゆりかご)であった。しかし、われわれをとりまく自然に対する要塞である都市は、われわれの内部にある自然、欲望や恐怖に、そして心の深層にひそんでいる自然からわれわれを守ることはできない。人間の欲望や恐怖が思うままに活躍し、非人間化が疫病のように蔓延するのは都市においてである。とりわけ権力への欲望はそれ自身が反人間的であることを示したのである。われわれが権力を満喫するのは、山を動かしたり川の流れの方向を左右したりするときではなく、人間を物体、ロボット、傀儡(くぐつ)、自動人形、あるいは本物の動物に変えることができるときなのだ。権力とは非人間化する力であって、この権力欲が働きかける対象を見いだすのは都市においてである。どんな個人よりも、大衆化した人間を非人間化するほうが容易なのだ。かくして都市はこれまで、人間をその生まれきたった自然の母胎へと押しもどすほうに向かうすべての運動や発展の飼育場なのであった。
自然とのたたかいの重大な特徴はその循環性である。勝利と敗北はたがいに浸透しあう。人間がまさにその究極の目的に手が届きそうにみえるとき、彼は自分がわなにかけられているのを発見することがあるのだ。わなや落し穴はいたるところに仕掛けてあり、自然は思いもよらぬ方角から打ちかえしてくる。ごく最近の例は原子の核分裂である。人間は自然の金庫を破壊したが、実は病気や悲嘆や悪鬼の入ったパンドラの箱を壊して、全滅をもたらす有毒なきのこ雲を放ってしまったことに気づいたのである」(ホッファー「自然の回復」『現代という時代の気質・P.109~111』ちくま学芸文庫 二〇一五年)
そんな傾向についてホッファーは「権力」を持った「知識人」の「腐敗」としてこう語る。
「なぜ権力は他のタイプの人間以上に知識人を腐敗させるのだろうか。その理由のひとつは、教育が個々人を人間性の改革と刷新の仕事にそなえさせ、魂の操縦者、そして望ましい人間的属性の製造者として行動すべく用意させるからだと推測することができる。このため、権力が行動の自由を与えたとき、知識人は人間性を型にはめ加工することのできる材料と同様に扱ってしまいやすいのである。彼は人間本性の予測困難さと扱いにくさによって計画を妨げられることのないよう、事をはこぶ。権力をにぎった知識人における反人間性は、たんに彼の非人間性の一機能にとどまらない。なるほど知識人のエリートは他のどのエリートよりも人類や国家への奉仕を誓っている。が、人間を天使に変えることを望む救済者は、人間を奴隷や動物に変えようと望む人非人に劣らず、人間の本性を憎むことになるのだ。人間は現在あるものとはまったく異なる存在に加工される前に、まず人非人にされ、物体に変えられねばならない」(ホッファー「自然の回復」『現代という時代の気質・P.122』ちくま学芸文庫 二〇一五年)
人間はどんなふうにでも「加工できてしまえる」ということが前提されている。いかようにも「カルト化」できてしまえる。「反知性主義者」にもなれてしまう。だがしかし「加工できる」とすればもっと別の方向へも「加工できる」ばかりか実際のところ、大変多くの人々がある共同体の中か外かを問わずずっと違った「自由、芸術、文学、科学、技術」へ力を向け換えてきたし向け換え可能だと述べる。